第二十八話 海蛇のスタンセイル 3/4

 ジナイーダは希少品のワインよりも、その小さな紙片の方が何千倍も価値があると思った。

「ねえ。これ、私がもらってもいい?」

 これ、とはもちろん紙片の事である。

「たった二行の、それも何てこと無い文章なのに、なんで私、こんなに嬉しいんだろう」

 リンゼルリッヒは

「お前もそれだけ情が深いってことだろうな」

「『も』なのね?」

「ああ、俺もさっき自分で気がついた」

 二人にはもちろんわかっていた。ニーム・タ=タンという特殊な少女が、普通の少女のような一面を持ち始めたのは、誰がなんと言おうとエスカ・ペトルウシュカとの出会いが原因なのだと言う事を。

 その紙片が、ニームの自発的な行動なのか、エスカの助言によるものなのかはわからない。また現存すら危ぶまれているような希少なワインを、いったいどうやって調達したのかも謎である。ニームがワインの流通に明るいとは思えないから、おそらくはエスカが手配したものであろう。ひょっとしたら、この演出は全てエスカ・ペトルウシュカという油断のならない策士が、部下を完全に籠絡させるべく計画したものかもしれない。

 だが、たとえそうだとしても、もうそんな事はどうでもいいと、ジナイーダは思った。ニームとエスカをひっくるめて全力で守るだけなのだと。

「陰謀を企てていた俺達が、陰謀にはまったのかもしれないな」

 リンゼルリッヒは苦笑しながらそうつぶやいた。

 その言葉は、自分が今考えていた事と同じで、そしてリンゼルリッヒの表情は、自分が今決心した事と、きっと同じなのだとジナイーダは思った。

「そうね」

 ジナイーダは改めて紙片を開くと、その文字を指でなぞった。

「やるべき事がはっきりするって、気持ちがいいわね」

「そうだな。やらされていると思うより、やりたいと思う方がいいに決まってるさ」



 リンゼルリッヒの服をたたみ終えると、ジナイーダはテーブルに近寄った。その上に丁寧に畳んで置かれているニームの言づて書きを見つけると、そっとつまみ上げて大事そうに手の中に包み込んだ。

「なんか、さ」

 ジナイーダは背中を向けたままで、そうつぶやいた。

「ん?」

「ニーム様の事、なんだかものすごく可愛く思えてきてしょうがないんだけど、どうしよう?」

「おいおい、笑いの沸点だけじゃなくて、そっちの方もずいぶん低いんだな?」

「そうみたい。だって、あなたに対しての沸点も低いもの」

「いや……。まあ、気持ちはわかるが仕事は冷静に頼む。ニーム様だけでなく、お前まで暴走したら、俺はどうしようもないぜ」

「でも、今日会ったらいきなり抱きしめちゃうかもしれないわ」

「わかった。その時は全力で引っぺがしてやる」

「その時、ムカっとして、あなたを石化させたりしたら、ごめんね」

「おいおい」


 二人が同時に笑い声を上げた、その時だった。一定の周期の揺れで、安定した航海を続けていた大型帆船グェルダンが、急速に速度を落とした。

 それが尋常ではない急制動である事は、立っていたジナイーダが床に膝を突いた事でも知れた。船が何かにぶつかったのだろうか? それにしてはそれらしい音もしない。

 さりとて帆船が急に止まれるはずもない。

「何事だ?」

「まさか錨を降ろしたの?」

「ばかな。急にそんな事をしたら転覆する」

 二人は顔を見合わせた。

 ジナイーダは体に巻き付けていたシーツを脱ぎ捨てると、手に持った着替えに袖を通し始めた。自室に戻っている時間などなかったのだ。見ればリンゼルリッヒも既に自分の服を着ながら、窓の外に目をやっていた。

「海賊か」

 夜がうっすらと明けようとしていた。まだ明るくなり始めた瞬間と言えたが、それでもその窓の外に広がる異様な景色が判別できた。

 無数の帆船が並んで航行していた。ただし、グェルダンが急停止したためにまさに追い抜いていこうとしているところだった。

 もちろんそれは護衛の軍船ではない。護衛は合計三隻。だが窓の外に見える船影は十隻や二十隻ではなかった。そしてそれらが普通の商船ではない事は、薄暮の中でも一目瞭然だった。グェルダンを追い抜いていく全ての船には、火矢を装填した弩(いしゆみ)があったのだ。

 

「アナクラだ」

 リンゼルリッヒはうめくような声で海賊の名を告げた。

「わかるの?」

「これ見よがしに海蛇のスタンセイルを掲げている」

「アナクラがなぜ、こんな南に?」

「そんな話は後だ」

 リンゼルリッヒは既に精杖を手にしていた。

「そうね。とにかくニーム様のところへ急ぎましょう」

 そう言ったジナイーダの準備も整った。二人は扉を開くと、主人の下へ向かった。

 リンゼルリッヒに続いて部屋を出る際、ジナイーダはチラと窓を振り返り、外の様子を窺った。そこには確かに見慣れぬ複数の船影がグェルダンを追い越してゆく様が見えた。そのメインマストの横に付きだしたスタンセイルは真っ黒で、そこには確かに海蛇の紋章が染め抜かれていた。

「黒?」

 ジナイーダはそう呟くと立ち止まった。しかし、急ぐように促すリンゼルリッヒの声に応えると、きびすを返した。


 海賊アナクラ。

 それは当時、ファランドールの北方の海域を拠点とする海賊の名前であった。アナクラと言うのは北方海域では最大の勢力を誇っていた船団組織の首領の名とされている。

 アナクラは統率された高速な船団を持っており、まともに戦えば各国の小規模の艦隊ではとても太刀打ちできない程の戦闘力を備えた、もはや立派な海軍と言っても過言ではない勢力を有していたようである。

 ただ、月の大戦の頃には特筆するほど大きな事件や犯罪行為をしたという記録はなく、小規模な襲撃や略奪の記載がある程度である。

 海賊は一般的に通常は商船に偽装しているが、ひとたび事に及べば相手への威嚇の為にその紋章を染め抜いた帆を掲げる事があった。有名な海賊になればなるほど、その紋章の効果は絶大であり、彼らは戦わずして相手の降参を勝ち取ることが出来たという。


 許しを得て主人達の船室に入ったジナイーダとリンゼルリッヒは、緊急事態であるにもかかわらずニームの様子を見ると軽い失望感を禁じ得なかった。わざわざ護衛二人をたっぷり一晩自室から遠ざけたにも関わらず、そこにはいつもと特に変わらぬ表情のニームが一人で身繕いをしている最中だった。

 クロゼットにはニームが昨夜着ていた夜会服が丁寧に掛けられてある。

 エスカのベッドは使われた様子が無く、長椅子の横にブランケットがきちんと畳まれていた。床に散らばる衣服などは皆無だった。

 要するに二人の間には、特に何事もなかったようだった。


 姿見を前に着替えをしているニームの顔の両脇の長い髪には、まだ例の精霊陣が描かれた布が巻き付けられておらず、後頭部にはほほえましい寝癖もある。こちらはまさに起き抜けと言った風情だった。

「エスカは先に船長室へ行った。私も後で向かう」

 ニームは白い佐官服のボタンを留め終わると、短くそう言って二人へ先に行くように命じた。

「ニーム様は?」

 とりあえずリンゼルリッヒを先に向かわせると、ジナイーダはそっと櫛を手渡しながら尋ねた。

「見ての通りだ。私の方はもう少し準備に時間がかかってしまう」

 姿見で髪をとかしながら、ニームはそう答えた。寝癖がどうにも上手く収まらないようであった。

「エスカ様は何かおっしゃっていましたか?」

 ジナイーダの問いに、ニームは手を止めた。

「急に船を止めるヤツがあるか、と大いに叱られた」

「あの急制動はニーム様の仕業でしたか」

「仕業、とは人聞きが悪いな」

「お許し下さい。つい」

 ニームは小さなため息をついた。

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