第五十九話 四聖 1/4
「青緑のセンセの言うとおりや」
エルデは目を閉じたままで、ぽつりとそう言った。
「え?」
「ウチは怖いんや」
「エルデ……」
「ふふ……」
エルデは力なく笑うと眼を開いた。
「見てみ」
そう言ってエイルに見えるように、エルデは左手を差し出した。細長い指が小さく震えていた。
「おかしいやろ?ウチが震えてるとか、しかも相手はアカンタレでスカポンタンで泣き虫の、アンタときた」
エイルは目の前に差し出された白い手を掴んだ。
「エイル?」
突然の事に驚くエルデを、エイルはさらに驚かせる行為に出た。掴んだその手を引っ張るとそのままエルデを引き寄せ、その体をしっかりと抱きしめたのだ。
「え?」
戸惑いの声を残してエルデの長い黒髪がたなびき、エルデはエイルにしっかりと抱かれていた。
「これだと泣き顔をオレに見られなくてすむだろ?」
「エイル……」
「信じろ。お前が何を言ってもずっとこうしててやる」
「ア……アホ……」
「アホはお互い様だ」
エルデにはエイルの、エイルにはエルデの鼓動が伝わっていた。どちらの鼓動も早い。触れ合う頬は熱く、体中でお互いの熱を感じていた。
「亜神は……」
少しだけ間を置いて、エルデはしゃべり出した。
「人の天敵や」
「天敵?」
「人を食らう存在。それが亜神に与えられた存在意義。まあ食らうっちゅうても血を吸うだけやけどな。骨とか肉とかはさすがに食わへん」
「なんだ、そんな事か」
エイルの声は落ち着いていた。そしてエルデの腰に回した腕にさらに少しだけ力を込めた。
「待て。それだけやない。問題は次や……」
エルデはそこまで言っていったん言葉を切った。
だが、次の言葉がなかなか続かなかった。
エイルはエルデが口を開くのを待った。だがエルデの口が開くよりも先に、エイルは頬に流れる熱いものを感じる事になった。
エイルにはそれは唐突に思えた。声も、震えも、前ぶれがおよそ何もなかったからだ。だが、エルデが言葉を切ったのは、そして言葉をつなげられなかったのは涙を抑えられなくなったからだという事に気付いたエイルは、やがて告げられる言葉を想像して、緊張で体を少しだけ硬くした。無意識に身構えたのだ。だが、エルデを抱く腕の力は緩めなかった。
「ウチはな……ウチは……」
エイルにはエルデが次の言葉を継ごうともがいているのが、その小さな震えで痛い程わかった。頬はもう、エルデの涙でびしょびしょになっていた。
エイルは腰に回していた右手を緩めると、今度はその腕でエルデ頭を抱きかかえて、耳元でささやいた。
「わかってる。お前は亜神なんだろ?」
エイルのその一言はエルデの体を硬直させた。エイルの体を引き離そうと小さくもがくエルデを、しかしエイルは離さなかった。
「逃げるな。そんな事くらい、とっくに想像がついてたさ。それより気持ちいいからもう少しこうさせておいてくれ」
エルデが本気でエイルを引きはがそうと思ったなら、それはいともたやすい事だろう。なぜなら亜神の腕力は人とは比べものにならない程強いのだから。
エイルはもうそれを知っていた。
ヴェリーユの宿で床に組み敷かれた時に感じたエルデの雰囲気はエイルには未知のものだった。だが今ではよくわかった。あれはエルデの本能が彼女を支配した瞬間であったのだ。すなわち捕食行為と呼ばれるものである。
「でも、残念だったな。そんな告白じゃオレは全然驚かないぜ」
「――エイル」
「だいたいオレはずっと前からお前が普通の人間じゃないって事くらいはわかってたさ。いや、普通のルーナーじゃない事もわかってた。だからさっき亜神の話が出た時は、ああそうか、ってな」
「でも、ウチらは人の血が……」
「ああ、それはまあ、正直に言ってちょっと驚いた。でも、これでお前ができるだけ血を見ないようにしてた理由がわかって、かえってすっきりした」
「アンタはウチが怖わないんか?」
「お前以外の亜神は怖いな。《蒼穹の台》なんて、何も言わなくても、ただそこで立ってるだけで怖い。まあ、あいつは亜神とかそういうのを知る前から怖かったからなあ。でもオレはお前の事は全然怖くはない。嫌いでもない。というか、お前、結構可愛いじゃないか。そうやって泣いてるとことかさ」
「な、泣いてへんっ」
「オレの顔、お前の涙でびしょ濡れなんだけど?」
「そ、それは鼻水や!」
「鼻水かよ!」
「よだれもけっこう混ざってる!」
「けっこうかよ!汚えな、おい?……というか、亜神ってのは眼から鼻水とかよだれが出るのかよ?」
「亜神はヒトと違うて眼から汗とか鼻水とかよだれとかが出るんや!」
「くっ……」
エイルは思わず吹き出した。
「な、何やねん」
「やっぱりお前は思いっきりエルデじゃないか。他の誰でもない。そう言うところが正真正銘エルデ・ヴァイスだ。お前の正体が人だろうと亜神だろうとミジンコだろうと、そんな事で変わるわけがないだろ?」
「はあ?どさくさに紛れて何言うてんねん!ウチはミジンコなんか?」
「いや、そうじゃなくて」
「わかってる」
エルデはエイルの体に回したか腕に力を入れた。
「……おおきに」
それだけで充分だった。エイルはエルデが抱えていたいくつかの重荷の一つがその瞬間に消えた事を確信した。なにより自分にその手伝いが出来た事が嬉しかった。
「それにさ、オレだけじゃないだろ?リリアさんはもう気付いてるんだろ?」
エイルはアプリリアージェがエルデの衝動をすかさず止めた事を例に出した。もちろん、エイルをエルデが組み敷いたあの時の事である。
「リリア姉さんとリーゼを死ぬ程おびえさせてもうたけどな。そもそもアンタにウチの事がばれへんようにあんじょうしてもらう補助要員を頼もうと思ってたんやけど」
「そうか。だったら仲間のみんなにも言うべきだな。きっとみんなお前を受け入れて守ってくれるさ」
「いや、それはアカン」
エルデはそれには首を横に振った。
「そうね、それはやめておいた方が賢明ね」
しばらく二人の会話の聞き役に回っていたキセンが会話に割って入った。
「三聖以外に亜神が存在している、という事が漏れたらあなたたちはそうとうマズい事になるのは間違いないわ」
「青緑女史の言う通りや」
エルデはそう言うと、エイルの抱擁を解くようにそっと体を離した。
「ウチの存在は今の世では知られたらアカンものなんや」
手の甲で涙の跡をぬぐいながら、エルデは続けた。
「どうせ疑問に思うやろうし、そこの女先生はそもそも気付いているやろし、アンタにはここで言うとく。もう一つ、ウチには大きな秘密がある」
エイルはうなずいた。
「今更何を言われても驚かないさ。いや、驚くかもしれないけど大丈夫だ。言ってくれ」
「アンタはたぶん、気付いてると思う」
「オレが?」
「ウチの正体や」
「それは亜神とか人間とかじゃなくて、職業というか役目とか身分とかのことか?ただの賢者じゃない……って事だよな?」
エルデはうなずいた。
「人の天敵。ピクシィの姿に似せた亜神。ルーナーの中でもハイレーン。それやのに、一応マーリン正教会関係者……ここまで嘘はない。賢者会の関係者っちゅう事も大局的には嘘とは言えへんはずや」
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