第六十五話 結びの儀 1/3

 エルデ・ヴァイスが詠唱文を唱えた瞬間に、エイルの意識は急激に遠のいた。

 深い闇に心地良く、しかも加速しながら落ちてゆくのを、エイルはぼんやりと認識していた。

(このままゆっくりと眠りたい……)

 そんな思いに頭の先まで浸かりかけた時、安らかな気分を阻もうとする異物が現れた。

 いや、物ではない。それは人だ。

 誰かがこの安楽な落下を阻止しようと手を伸ばし、力が入らぬ腕を強く掴んでいた。

(やめろ)

 エイルはその腕を振り解く為にもがこうとした。だが、それすらおっくうで力がまったく入らない。

(このままずっと落ちていたいんだ。だって……)

 だが腕を掴んだ「者」はその力を緩めようとはしない。

 それどころかまるで腕を引きちぎろうとするかのように、ゆっくりとではあるが抗いようもない強い力で引き上げられようとしていた。


【エイルっ!】

『え?』

 声に反応して、エイルは目を覚ました。

 そこには闇ではなく、鈍いながらも光に照らされた視界があった。

【はー……】

 深く長いため息が頭の中で響いた。エルデの声だ。

『エルデ? あれ、オレは……』

【うーん、参ったな。通常の治癒ルーンを弱めにかけても、もう危ないんやな】

『ひょっとして、オレ……』

【うん。『落ち』かけてた】

『そうか。すまん、助かった……』

【いや。謝るんやったら、それはウチの方や。それより冗談抜きで困ったなあ】

 エルデはそう言うと精杖スクルドの頭頂部を再び横たわる自分の体にある胸の傷口に向けた。

 今詠唱したルーンで、見たところ表面の皮膚は修復されているようだった。

【様子見に使ったルーンやったんやけど、アレでアカンとなると、精神力と集中力を消費する治癒系ルーンはもう使われへんな】

『その精杖のスフィアの力だけではムリなのか? さっき亜神はその程度のケガなら放っといても治るって言ってなかったっけ』

【時間がかかりすぎるんや。間違い無く治るんは治るんやけど】

『どのくらい?』

【経験はないんやけど、たぶん放置やと十日程度やろな。スクルドのスフィアで半日にまで短縮されるくらいやな】

『それじゃ……』

【うん。例の僧正がキセン・プロットに『ブツ』とやらを受け取りに来る時間を過ぎる事になるな】

『それじゃダメだ』

【そやな。この体はいったんここに放置しとくか】

『いや、それはしたくない』

【わがままなやっちゃな】

『何とでもいえ。お前の体を、いや、お前をこのままにしとくなんて絶対いやだ。でも、ティアナ達のところにも行く』

【出来へんって言うてるやろ。アンタはガキんちょか】

『うるちゃいやい』

【開き直っても可愛ないで。みっともなさ過ぎてハナも出えへんわ】

『要するに、だ』

【ん?】

『お前が強力なルーンを使えばいいわけだろ?』

【だから、それは出来へんって……まさか、アンタ?】

『いや、オレは消えてもいいから、なんて言わないよ』

 エルデはゆっくりと息を吐いた。

【またアホな事言い出すんかと思たわ】

『まさか、オレだってここで消えたくはないさ。でも、オレ次第って事だよな?』

【まあ、簡単に言うとそうやな】

『だったら、オレに考えがある。ちょっと体を返してくれ』

【嫌や】

『え?』

【何をするか、先に言え。そやないと返せへん】

『お前なあ……』

【こういう場合、アンタは信用できへん。どうせ自分が何か被るつもりなんやろ?そんなんハイそうですかって黙ってみてられるわけないやろ】

『はあ……。わかったよ』

 エイルの説明はこうだった。

 抓(つね)る程度の痛みでは意識を確保するのが難しいというのなら、実際に命には関わらない程度の傷をつけるのはどうか、と言うものである。

 具体的には、短剣で体の一部を刺すなり切るなりするというのだ。

『歯の神経とか痛そうだぜ』

【痛さで失神するわ!】

『だったら、指とか掌とか、足かな。爪の部分なんかも神経が集中してそうだ』

 傷をつけるのは何か刃物が必要だったが、ちょうど腰に短剣があった。

【妖剣を使うつもりか?】

『丁度いいじゃないか。本番前にいったいどういう剣か一回試しておくのも悪くないだろ?』

【そう言えば、せっかくラシフからもろたのに、アンタ、いっぺんも抜いてへんな】

『錆びまくってたらどうしようもないな。そんな剣で切ると破傷風に罹るかも知れないけど』

【でも、ウチは反対や。自傷行為やで? 大ケガするんやで?】

『お前はファランドールで一番のハイレーンなんだろ?オレはもうその自称を疑ってないぞ。だからお前が自分の体に戻ってから、思いっきり強力なルーン使って、ビシっと治してくれればいいじゃないか』

【……】

『どうした?』

【――以前は疑ってたんやな?】

『そっちかよ』

【アンタみたいな失礼なヤツ、知らんわ】

『いやいやいやいや、普通は疑うだろ? 信じないだろ? いきなり【オレはこのファランドールで一番のハイレーンや。参ったか】とか言われても参らないだろ?』

【アンタの気持ちはようわかった】

『だから、今は信じてるって言ってるじゃないか。もうこれっぽっちも疑ってないから』

【いや、そやからもうわかったって言うたやろ。ほら、体を動かしてみ】

『あ』

 エイルは手を動かした。エルデの言う通り、既に体の制御はエイルのものになっていた。

【アンタの気持ちは受け取った。でも無茶はアカンで。アンタが痛いと、ウチも痛いんやから。あんまり痛かったらこっちが何にもでけへんようになる】

 エルデに言われて、エイルは掌を握ったり開いたりしていたが、ふと思いついたように言った。

『なあ』

【今度はなんや?】

『オレが強烈に意識を保っていられればいいんだよな?』

【そやな】

『だったら体を傷つけるんじゃなくてさ、死ぬ程すごい匂いを嗅ぐ、という案はどうだ? この世のものとは思えないような……そうだな、何かが腐ったにおいとか』

【どうやって作るねん、そのニオイ? ルーン使われへんねんで?】

『あ、そうか』

【というか、そんなん死んでも嫌や。そんな匂い嗅ぐぐらいやったら、サクっと手首切り落とせや!】

『おいおい』

【言うてへんかったけど、この体の状態でもアンタより五感が鋭いねんで。そんなんでアンタが死にたくなるようなニオイとか、どんだけウチが悶絶せなアカン思てんねん】

『わかったわかった。においは冗談だ』

 エルデはわざとらしく大きなため息をひとつつくと、壁の扉を眺めた。

【どっちにしろ、キアーナをあんまり待たせる訳にはイカンやろな】

 エルデの言葉でエイルも思い出した。

 扉の向こうでは、アルヴィンの少年、キアーナ・ペンドルトンがキセンの命を受け、彼らが部屋から出てくるのを待っているはずであった。ティアナ達のところへの水先案内をする為である。

【キセン・プロットが嘘をついてなかったら、やけどな】

『オレは嘘はついてないと思うぞ』

【どっちにしろ、この扉を開けんと埒があかへんし、要するに時間はあんまりないのは動かしがたい事実っちゅう事やな】

『さっさとやるか』


 エイル・エイミイは妖剣ゼプスの柄に手をかけると、ためらうことなく鞘から剣を抜き放った。

 ジャミールの里で黄色い布に包まれた状態で族長ラシフより授かってから、一度も抜かれた事がない妖剣。その刀身が初めてその姿を見せようとしていた。

「え?」

【ええ?】

 エイルは思わず声を出した。同時にエイルの目を通して妖剣の姿を眼にしたエルデも心の中でそう声を上げた。

『なんだよ、これ』

【さすがにこれは……想定外やな】

 エイルが握る妖剣ゼプスの柄の先、本来刀身が在るべき場所には、何もなかったのだ。

 そう。つまり妖剣ゼプスとは柄と鞘だけの「剣であって剣でないもの」であった。

 だが……

 戸惑ったエイルが悪態をつこうとしたその時だった。

 エイルの頭の中に、第三の声が響いた。


 エイル自身でもエルデでもないその声は、低く、こだまするようにぼんやりと頭の中に広がった。

(我が名はゼプス。我は問う。汝は我の正当なる所有者か否か)

 それは手に持った柄だけの剣、いや柄の声のようだった。

 そう認識するとエイルの混乱は収まった。

 何しろ妖剣である。これくらいのことはあるのかもしれないと思ったからだ。

 とはいえエイルはその問いにどう答えたものかを迷った。

 正当か? と尋ねられると、それにどう答えたものなのだろうか?

 ゼプスとミュインモスの正統な所有者がジャミール族だとすると、その族長であるラシフから「一族の総意だ」と言って手渡されたものだから、正しく手に入れた言っていい。それは「正統」ではないが「正当」ではある。

 そうだ、とエイルが心の中で答える前に、ゼプスの言葉が再び頭に響いてきた。

(我はマーヤ・タダスノを正当な所有者と認めよう。我はこれから汝の剣となりて、共に夢を目指さん)

「は?」

 エイルは思わずそう声が出た。だが、声に出していいものかどうか迷った末、心の中でゼプスの声に反応しなおした。

『えっと、ゼプス……さん?』

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