第三十五話 十年戦争 1/5

 部屋の中をうろうろと歩き回るエルデに、さすがのアプリリアージェも業を煮やしたのか、座って待つように懇願した。

「そんなにイライラして眉間に皺を寄せていると、せっかくの器量良しが台無しですよ」

 その言葉を聞いたエルデは、ただでさえつり上がっている目尻をさらにつり上げると、アプリリアージェをにらみ据えて口を開きかけた。だが何も言わずに両肩を落とすと、深いため息を一つ、ついた。

「あらあら」

 その様子を見たアプリリアージェもやれやれという風にため息をついた。


 アプリリアージェはエルネスティーネ達の帰りを待ちながら部屋付きの給仕に運ばせた紅茶を楽しんでいた。勿論アプリリアージェだけでなく、紅茶はエルデの分も用意されていた。だがエルデは用意されたカップに手を付けようとはしなかった。それどころか椅子にもソファにも座らずに、ただ広い居間を、熊よろしくうろうろと歩き回っていたのだ。

 ただ歩き回るだけならいい。アプリリアージェも特に干渉せずに放置していたに違いない。だがアプリリアージェが耐えかねたのは、エルデの持つエーテルであった。

 エルデは自らのイライラした気分をエーテルに変換して部屋中にまき散らすかのように、部屋の空気をかき乱していたのである。

 さらに言えば、ただのイライラであれば、アプリリアージェも何とか許容したであろうが、エルデ自身が纏うエーテルの雰囲気は相当に良くなかった。いや、簡単に言えば「かなり」悪かったのである。

「時のゆりかご」もしくは「龍墓」と呼ばれるあの特殊な空間で目覚めてから、エルデがこれほど周りの空気に影響を与えるエーテルを纏うのは初めてだった。

 それは「居心地が悪い」「不快だ」などといった言葉で表せるような生やさしいものではなかった。まるで何が出てくるのかわからない真っ暗な部屋に置き去りにされたような気分なのである。体中の産毛の先に何かが触れている。その何かはザワザワとぜん動しているが、正体が見えない。何しろ真っ暗なのだ。そしてまるで方向がわからないのに何かが近づいている音がする。それは聞いた事も無いような音で、低いかと思えば高く感じ、耳を澄ませるとぼんやりとする。時折風も吹くが、それは真下からも真上からもやってくる。しかも一定の力でなく、グニャグニャと体を撫で回るようにして纏わり付くように感じる。感覚の全てを不快にさせるような一つ一つの未知の事象に対して、人間はそうそう耐えられるものではない。自分ではどうしようもない夢のただ中にいて、得体の知れないものにもてあそばれているような不安と焦燥が入り交じり、恐怖の一歩手前で立ち止まるような、そんな気分にさせているのである。エルデのエーテルは。

 そして実のところアプリリアージェはさっきから高まる動悸を抑えられずに閉口していた。少なくとも閉塞された空間とは言え、そんな雰囲気を充満させるような強いエーテルを持つ人間にアプリリアージェはこれまで出会った事がなかった。


「こうして二人だけになるなんて滅多にない機会ですから、じっくりお話しませんか?」

 もちろん、その精霊波がエルデのイライラした気分により醸し出されているというのはアプリリアージェの推理でしかなかったが、それはまず間違いなかった。だから推理が正しいかどうかの検証をする時間があるならば、とにかくこの得体の知れない不安を紛らせる為に、発生源であるエルデを何とかするべきだと考えたのだ。具体的には相手の気分を和らげる事が出来れば手っ取り早く、かつ確実。いや、ひょっとすると唯一の方法かもしれないと感じていた。それにはまずは会話で相手の思考をこちらに引き込む事である。

 そう考えて声をかけたのだが、実は声を出さなければその不快感に押しつぶされてしまいそうになっていたからかもしれなかった。


 アプリリアージェに声をかけられたエルデは立ち止まった。そして文句を言わず、意外に素直にその提案に従い、傍らのソファに腰を下ろした。

 とはいえその所作にさえ、エルデのいらだちは見て取れた。

「二人だけって……ここに居るんは二人だけやないやろ?」

 そう言うエルデの視線はアプリリアージェの隣に座っている小柄なアルヴィンの少年に注がれていた。黒い面を被ったテンリーゼン・クラルヴァインである。エルネスティーネ達と入れ替わりに風呂から上がって来たのだ。

「でもまあ、二人きりみたいなもんかな」

 エルデは自分でそう言って納得すると、今度はあらためてアプリリアージェの顔をじっと見つめた。

 マントの下は紗(うすぎぬ)一枚の姿であったエルデは、とりあえず部屋に用意されていた夜着に袖を通していた。裸同然の姿にマントを羽織っただけというあられもない格好からようやく脱していたが、用意されていた夜具は成人デュナン、それも男性用のもののようで、デュナンより小柄なピクシィの女であるエルデには、あらゆる基準から見ても大きすぎた。

 手を伸ばしても指先すら見えない上着の袖をまくり上げては見たものの、上質の細い絹糸で織られた薄手の生地は、たいした抵抗を見せずにするすると元の形に戻った。最初のうちこそそれを再びまくり上げ、ずりおちてはまくり上げるという不毛な格闘を続けていたが、さすがに今はもう白旗を掲げたようだった。勿論その闘いはエルデの敗戦で終結したのだ。抵抗を止めたエルデは所存無げにその余った袖をぐるぐると回しながら、ソファの上で相変わらず落ち着かない様子を見せていた。


「エイル君は一時間ほどかかると言ってましたね。だとするともうあと半時間ほどですよ。その間、紅茶でも飲んでゆったりとした気分で待ってはどうですか?」

 アプリリアージェの言葉に、エルデはふてくされたような顔で返した。

「リリア姉さんには今のウチの気持ちはわからへんと思う。なんせ味のある食べ物なんて、二年振りなんやで?なんかこう、その時が早よ来いひんかなって、そわそわしてどうにも落ち着かへんねん」

「だからですよ」

 アプリリアージェは微笑んだまま、子供に言って聞かせるようにゆっくりと声をかけた。

「おいしい紅茶を飲めば、そのそわそわした気分もきっと落ち着きますよ」

 自分の中に次々と沸き上がっては霧散していく不安は紅茶ではとても抑えられない事を思い知らされていたアプリリアージェは、微笑みの裏で苦笑していた。

 だが、エルデは即座にその提案を却下した。

「それはでけへん相談や」

「え?」

「考えてみ」

 エルデはソファから立ち上がると、裸足のまま再び部屋を歩き始めた。全く落ち着きのない事この上ない。

 アプリリアージェは軽く呆れながらもエルデのその様子をつぶさに観察した。

 女のアプリリアージェから見ても一見近寄りがたい程の美貌と侵しがたい気品を纏っているエルデだが、その大人っぽい雰囲気とは裏腹に行動は本当に子供のようで、とらえどころがない。目覚めてから『時のゆりかご』を出るまでの取り澄ましたエルデとはまるで別人で、ヴェリーユに入ってから……いや、この部屋に入ってからはまるで壊れた人形のようにあてもなく、くるくると動き回るだけである。

 いや、違う。

 アプリリアージェはあらためてエルデに関する最近の記憶を紐解いた。

 落ち着きがなくなった原因は明らかだったのだ。

「二年振りに口にする味のする食事なんやで。それがヴェリーユの宿で出される抹香臭い紅茶とか、ありえへんやろ?」

 本人は「そわそわ」と言ったが、明らかに「イライラ」した態度を隠さずにどうにも落ち着かない様子になったのは、エイルがエルデを残して部屋を出て行ってからなのだ。

 言い換えるなら、エイルと離れたとたんにエルデは落ち着かなくなり、イライラし始めたという事なのである。


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