第五十三話 アトリ 5/5

 科学者であるキセンが敢えてそういう言葉を使った意味を、エイルはもちろん感覚としてわかっていた。それが正しいか間違っているかは別の問題として、少なくともキセンは三聖を「人間」だとは認めていないという事なのだ。

「三聖の血液は特殊なの。それもとんでもなく。そこまではわかってるのよ。実に興味深い存在だわ」

 キセンのその一言は、部屋の空気を変えた。冷凍庫に足を踏み入れたかと錯覚するような冷気が皮膚を覆ったのだ。どんな空調設備であっても、これほど短時間に部屋の温度を一気に冷やすことなど出来ないだろう。それはまさに一瞬だったのだから。

 もちろん空気を変えたのはキセンではない。キセンは引き金を引いたに過ぎないのだ。冷気の元……それはエイルの横に立っている滅亡したとされる瞳髪黒色の種族、すなわちピクシィの少女であった。


「三聖の血って言うたか?お前はそれが特殊なんがわかってるって言うたんやな?」

 絞り出すような声でエルデはそう問いかけた。もちろんキセン・プロットに呼びかけたのだ。

 エルデがその溢れ出す感情を、なんとか抑えようとしているのが隣にいるエイルにはよくわかった。そしてその感情が憎悪と呼ぶ種類に属しているものであることも、感覚でわかった。

「お前がなんで三聖の血の事を知ってるんや?」

 少し間を開けてそう続けた言葉は、最初のものより声がかなり落ち着いていた。見ればエルデは少しうつむいて、空いている方の手で額を押さえていた。三眼が開かれたのかどうかエイルにはわからなかった。だが、冷気がゆっくりと消えていく様子は肌でわかる。

 キセンももちろん同様に冷気の訪れと消滅がエルデの心の動きに反応したものであることは既にわかっているのだろう。多少は驚いたようだが、すぐにいつもの相手を値踏みする、あるいは観察するような目でエルデを見つめていた。

「エイル君に続けて質問するわね」

「なんです?」

 エイルも努めて落ち着いた声で答えるようにした。三眼が現れたエルデはエイルの声に耳を貸さない事がよくあった。その状況ではエイルはエルデを制止する役目だったが、額面通り聞き入れられたことはほとんどなかったのだ。おそらく興奮状態が三眼を開かせ、三眼状態になったエルデはあらゆる感情が拡張したような尊大さが目につく。それはそのときに使う力が普段よりも強い為に相乗効果としてそうエイルが感じているだけかもしれないが、あえて三眼状態にする必要もないのだ。冷静な状態でいてもらうに越したことはない。そもそもエルデは多くの場合、エイルとは比べものにならないほど冷静なのだ。そのエルデが本当に興奮するということはそれ相応の理由がある。だが理由があれば仕方がないと言うものでもない。そして興奮状態になる前に制止できる可能性がある人間は、その場にはエイルしかいないのだ。だからエイルはまず自分が興奮しない事を最優先に考えねばならなかった。声が上ずらないようにする為にしゃべる前に深呼吸をするだけでもいい。そうでなければこの先に無造作にキセンが口にし続けるであろうまるで挑発のような言葉、あるいは話、説明の前に翻弄されるに違いないのだから。


「君は『深紅の綺羅』と言う名前を知ってる?伝説でも架空でもなく、実在する三聖。その中の紅一点よ」

 エイルは握ったままのエルデの手をまた強く握った。するとエルデも握り返してきた。大丈夫だという合図であろう。事実、部屋の空気、つまりエルデが纏うエーテルに急激な変化はなく、感情の制御は充分で、キセンが口にした今の一言に過敏に反応する心配はなさそうだった。

 ただ、この先どうなるのかはエイルには皆目わからない。キセン・プロットと名乗る人物は予想以上にファランドールという世界の核心に触れているような気がしてならなかった。さらに心配なのはエイルが風聞で知っていたヴェロニカ・ガヤルドーヴァよりも実物の方がよほど始末に負えない性格の持ち主だとわかったからだ。フォウでも相当に好戦的な物言いをする人間だとは聞いていたが、実際に目の前にいる本人はエイルの予想を遙かに超えた毒舌をよりにもよってエルデに向かって平然と放っているのだ。

 エイルの知る限り、いや理解している範囲では、エルデ・ヴァイスもまた相当な毒舌家であった。毒舌家とは毒舌を浴びせることを旨とするものだ。決して毒舌を吐かれることを好むものではない。要するに今は冷静でも、いつエルデが感情を爆発させるかわかったものではないということなのである。

 しかしながらエイルはエルデと出会ってからこっち、実のところエルデが激情に任せて行動したところを一度も見た事はなかった。だが自らの肉体を取り戻したエルデは、エイルから見ても感情の変化が普通の人間以上に激しいように思えてならなかった。ヴェリーユの宿でエルデに突然組み伏せられた一件も、理性が及ばなかったが故の行動であろう。あの時と同じ事がもし起こったとして、そしてそれが自分でなくキセンに向けられたとしたら、どうだろう?あの時は体術の心得があるエイルだからこそ、受け身でとっさに体を守る事が出来たのだ。

 エイルはエルデの手を握りしめたまま、その部屋の床に目をやった。赤茶色のおそらくは大理石の床はむき出しで、絨毯などの緩衝材はない。キセンがあの恐ろしい力で押し倒され、そのまま後頭部から床にぶつかったとしたら、果たして無事でいられるだろうか?何よりあの時のアプリリアージェの様にエルデの行動を制止する事が自分に出来るのだろうか……。


 エイルは短い時間でそんな事を考えていた。

 だが、もちろん当のキセンはそんなエイルの胸中など知るよしもない。その間、やや不敵な微笑を浮かべて二人を見つめていた。

 それを見て、エイルは微妙な違和感を覚えた。

 エイルにしろアプリリアージェにしろ、エルデの纏うエーテルの乱れにはかなり敏感だ。すぐにその影響を受けてしまう。言い換えるなら空気の変化がわかるのだ。それだけエルデの感情が周りのエーテルと融合しているのであろう。しかしエルデの引き起こすエーテルの変化に対するキセン・プロットの反応は、かなり鈍いように思えた。多少ひるんだ様子は見せるものの、それだけである。体が震え出すような悪寒に襲われる様子はない。

 つい今しがた、部屋が凍ったかとさえ思えたエルデのエーテルの支配力の大きさは、実のところキセンにはあまり感じられていない様子なのだ。

 感受性の差により、反応の違いは大きいと理由付けは可能だろう。

 だが……


 エイルの思考はそこで途切れた。キセンの机に埋め込まれているスフィアの一つが、また点滅を始めたのだ。

「あらあら」

 その光を見たキセンは嬉しそうに微笑むと、そのままの表情で二人を見た。

「面白い客が来たわよ」

 そう言うとキセンは立ち上がった。

「丁度いいわ。あなたたちに紹介しておきましょう」

「面白い客?」

 エルデの問いにキセンはうなずいた。

「簡単に説明するとハイデルーヴェンの『偉いさん』の一人よ。新教会陣営のね」

「ええ?」

 エイルとエルデは、異口同音にそう言うと、奇しくも同時にお互いの手を強く握り合っていた。

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