第四十四話 新たなる敵 3/5

 ただ直線を走るだけならばまだしも、全速力で走りながら角を曲がるのは不可能である。しかし、たいして速度を落とすこともなくひらりひらりと角をこなすフリスト達の軽やかな足取りにくらべ、速度をいったん落として曲がり、曲がりきった後で再び加速するしかないアキラは、そろそろ限界が近く、すでに足がもつれだしていた。それは意志とは無関係で、もはや「転倒してくれるな」と祈るくらいしか、彼に出来ることはなさそうだった。鼓動もまた心臓の耐久限界を訴え続けており、主であるアキラに悲鳴のような警鐘を鳴らし続けている。

 その頃には既に思考能力は極度に低下して、アキラはただメリドの後ろ姿をひたすら負う事しか頭にない状態であった。

(もうだめだ)

 アキラがその人生に於いて初となる完膚無きまでの敗北を認めた時だった。いきなりメリドの背中が大きくなった。

 もちろん、メリドとの距離が近づいたのである。それはつまり、一行がようやく目的地に着いた合図であった。

 そこはヴェリーユの城壁に近い、倉庫街と思しき一角であった。件のダーク・アルヴは煉瓦造りの古めかしい倉庫の前でアキラの到着を待っていた。

 倉庫と言えば、本来であれば建物ごとに倉庫番がいそうなものだが、見渡してもその区域の倉庫には、それらしき人影はまったくなかった。

「フェアリーではない、ただのデュナンがいたのは計算外でした」

 膝を突き、そのままその場所に倒れ込んで休みたいのを何とかこらえながらも、もはや制御出来ない状況で大きな呼吸音をたてて肺に酸素を送る作業に没頭しているアキラの耳に、フリストの吐き捨てるような声が届いた。

 声に反応してのろのろと頭を上げたアキラは声の主に顔を向けた。フリストの言葉が自分に向けられたものかどうかを確認しようとしたのだ。勿論アキラ以外に該当者はいないが、そういう判断が当たり前に出来るほどには、まだ彼の脳はその機能を回復してはなかったのだ。

 声のする方向に目をやると、そこには鋭い目つきのダーク・アルヴの少女が、もう一人の穏やかな微笑をたたえた少女と視線を絡ませている図があった。それを見たアキラは、耳にした言葉はアプリリアージェに向かって告げられたものだと理解した。ある意味でそれはアキラに対するあからさまな侮辱だが、当の本人はもはやそんなことなど、どうでもいいとしか思えない状況であった。

 だが、これで二人が見知った者同士であることがはっきりとした。つまり「フリストと呼ばれたダーク・アルヴは敵ではない」という事が確認できただけで彼はもう充分だった。


「生きていたのか」

 おそらくル=キリアの誰しもがその黒髪の少女、フリストの姿を見た時に心に浮かんだ言葉がそれであろう。

 そしてその言葉を最初に口にしたのはファルケンハインだった。

「生きていたというのは正確ではないな、ファル」

 フリストは即座にそう答えた。そう聞かれるのは予めわかっていた事なのであろう。ファルケンハインがその言葉に対して新たな質問を投げかける間もなくさらに言葉を続け、ファルケンハインの次なる質問を封じた。

「どちらにしろその話は後よ。とりあえずは安全なところまで移動します」


 一行はフリストの先導でその古びた穀物倉庫の地下へ続く階段を下っていた。倉庫の奥の床板を引き上げると、そこが地下に続く階段になっていたのだ。

 フリストは何も言わずに懐から取り出したセレナタイトを掲げ、目で「着いてこい」と合図をすると、風のフェアリーらしい軽やかさで、デュナンの大人が充分歩けるだけの幅がある階段の奥に吸い込まれて行った。

 ル=キリア一行にためらいはなかった。まるで予め指示されていた予定行動のようにフリストの後に続いた。

 ティアナとエルネスティーネも、同様に無言で階段に吸い込まれていった。

「我々も続きましょう」

 互いに顔を見合わせていたのはメリドとアキラだけであった。

 いったい何が起こっているのかわかっているのはこの中ではおそらくフリストだけであろう。アキラとシルフィード人との違いはその少女の正体を知っているか否かだけであって、彼らとてフリストがこの場にいることは異常だと認識している。「生きていたのか?」というファルケンハインの質問がその根拠であるが、それならばアキラとさほど変わらない状況のはずである。つまり彼らにとって既知のフリストという人間は、信頼に値する人物だという結論になるのだ。アキラとしてはもう黙って従うしかなかった。


 メリドに続いて長い階段を注意深く下りながら、アキラは既に別の事に思いを巡らせていた。前を行くエルネスティーネの事である。アキラにとって、フリストよりもエルネスティーネの方が重要な存在なのである。

 こういう非常時にあって何も言わず、さりとておびえることなく慌てず騒がず決断をするエルネスティーネに彼はここでも感心していたのだ。

(人の上に立つ人間か……)

 アキラは考えをまとめながらも一行に遅れまいと歩を速めた。何しろ真っ暗である。灯りは先頭を行くフリストが掲げるセレナタイトただ一つだ。あまり離れると足下不如意で転落でもしようものなら大けがをしかねない。

(ミリアは別格として、エスカもそうだが人の上に立つという人間は纏うエーテルがそもそも我々とは違うものだ。そしてあの少女の正体は間違い無くそのエーテルを持つ者ということか)

 アキラは今、エルネスティーネに「我が僕(しもべ)になれ」と命じられたら、喜んで膝をつき頭を垂れるに違いないと思っていた。

 しかしそれは今に始まった事ではない。あのヴェリーユ南三番街の交差点で剣を抜きかけた時に心は決まっていたのだ。

 そしてそのきっかけがミリアにある事も確かであった。彼が翻したマントの裾が起こした小さな風が、アキラの心の向かう先を新たにさせた事も理解出来ていた。

 まさかミリアがそうし向けたとはさすがに考えられなかったが、ミリアが姿を現してからアキラを取り巻く全ての事象が急激に変化したことは認めざるを得ない。

 ミリアがこの先いったい何をしようとしているのかを見失ったアキラが、その直後に見つけたものがエルネスティーネという風のエレメンタルの持つ強い存在感であった。だが彼にはエスカという「守りたい主」が別にいる。そしてそのエスカとエルネスティーネは、事が起こってしまえば互いに敵と味方に分かれる存在である。両方を同時に守る方法などあろうはずもない。

(いや……)

 アキラはその両方を守る方法が一つある事を思い付いた。それは非現実的な話ではない。だが、アキラは理性ではなく感情で自分の首を横に振らせた。エルネスティーネを自分ではない誰かにゆだねる事が出来ないと思ったのである。

 それは主従の関係を結んでもいいとたった今思った感情とはまた別のものであった。

 アキラは思わず胸の辺りを握りしめた。

(なんという事だ)

 アキラは自分のその感情の正体をすぐに理解した。そしてその大それた欲望に対してただ愕然とするばかりであった。


 階段を下りると小さな通路に出た。坑道のような横穴である。

「これは?」

 思わずアキラはそう声に出した。

「抜け道のようだな。しかも相当昔からあるようだ」

 メリドは壁の岩を手で触ると、表面の状態を確かめた。

「表面がそれなりに風化している。十年や二十年でこうはならない」

 坑道の高さはファルケンハインが普通に立って、さらに上方に半身分の余裕がある。左右はかなり広く、両手を広げたアルヴが横に三人並んで手を繋いでも壁に届かない程度はあった。デュナンなら五人がゆったりと横一列に並んで談笑しながら歩ける幅である。

 坑道内はカビ臭がかすかに漂ってはいたが、それに混じってほのかに別のいい匂いが鼻をすり抜けたような気がした。

「この匂いは……確か」

 アキラは気付いたことをメリドに確認しようとしたが、続きを口に出せなかった。フリストが強い調子で一行を手招いたからだ。


「こっちへ。ここは封鎖されます」

「封鎖?」

 アプリリアージェの問いかけにフリストはうなずいた。

「ほんの気休めですが、それでも多少の時間稼ぎにはなるでしょう」

 アプリリアージェはフリストのいう「封鎖」という言葉の意味を計りかねていたが、それよりも「封鎖される」という言葉尻に興味があった。

「誰が封鎖するのですか?」

 その質問がアプリリアージェの口から出た瞬間だった。まるでアプリリアージェの問いかけに答えるかのように一行の背後に大きな地響きがおこった。その、何かが崩れるような轟音に、一行は思わず今来た道を振り返った。

 セレナタイトの淡い光でよくは見えなかったが、今来た道が何か大きなもので塞がれているようだった。

「分厚い岩で坑道を塞ぎました。ここは当分使えないでしょう」

 フリストはそう言うと自分の言葉を確認するかのように岩の壁を見つめた。

 時を置かず、音がした方向からやってきた緩やかな風が一行を包んだ。その風は坑道にはおよそ似合わぬような、ほのかな甘い香りを含んでいた。それはアキラがついさっき感じていた香りと同じものだった。

 アプリリアージェは鼻腔を撫でるその香りの名称を知っていた。だがアキラ同様、坑道と香りとの組み合わせに妙なものを感じていた。少なくとも今塞がった……いや、塞がれた岩の壁に関係する香りであろう事は確実だと思われた。

 フリストからの香りではないのだから。

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