第五十六話 ロマン・トーン 2/7
「ティアナ」
エルネスティーネは笑顔のまま、低い声で白髪のアルヴの名を呼んだ。
「何でしょう?」
「あなたは私よりもよほど世間というものをもっと勉強しなければなりませんよ」
「はあ……?」
「もう一度尋ねます。あのマントはアモウルさんにも『それなり』に似合いますよね?」
「どうでしょうか。あのマントがそれなりに似合っているとすれば、アモウル殿ほどの器量があればたとえ毛布でも掛け布団でも体に巻き付けていれば似合っていると言っていいかもしれません。……こんな答えでいいのでしょうか?」
エルネスティーネは小さくため息をつき、正攻法でティアナを攻略する事を断念した。
「確かにファルよりは似合わないかもしれませんね」
つまり搦め手から責める事にしたのである。
「そ、それはもう当然です」
ティアナの態度に、エルネスティーネは呆れたという風に肩をすくめて見せた。
「でも、アモウルさんが着ると、ファルとはまた違う風情がありますよね? こういうのを『アゴにお化粧』と表現するのですよ」
「……」
もちろんティアナは絶句した。
「もうその辺にしてやってくれませんかね」
二人のやりとりを聞いていたアキラは苦笑しながらも裾を気にするのをやめる事にした。要するにエルネスティーネもティアナも、自分が思っている以上におかしな格好だと言い合っているだけなのだ。アキラとしてはもうそれ以上今の格好について言及して欲しくなかった。
一方のファルケンハインは、チラリとアルヴの少女の様子を見た。今、口にしたエルネスティーネのことわざを聞いて、どう反応しているかを確かめたかったのだ。
案の定、無表情な少女もさすがに怪訝な顔をエルネスティーネに向けていた。その言葉を投げかけられた当のティアナとエルネスティーネを交互に見比べている。
明らかにおかしな表現なのにも関わらず、エルネスティーネを除く一同はまったくそれについては言及しない。言及しないのではなく、努めて反応しないようにしているのだが、少女の目にはその様子は異様に不自然に映っていたに違いない。完全に無視できているアプリリアージェやメリドと違い、ティアナは少女と目が合うと、あからさまに視線を泳がせた。
ファルケンハインは緊張の糸が緩むのを感じていた。少女のそのやや戸惑ったような表情を見て、単純に敵対する人間ではないと思えたのだ。
エルネスティーネの一言は、アキラだけでなく、間違い無く一行全体の雰囲気を変える力を持っていた。アプリリアージェでさえ、緊張をほぐすようなかすかなため息をついたほどである。
「アモウルさん、気にされる事はありませんよ」
アキラに改めてそう声をかけると、エルネスティーネは今度は少女にその視線を向けた。
「あなたはきっと、私たちを悪いようにはしない。そうですわね?」
自分の言葉がアルヴの少女にどういう影響を与えたのかを知ってか知らずか、エルネスティーネはそう言って微笑みかけた。
「だって、私達はもうお互いに、仲間ですから」
アルヴの少女はしかしそれには何も答えず、眩しいほどの笑顔を向けるエルネスティーネから目を逸らすと、入った方向とは反対側にある扉を開いた。
「もうすぐです。離れないように私についてきて下さい」
その言葉を合図にアキラはフードで頭を覆うと、少女の後に続いて真っ先に昇降機から外へ出た。マントを着けていないファルケンハイン以外は皆、アキラに倣ってフードを被るとそれに続いた。もちろん、アキラだけがフードをかぶっていては不審がられると判断したからである。アプリリアージェが敢えて言わずとも、すでに一行は彼女の行動の意味を理解していたのである。エルネスティーネでさえ。
アプリリアージェはそんなエルネスティーネをチラリと視界の端に捉えると、いつもの微笑を少し深くした。
少女に案内されたのは、ちょっとした規模の教会の礼拝堂がすっぽり入るほどの広さがある文字通りの広間であった。礼拝堂と明らかに違うのは天井が低い事である。それなりに圧迫感があるが、とはいえ長身のファルケンハインが頭をぶつけるほど低くもない。
考えてみればそもそもアルヴ族の隠れ場所なのである。自分達が常に中腰にならねばならぬような作りにしているはずはないと言えた。見方を変えると、例えばアルヴィンやダーク・アルヴには余裕のある空間であった。
アキラがざっと数えてみたところ、広間にはアルヴ・アルヴィン取り混ぜて百人程のアルヴ族がいた。皆は等間隔に並べられたテーブルを囲んでいた。それぞれのテーブルで思い思いに会話をしているようだが、その表情には不安の色が濃い。
少女が「房」と呼ぶこの場所には避難してきた人々だけでなく、そんな人々の世話をする役目を負う者も居るようだった。彼らがその場所に現れた時には数人のアルヴ達が各テーブルを回っては声をかけ、お茶の入れ替えなどを行っていた。
近くのテーブルに目をやったアキラは、そこにスープや紅茶といった暖かい飲み物類やチーズを挟んだライ麦パンなど、ちょっとした食べ物が置かれているのを見つけた。それらに手をつけている人間はあまりいなかったが、それでも大きな喧噪や混乱はない。すなわちその房は表面上ではあるが、平静が保たれている状態と言えた。
「宿の食堂の朝の光景、に見えないでもないな」
アキラはそんな事を口にした。だが、そう言った自分の言葉に対して苦笑せざるを得なかった。決定的に違うものがあるのだ。
「その宿には、俺はあまり泊まりたくはないな」
すぐ隣に立って同じようにその「房」を観察していたファルケンハインがアキラに反応してそう言った。
宿の朝の光景と全く違うもの、それは朝の宿だけが持つあの独特の活気に満ちた喧噪の存在である。
この房にあったのは不安と恐怖と憎悪に満ちた、きわめて静かな喧噪だったのだ。活気という言葉はここにはない。
「こちらへ」
立ち止まってあたりを見回している一行に少女が先を促した。
一行が広間に入っても、その場に居た人々はちらりと視線を投げかけるだけで、あまり関心を持たない様子だった。
新しい客はおそらく次々とやってくるのだろう。人は物珍しく無いものには注意を払わない。何より自分が置かれている状況、自分がこの場所に至った経緯を咀嚼するのに精一杯なのに違いない。要するに混乱と不安で、他人どころではないのだろう。だから彼らは、アルヴの少女が新たに保護してきた人々の中に「知り合いがいるかどうか」以上の興味は持たない。知らない相手だとすぐに視線を自分の手元に落とすだけだ。フードをかぶっていようがいまいが、そんなことを気にする者は皆無だった。
今ちらりと一行を見て、すぐにうつむいたアルヴィンの親子にしても、つい今し方ここに案内されてきたのかもしれなかった。
「旅の人達です。この町の事情を知らずに迷い込んだようです。逃げているところを見つけて声をかけて連れてきました」
アルヴの少女は一番奥に座って広間を見守るようにしていた初老のアルヴにそう報告すると、恭しく頭を下げた。
「それから、申し上げにくいのですが……」
少女は顔を上げると振り返り、広間の様子をざっと見渡した。
「どうしました?」
少女の様子をみた初老のアルヴは訝しげに声をかけた。
少女はその部屋にいる人々がこちらに注意を向けている人間がいない事を再確認すると、初老のアルヴに向き直り、声を潜めて続けた。
「この人達には多少事情があります。出来れば詳しい話は別室にて」
初老のアルヴは静かに少女の話を聞いていたが、最後の一言で顔を上げ、そこで初めてアプリリアージェ以下、一同の顔を順番に眺めていった。
初老のアルヴはこの房の責任者もしくはとりまとめ役といったところであろう。少なくとも少女が頭を下げるだけの人物である事は確かだった。
初老のアルヴは最後にフードから少しだけ覗くアキラの顔をじっと見つめ、少し考えた後で独り言のように小さくつぶやいた。
「なるほど」
その言葉が何を意味するのかは、おそらくその場の全員がわかっていた。もちろん緊張が一行を駆け抜けていった。だが、初老のアルヴはそれ以上何も言わずにすっと立ち上がると、そのまま歩き出した。その先には通路があり、さらに奥へと向かったのだ。
「私についてきて下さい」
既にフードを下ろしていた少女のアルヴはそう言って一同を促すと、返事を待たずに初老のアルヴの後を追った。それを見たアキラが何も言わずにその後に続くと、一行も無言でアキラに倣った。
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