第四十四話 新たなる敵 2/5
勝ち目がないとわかっている闘いに進んで向かうなど、いったい何年ぶりであろうかとアキラは考えていた。少なくともミリア・ペトルウシュカと出会ってからは記憶にない。勝つ手法を構築して、それを実行することをアキラはミリアから学び、また強く要請されていた。
だが、アキラは自分のその思いがいかにばかばかしいかをすぐに悟った。なぜならアキラは、つい今し方、勝ち目のない相手に戦いを挑む立場に立たされていたからだ。
それは勿論、ミリア・ペトルウシュカの事であった。何があっても戦って勝てる相手ではない。それがアキラがミリアに対して下していた結論だったのだ。
そんな相手にエスカ共々戦いを挑もうとしているのである。それに比べれば、カテナが率いるルーナー軍団など、取るに足らないものに思えてしまう。どちらにしろ勝ち目はないのだろうが、それでも可能性が少しでもある事と、絶望という言葉しか浮かんでこない相手とでは、意味が全く異なるのだ。
勿論、絶望を背負ってなお、相手に剣先を向けるのがレナンスである。ミリアに対して逃げようとは全く思ってはいなかった。そしてアキラはその時になって初めて、己がレナンスであり続ける限り、レナンスである己を誇りに思う限り、ミリアがアキラの事を、表面上ではなく……その細胞の一つ一つに至る深さまで信頼する事は無かったのだろうと、思い至った。
ミリアはレナンスを尊敬する態度を示しながらも、その気質がアキラを飲み込むことを好まなかった。剣技にのめり込む者が、自らの存在意義を剣技の中に見る様になることを恐れているとミリアはアキラに言っていた。その道を究めようとする者に取り憑く亡霊に負けることはならぬと言うのが、ミリアと知り合った当初に彼がアキラに求めた事だった。
強い者と戦いたいという思いにともすれば陥りがちになる自分の気持ちを第三者に指摘されたことは初めてだった。貴族学校で好敵手であり親友であったミリアの弟、エスカにも同様の言葉をアキラは突きつけられた事があった。他人から見えて自分には見えないもの。その存在を認めた時が、アキラが自分自身の正体を知った時であったのかも知れない。
ファランドールに動乱が起こるであろう事は貴族学校時代にすでにアキラも肌で感じていた。だがその動乱のただ中に、それぞれが別々の陣営を構築し、進んで戦いに足を踏み入れようとしている兄と弟が存在するのを知った。兄弟両方に関わる事になったアキラは、やがて兄であるミリアに心服していくことになるのだが、そのミリアから動乱の駒の一つとして動く事を求められる事になった。
ミリアの命令はアキラにしてみれば我が意を得たりではあった。心服した者に命を投げ出す事はレナンスの美徳なのだ。だが、ミリアが求めたのは美徳ではなく違う価値観であった。
ミリアが求めたもの。それはすなわち、守るべき者の為に生きるという事である。
ミリアの片腕として生きる事とは何か? 命を投げ出す事と違う明確な解がそこにあるのか? 当然ながらミリアは具体的な説明はしない。アキラに与えた具体的な使命と言えば、ミリアの計画のためにエスカの片腕になれというものであった。ミリアの計画を知っていたからこそ、アキラは喜んでその任についていた。なぜならアキラはエスカ・ペトルウシュカという人間が大好きだったからだ。
ミリアがアキラに示した彼の計画は、アキラが自らの命を投げ出すに値するものだと思えるものだった。その計画を実行しようとしているミリアに対し、アキラは己の魂が震えるのを感じたのだ。だから、ミリアの陣営を死に場所と定めたのである。だが、やがては敵と味方に分かれる事になるはずの弟を兄は守れと言う。「その時が来るまで決して死なせるな」というのが、ミリアがアキラに下した命令だったのだ。
だがミリアという「たが」が外れたこの日、いやミリアによってたがを外されたアキラはそのまま本当の意味でのエスカの片腕という立場を「生」を賭けてまっとうする事を求められたのである。ミリアの計画を知っている限り、彼がエスカから離れる事はないだろうと言うミリアの計算は透けて見えた。そしてそれはアキラがレナンスである限り、間違いのない判断だったのだ。
だがその大きな変革を受け入れ咀嚼するだけの余裕がないままに、アキラはエルネスティーネとヴェリーユの僧兵達が作り出した「死」の匂いがする事件に早くも出会ってしまった。
だがそこでアキラは、思いもしなかった希望を見つけたのかもしれなかった。僧兵達に囲まれた絶体絶命の場所でアキラの目に映ったもの……それは不安そうな表情でファルケンハインの影に隠れる、か弱いエルネスティーネの姿ではなかった。
彼女は、アキラが初めて見るような厳しく凛とした表情で、背筋をぴんと伸ばし胸を張り、なんと一行の先頭で仁王立ちしていたのだ。
エルネスティーネがシルフィードの本物の王女であるという事を予め知っていなければ、あの場面で堂々とした態度をとる少女の事を、計り知れぬ力を持つ剛胆な戦士だと思い込んだに違いない。
さらに言えば普段の明るくて賑やかで、ちょっと外れたところのあるエルネスティーネしか知らなければ、ただ驚いただけであったろう。
そこにいた「希望」は、それほどまでに強い立ち姿をしていたのだ。
ミリアではなく、エスカでもない別の力……。エルネスティーネにアキラはそれを感じていた。
彼はジャミールの里付近でスカルモールドと対戦した際、「龍の檻」と呼ばれる空間に落ちた時のことを思い出した。思えばあの時、突如発生した地震でできた地割れに飲み込まれたメリドを助けたのは誰あろう、一番頼りない存在だと思っていた小さなアルヴィンの少女ではなかったか?
窮地で人はその本当の器を見せるという。
であれば、エルネスティーネという少女の持つ器の大きさは、軽く自分を超えているに違いない。そうアキラは感じていた。
アキラはミリアにも似たようなものを感じていた。自分はこの人間には敵(かな)わないと思う、あの気持ち。それは理屈を超えた心の震えとも言える感情であった。理性ではミリアを唯一無二の存在だと崇拝できた。だが感情ではエスカやエルネスティーネが作り出す世界に溶け込みたいと思う自分を発見する。
ミリアとエルネスティーネは持っている雰囲気がまったく違う。だがカテナを射るように見つめていたエルネスティーネの姿は、その存在感においてはミリアにも劣らぬ者、いわば特別なエーテルを纏うという意味で同じ高さに立つ人間に思えてならなかった。
だからアキラはあの時、心を決めたのだ。
アプリリアージェが動かないのならば自らの命を賭して事を起こそう。つまり、自分の命よりエルネスティーネのそれが上位にあると認識した瞬間であった。
レナンスの気質は強さを求める気質。そしてその強さを捧げる相手を見つけたなら、命を投げ出して守ろうとする気質である。
だからアキラは走りながら思っていた。
フリストが現れず、たとえ自らの剣が相手に傷一つつけることが出来ぬまま空を切り、そのまま絶命することになったとしても、そこに後悔などという言葉が入る余地はまったくなかったであろうと。
自らをレナンスと自称する者達には「犬死に」という概念はない。
第三者から見て犬死にであろうとなかろうと、彼らは信じること、信じる者のために剣を抜き、信じた戦いをなし得た事だけが重要なのである。彼らの生の結果を評価できるのは、彼ら自身の心だけなのであろう。
フリストは曲がり角という曲がり角を、それはもう曲がりに曲がった。
目的地に直線的に向かっているのではなく、でたらめなジグザグ模様を描いて進んでいるようだった。しかも目的地まではけっこうな距離があった。そしてその間、風のフェアリーを主とする集団は、その走る速度を緩めようとはしなかった。
当然の帰結として、ほどなくアキラの息が上がってきた。
既に最後尾になり、遅れ気味であった。
彼はここで、自分がデュナンであると言う事を思い知らされていた。
走る、跳ぶ、といった速度と身軽さに於いては、鍛えているとはいえさすがのアキラもアルヴ族の持つ基本的な身体能力とは比ぶべくもない。
彼らは息を切らすこともなく、雪交じりの石畳の上を走ると言うよりは半分飛ぶように駆けていた。
いまだその風のエレメンタルとしての能力が発現していないエルネスティーネだけはティアナの背中にしがみついてはいたが、アルヴィンである彼女とて、持久戦にならなければアキラより早く移動できる基本的な能力を有しているはずであった。
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