第三十四話 四冊の本 4/4

「ボクは君とはもう少し今までの関係を続けていたかった。この気持ちは噓じゃない。何せ君を話し相手に吞むビールほど旨いものはないからね。君との時間はボクにとって心底くつろげて、楽しめる時間だったよ」

「ミリア」

「でも、ボクもそろそろ動き出す時が来たみたいだ。いや、もう動き始めている。だからここへは君にさよならを言いに来たんだ」

 アキラは慌ててミリアの言葉を遮った。

「ちょっと待て」

 ミリアはしかし、徹頭徹尾、己の都合で動く人間だった。

「今言った通りだ。大葬でマルクは必ずつまらない事を『やらかす』だろう。もしやらかさなければ、誰かがムリにでも仕向けるだろうね。マルクがどうなろうと知ったことじゃあないが、そうなれば絶体絶命になるのは護衛の役を仰せつかったエスカだ。さらに言えばすでに大賢者に懐に入られた段階で彼の命は五大老側に握られたも同然だろうけどね。だから君はこれから、その目で確かめなくちゃいけない」

「確かめる?」

大賢者天色の槢(あまいろのくさび)ことニーム・タ=タンが本当に五大老の刺客としてエスカの側で牙を隠しているのか、あるいは犬の振りをした狼なのかを、だよ」

 ミリアの語り口は終始静かなものだった。通りを行き交う人々を眺めながら、降り始めた雪の積もり具合の話をしているような、極めて日常的な話題を口にしているようにしかアキラの目には映らなかった。

 アキラはその口ぶりで理解した。ミリアはニーム・タ=タン、いや大賢者天色の槢の本当の目的すら知っているのだろうと。

「まあ、さっきも言ったように《天色の槢》にはボクの方が先に会うことになるだろうから、場合によっては君は彼女の顔を一度も見ることはないかも知れないけれどね」

 それは理屈ではなく、ミリアならば知らぬはずはないという根拠のない思い込みでしかなかったが、「本」の存在を知らされた今では、そう考えなければ自らの道化振りが助長されるようで、惨めだと思ったのだ。

「タ=タン大佐が実はマーリンの大賢者だと言う事を、五大老側は?」

 アキラは敢えて《天色の槢》という名を口にしなかった。賢者の名を口にすると、その先入観が持つ力に気圧されるかもしれないと思ったのだ。だが、口にした瞬間にアキラは自分がまだまだ弱い心の持ち主だと言うことを思い知り、心の奥から苦いものがこみ上げてくるのを感じていた。

「知るものか」

 ミリアはそんなアキラの思惑を知ってか知らずか、吐き捨てるようにそう言った。

「誰が誰に何の目的を持って利用されているのか、利用しようと企んでいるのか。君がエスカの片腕を名乗るなら、それを早急に見極める事だよ。それにはいつまでもこんなところにいては駄目だ」

 そこまで言うと、ミリアはふいに柔和な表情に戻った。

「話は変わるけど、せっかくだから餞別代わりにボクの側室を紹介しておこう」

「え? おい、側室というのは冗談じゃないのか?」

「ボクがあのエスカのようなつまらない冗談を言うものか。君の後ろをよく見たまえ」

 ミリアは穏やかな声でそう言った。

 ミリアに翻弄されっぱなしのアキラは唇を嚙むと、それでも言われた通りにゆっくりと後ろを振り向いた。

 そこは先ほどすでに特に変わった人物が居なかった事を確認したばかりだったが、それでもミリアがそう言うのだ。人の気配はないが、アキラはそこに誰かが居ると確信してもう一度辺りを見渡した。道を行き交う巡礼者や観光客にも、通りを挟んだ向こう側のカフェにもそれと思しき人物の姿はなかった。

「誰もいないぞ」

 アキラはやはりミリアにかつがれたのだと合点すると、ため息をつきながら視線をミリアに戻した。

 だが……。


「お久しぶりです、アキラ様」

 アキラは凍り付いた。ミリアの横には長身のアルヴの少女が立っていたのだ。いや、純血のアルヴではないのはよく見ればわかる。緑眼ではないからデュアルだ。

 誰しも一目見れば忘れる事のない特徴的なその髪の色を見て、アキラは声を失った。

 後ろの高い位置で一房にまとめた長い髪……その金と赤の二色が斑になった『モテア』の少女をアキラはよく知っていた。

「スノウ!」

 驚いたのはスノウ・キリエンカの存在だけではなかった。アキラが後ろを振り向いていたのはほんの一、二秒のはずで、一人の人間が、それも大柄なアルヴが隠れる場所などそこには無いはずだった。


(これが、ミリアの特殊な能力だというのか? )

 時間の概念を無視するように、ファランドールのどこにでも現れるミリア・ペトルウシュカの尋常ならざる能力……それは本人以外の人間に対しても使う事が出来るようだった。

 だがその能力がどういうものなのか、アキラはいまだにそれを知らされてはいない。

(つまり、そう言う事か)

 アキラはその事実に思い至り、自分でミリアの無二の腹心だと思い込んでいただけなのだとあらためて理解した。

 明かす事の無かった秘密を、目の前のモテアの少女は知っていて、自分は知らないのだ。

「なぜ、スノウがお前と一緒にいるんだ?」

 ミリアはその問いかけに一切答えず、かわりに見た事もない冷たいも表情で吐き捨てるようにつぶやいた。

「エスカに会ったら伝えてくれ。どんな理由があろうと、スノウの事は絶対に許さないと」

 アキラはなにも答えられなかった。そんなアキラに、スノウはいつものぼんやりとした表情のまま口を開いた。

「ミリアが今言った事は伝えなくてもいいです。エスカには、私がミリアに無事に会えて喜んでいたとだけ伝えて下さい」

 スノウはミリアの元に戻るという望みが叶った事を感謝し、そのミリアは呪詛の言葉を同じ人物に対してアキラに託した。

「それから」

 スノウは視線をテーブルの上の封書に注ぎながら続けた。

「ミリアが言った側室というのは正しくはありません。私達はまだ閨をともにはしておりませんし、そもそも当分その予定はありません。正室が決まらぬうちに先に側室が来るなどあり得ません」

「あ、ああ……」

 二人の一連の話は聞いていたのだろう。だが、スノウにとって大切なのは「側室」という言葉の訂正だけのようだった。

「さて、そろそろボク達はおいとまするけど、君も早めにあの忠実な部下達と一緒にヴェリーユを出た方がいい。急がないとここは閉ざされる」

 ミリアは空を見ながらそうつぶやいた。

 ヴェリーユに本格的な冬が訪れると、その降雪量の為しばしば外界との交通が断絶する事が知られている。ミリアにはその天候の崩れがわかるのだろう。

「それからこれはちょっとした余興だ。さっき振り返った時、君は通りの向こうのカフェにアルヴの二人連れがいたのを見たかい?」

 アキラは怪訝な顔をするともう一度振り返って通りを挟んだはす向かいのカフェに視線を向けた。

 確かにアルヴの二人連れがテーブルを挟んで珈琲を飲んでいた。丁度給仕がそのテーブルにやってきて、なにやら折りたたんだ紙片を手渡しているところだった。

「彼女たちは二人ともマーリン教会の賢者だよ。若い方が《群青の矛(ぐんじょうのほこ)》、もう一人が《二藍の旋律(ふたあいのせんりつ)》という名だ」

「なんだって?」

「さて、ボク達はこれで失礼しよう。君はもう少し向かいの店を見ているといい。正教会の『賢者』と新教会の『僧正』との闘いが見られるかもしれない」

「え?」

「興味深い余興だろう? さてさて、ヴェリーユという特殊な場所ではどっちが勝つんだろうね」

「ミリア、君は一体?」

「ほら、始まるよ」

 ミリアに促され、アキラは再び視線を向かいのカフェに移した。

 賢者だという二人のアルヴはどちらも女で、年長のアルヴは手渡された紙片を広げた瞬間、明らかに動揺した表情に変わった。彼女は紙片を持ってきた給仕を呼び止めようと中腰になったが、そこを数人の男達が囲んだ。

 二人のアルヴを囲んだ連中は、見たところ教会の警備役として街角に立っている僧兵のようだったが、その中に一人だけ橙色の僧服の男が居た。見れば手には剣ではなく精杖を持っている。ルーナーに違いなかった。

「橙色の服の彼はシーン・ジクス。僧正と呼ばれる新教会の高位ルーナーの一人で、どうやらここヴェリーユの守備役としては上位の人間らしいよ」

 ミリアの説明にアキラは視線を戻した。

 が……。

 そこにはもうミリアの姿はなかった。もちろん、スノウの姿も。

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