第三十四話 四冊の本 2/4

 疑問をミリアに直接的にぶつけるべきかどうかを逡巡している間に、ミリアの方が口を開いた。

「君の話は一段落したようだから、今度はボクがここに来た理由を言おう」

「うむ」

 ミリアはアキラの報告に対して、さしたる興味を持っていないようであった。たいした質問をしてこないのがその証拠である。ミリアは興味がある項目についてはかなり深くしつこく質問をする人間なのである。要するに今のミリアの興味は自分がアキラに会いに来た理由だけだという事なのであろう。アキラとしてはもはやそれを聞くしかないのだ。

「簡単に言うと、君にはさよならを言いに来たのさ」

 あっさりと告げられたその言葉を、アキラの意識はすんなりと受け入れる事を拒絶した。

「何だと?」



 思わず口を突いた言葉の後で見つめたミリアの表情は、アキラが息を吞むほど冷たいものだった。そこにはアキラの知る柔和なミリア・ペトルウシュカはいなかった。

「君は急ぎドライアドに戻り、今後はエスカを守れ」

「待て。なにを言ってるんだ?」

 ミリアの言葉に反射的に腰を浮かせて小さく怒鳴ったアキラは、しまったと舌打ちをすると、素早く辺りを見渡した。

 もともと賑やかな場所である。それが幸いして、アキラの事を気に掛けている人間はいないようだった。

「興奮するな」

 ミリアは軽くアゴを上げてアキラに席に着くように促した。

「言葉の通りだよ。君はあの気の強そうな副官からエスカがアプサラス三世の大葬に列席する事は聞いているだろう?」

 アキラはうなずいた。

「マルクがフェリックス……いやエラン五世の名代で列席することになって、そのお供に指名されたんだろう? 五大老に」

 ミリアはペシカレフ公爵をマルクという名で呼んだ。又従兄弟にあたるペシカレフ公マルクとミリアは旧知の仲なのだ。

「ミリア。君は何が言いたい?」

「いやだなあ。君ともあろう者がわからないのかい? ならば教えてやろう。いいか、エスカの幕僚長になった特級バードのタ=タン大佐の正体はマーリン正教会の人間で、しかも五大老と裏で取り引きをしている節があるんだぞ」

「何だと?」

 それは勿論、アキラには初耳であった。

「この際、はっきり言おう。タ=タン大佐は五大老の犬だ。マーリン正教会は今度の戦争でドライアド、いや五大老と手を組んだという事さ。タ=タン大佐は五大老がエスカにつけた首輪というわけだ」

「ばかな。バード庁は五大老と対立していたはずだろう?」

「だから情勢なんて一晩で変わるのさ。もっとも、今回の動きはどうにも早すぎる。だからボクも焦っているのさ」

「焦っている?」

「いや、ボクの話はどうでもいいんだ。いいかい、タ=タン大佐の件は、マーリン正教会がファルナ朝ドライアド王国に対して興味を無くした徴(しるし)と見るべきだ。ドライアドだけじゃない、新しい枠組みでこの世界を治めようと言うことなのだろうね。アプサラス三世の死はファランドールの歴史を急がせる調べ矢だったのさ」

 ミリアはそこまで言うとテーブルの上の封書を指で弾き、それをエスカの目の前に滑らせた。

「次いでと言っては何だけど、多分……いや間違いなくその中には書かれていないタ=タン大佐のさらなる情報を君には教えておこう」

「情報?」

「このままだと君はエスカの下で彼女と同列の扱いになる。いや、タ=タン大佐はエスカと閨(ねや)を共にする訳だから君よりもより近しい存在となるのは明らかだ」

「閨?」

「何だ、そんな事もまだ君のところには届いてないのか?」

「ニーム・タ=タンという名前と、特級バードである事くらいだ」

 ミリアは大げさに肩をすくめて見せた。

「せめて、この封書の中身にはそれについての記述があると信じておくよ」

「私もそう願いたい」

「もっとも、それはどうでもいい」

「と、言うと?」

「そちらはこのボクが手を打っておく。とはいえ正体は知っておいた方がいい。いいかい、ニーム・タ=タンはマーリン正教会の人間だと言ったが、ただの手先や末端じゃない。もちろん高位ルーンが使える数少ないルーナーというだけでも大した物だが、彼女はそれ以上の存在だ。本来五大老の先棒を担ぐような役回りをするような小物じゃないのさ」

 アキラは眉根を寄せた。

「まさか?」

「そのまさか、だよ。エスカのお相手は賢者だ。しかもただの賢者じゃない。あの《真赭の頤(まそほのおとがい)》と同列にある者、と言えばわかるだろう?」

 アキラにはミリアに切り返す言葉が見つからなかった。目の前の金色の瞳を持つ青年が喋る言葉は、アキラの体をすり抜けてどこかに消えてしまうような不確かな空気のように思えた。それはまるでヴェリーユの町に漂う蒸気のようにつかみ所が無く、今までアキラが確実なものとして構築してきた世界そのものの輪郭をあやふやにさせるのに充分だった。


 ル=キリアとの旅で得た想像を絶する程の事実をもってしても、驚愕はしたがアキラを放心させるほどの出来事はなかった。

 とはいえミリアの言葉を信じないという選択肢はアキラにはない。ミリアの態度ですでにアキラにはわかっていたのだ。彼が知り得た情報はミリアにとってはすでに興味の対象ではなかった。なぜならその証拠に、ミリアは大賢者の名、それも賢者名ではなく現名(うつしな)を当たり前のように口にした。知っていたからこそ言えたのだ。ドライアドのバードの中に賢者が紛れ込んでいるなど、諜報組織の中心にいるアキラにさえ届いていない事だ。

 だが、ミリアをもっとも理解していたつもりのアキラである。冗談なのかそうでないのかの違いはわかる。ただし理解していたと思った範疇がアキラの予想よりも大幅に狭かった事実も同時に認識する事になった。


「いつからだ?」

 アキラは絞り出すような声でようやくそうミリアに言葉を投げた。

「私が言った事は全部知っていたんだな?」

 だが、ミリアはそれにはなにも反応しなかった。

「今まで私に噓をついていたのか? その口ぶりだと君はこのファランドールの事を、実はかなり深く知っているようだ。だからあんな計画を考えたんだな?」

 そこまで口にして、アキラの脳裏にある言葉が浮かんだ。

「いつか言っていた『神名の欠落(しんめいのけつらく)』も、実はもうあの時君は解決していたんだな?」

 ミリアはアキラの問いかけには答えず、寂しそうな顔をして視線を外し、通りをゆく人々を眺めながらつぶやいた。

「ボクにとって、君は無二の君だから、敢えて話そう。あれは君を試したんだ」

「試した、だと?」

 ミリアはうなずいた。

「君が持ち主、もしくはその関係者でないことを最終的に確認させてもらったようなものかな」

「わけがわからん」

 憮然とするアキラをじっと見つめながら珍しく躊躇したような表情をしたが、それもすぐに普段の微笑に戻った。そして声の調子を落としてぽつんと告げた。

「――実はボクの手元には、一冊の本がある」


「本?」

 唐突に口から出た「本」という言葉にアキラはさすがに混乱しかけたが、考えてみればそれはいつものミリアの調子であった。脈絡のない話題がいくつも出るかと思うと、話の最後にはそれが全てつながっている……それがミリアの思考形態なのであろう。

 ミリアは続けた。

「そこには、ファランドール中の歴史学者や考古学者、民俗学者といった連中が知りたいと思う事は凡そ書かれている」

「え?」

「もちろん、『神名の欠落』と言われる神話の空白部分についてもね」

「ならば」

「だからこそ、さ」

 少し強い調子でアキラの言葉を遮ると、ミリアは視線を親友に戻した。

「勘違いしないで欲しいが、その本は歴史書でもなければ伝承本でもない。少なくとも学術的な検証は一切されていない、創作物語とでも呼ぶべきものなんだ」

「物語だと?」

 ミリアはうなずくと、両肘をテーブルについて、アゴを手の上に載せた。

「まあ、物語と言うにはあまりにつまらない話だけど、少なくともマーリンがファランドールを作るところから、新教会が誕生する所までの歴史が書かれているのは確かだよ。それも、誰も信じないだろうって言う、ばかばかしい話が延々続くのさ。いや、ばかばかしいと言うよりは、ボクらが幸せに生きて行こうとするなら知らなくていい話、というべきだろうね」

「……」

「その本は作者と名乗る人物から直接手渡された。残酷な事にその時ボクはまだたった六歳だった」

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