第七十二話 格差 1/2
無言の時間がしばらく続いた。いや、正確に言うとその間にエルデは誰にも聞こえないような小さな声を一度発していた。精杖ノルンを攻撃ルーン用の真っ黒なウルドに変化させていたのだ。
相手はこちらの出方をうかがっているのだろう。動く様子がない。
建物が一瞬で崩壊したにもかかわらず、浮き足だった様子が無い部隊。
こちらが何者かを判断するまで手を出さない慎重さ。
相手は相当に鍛えられた部隊だとエイルは判断した。そしてその部隊を統率する人間が凡庸な人物ではないであろうということも。
(敵また敵、か……。しかも全部強敵と来た……)
エイルは自嘲気味に心の中でそうつぶやいたが、その時になって少し前の記憶がよみがえった。
「なあ?」
「何や?」
「お前さ」
「何やねん?」
「さっきの【淡黄の扇(たんこうのおうぎ)】を、証拠すら調べずに有罪みたいに決めつけてただろ?」
「は? いきなり何の話や?」
「いや、なんでかなって思ってたんだけど、今思い出した」
「話が全く見えへんねんけど?」
「【蒼穹の台(そうきゅうのうてな)】の情報があったからなんだよな?」
「……ふん、唐突に何を言い出すかと思えば、三週遅れやっちゅうねん、スカポンタン」
確かに脈絡はないかもしれない。だがエルデは相手を敵と決めつけた行動をとっている。そして確かに相手はエルデの敵としてふさわしい存在のようであった。だが、エイルとしては、もし間違っていたら、という思いが胸の奥底からどうしても消えなかったのだ。
敵である事はいい。だが、エルデの判断基準を共有して、そのほんの少しのわだかまりを消せるなら、それに超した事はないと考えていた。そして今、その答えにたどり着いたというわけである。
エルデが自ら証拠を確認しないままランディを断罪対象とし、問答無用で排除行為に出た理由……。
それはイオスがあらかじめエルデに与えていた情報のせいだったのだ。
龍の道でイオスに出会った際、彼はこう言ったのだ。
『ファランドールが今、どうなっているのかを知れ』 と。
ラウに会って、その情報の詳細を聞けと。
謎めいていて、そしてあやふやすぎる表現である。だがエルデはそのあやふやな部分にキセン・プロットの言葉を加える事で、何らかの形を掴んだのだ。
後追いではあるが、そう考えるとエイルにもおぼろげながら見えるものがあった。そしてそこにさらにイオスの言葉を重ねればいいのだ。
イオスはアプリリアージェにこう言ったのではなかったか?
『正しいものを探そうとするのではなく、信じるものを決めるんだ』
ファランドールが今、大きく動こうとしている事はエイルも気づいていた。その情勢下で価値観の絶対値など求めようとしてはいけないのであろう。エルデはおそらくイオスの二つの言葉を実践したのだ。ファランドールは動いている。それは正教会に於いても同様なのだ。賢者が新教会に寝返る。信じたくはないが、嘘をついているとは思えないキセンの言葉を信じるならば、正しい「はず」だという価値観を見直さねばならない。
そしてエルデは素直に自分の信じるものを選んだ。
そういうことだったのだ。
ならば、答えは単純である。
エイルはエルデを信じるだけなのだから。
「誰も信じるな」
そううそぶくエルデを信じる事が、ファランドールにおけるエイルの存在意義そのものだと言ってもよかった。
エイルは小さくため息をついた。吐息とともにほんの少しのわだかまりが体から抜けていくのがわかった。
「オレはお前を信じる」
「はあ? いったいどうしたん? 悪いもんでも食うたんか?」
「いや、今食べ物の話はやめろ。どんだけ腹が減ってると思ってるんだよ」
「あ、ウチも今、めっちゃお腹がすいてきた」
この緊急事態に於いて空腹を感じるというのは、落ち着いている証拠なのだろう。エイルはそう思うとおかしさがこみ上げてきた。窮地が窮地に思えないのだ。おそらくそれはエルデと一緒にいるからなのだろう。そしてエイルは、エルデも同じ気持ちであればいいと思った。
「ぜんざい、また食べたいな」
「まだ食うのかよ!」
「お前達は何者だ?」
小声でしゃべっていた二人の声は相手には届いてはいないだろう。相手にしてみれば、沈黙を最初に破った形である。
その声はエイル達の正面から響いた。
大して大きな声を出しているわけではない。だが鋭く、そして明瞭に、声はエイル達の耳に届いた。
フェアリーかルーナーか。どちらにしろいずれかの能力を持つ者である可能性が高いと判断すべきであろう。どちらにしろ声をかけてきたということは、会話の余地はあるという事だ。少なくともいきなり攻撃を仕掛けてはこないと思われた。
「我々は争いをよしとしない。要らぬ戦いはしたくない。ここは素直に道を空けて通してはもらえないか?」
エルデは良く通る澄んだ声でそう答えた。普段の古語ではなく、標準語である南方語で。
「と言うてハイそうですか、と通してくれるアホはおらんわな」
続いてエイルにだけ聞こえるように、そうぼそっとつぶやいた。
「この状況下に於いて、そう言われたからと言って『わかりました。はいどうぞ』と通してもらえる可能性があると本気で思っているのか?」
相手からは、まさに今エルデの想定したとおりの答えが返ってきた。
「勘違いするな」
予想通りの相手の反応に対して、エルデはあらかじめ用意していた台詞を披露した。
「余はお前達のために言っている。何人いる部隊かは知らんが、ここで全滅したくなければ、何も見なかった事にしてさっさと立ち去る事だ」
エルデの声はきわめて落ち着いていた。そこにはランディとの戦いで見せた焦りはない。かと言って必要以上に自分を鼓舞するような力も込められてはおらず、まるで日常の挨拶をするような淡々とした静かな声だった。
「全滅だと?」
対して相手は声の調子を変えた。
「聞こえなかったのならもう一度言おう。全滅だ」
すかさずエルデがそう答えると、相手は声を出して笑った。
「こりゃ傑作だ。百人以上ものフェアリーとルーナーで固めた俺達の部隊が、小娘と小僧のたった二人相手に全滅させられるとはな。後世に残る事件になるぜ」
文字通り後世に残る事件として記録されることになるのだが、もちろんエルデやエイルをはじめその場にいた当事者のあずかり知らぬ事である。
「今思いついた事を言おう」
笑いながら答える相手に、エルデはしかし、同様に淡々とした口調で返した。
「何だ?」
「これは経験上感じた事だが……こういう状況で高笑いする輩は、相手の事をよく知りもせずに自分が絶対優位にあると信じて疑わぬ雑魚と相場が決まっている。名を尋ねようかと思ったが、その気も失せた」
「何だと?」
エルデの挑発に、相手は素直に乗った。それをみたエイルも相手が予想以上に小物ではないかと感じはじめていた。
とは言え、エルデはこの状況をいったいどう打開するつもりなのか……。ランディ一人であれほど苦戦を強いられたのだ。相手が上席賢者に匹敵する高位のルーナーであった場合、たとえエルデが亜神であろうと、ハイレーンである限り、戦いに於いては相当に不利である事は既に自明といえた。
相手がランディの護衛かどうかはわからない。ランディより上位のルーナーではない可能性は高いが、そうは言ってもあの自信ありげな態度から察するに、雑魚ではあるまい。それなりの実力を持つ相手である事はもちろん想像がつく。
そしておそらく……。
「貴様の考えを当ててやろう。たとえこっちがいくら強いルーナーやフェアリーであろうと、予めこの場に仕込んでおいた精霊陣があるから万全と考えているのだろう? 加えて自分の力は相手が高位ルーナーであろうと、それを凌駕する程強いとでも思っているのだろうな。我らがたとえ正教会の賢者であろうが、はたまた新教会の僧正であろうが、な」
エイルの考えていた点もそこだった。相手は精霊陣を敷いているに違いない。エイルが相手の立場であったなら、そして自分が率いている部隊にルーナーがいるのであれば、間違いなくそうするだろう。
だが、エルデの口調から察するに、精霊陣の存在など歯牙にもかけていないかのようだった。
「ふ。俺もなめられたもんだな。そっちには聞く気がないようだが、そこまで言われて名乗らぬ訳にはいかねえな。そっちが賢者だって言うならこっちはお前が今言った僧正だ」
「お前の名前とか、どうでもええ!」
エルデは相手に名乗らせなかった。そう叫ぶと同時にルーンを唱えた。
「オルデ・ヴェントス・メダージェ!」
詠唱と共に手に持った精杖を大きく振り抜くと、エルデは一陣の風をその場にもたらした。次いでエルデが真っ黒な精杖ウルドを振り下ろすと、その体の周りに大きな光の精霊陣が現れて回転した。
繰り出したのは、もちろんただの風ではない。エーテルが見える力があれば、そこに一匹の巨大な蛇がうごめいていたのが見えたに違いない。
もちろんそれは蛇ではなく、空気のムチとも言えるもので、エルデが持つ精杖ウルドを中心として波状に広がっていった。
しかし……
その空気のムチは見えない壁のようなものに当たると、強化した硝子が砕けるように粉々になって消滅した。
二度、三度。
さすがエルデと言うべきだろう。一度だけではなく連続して三回打ち出されるルーンを唱えていたようだが、全てが見えない壁で粉砕された。
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