第二十八話 海蛇のスタンセイル 2/4
「お聞かせ下さいまし。どのようなお味でしたか?」
「は?」
「是非にお聞かせ下さいまし」
「急にそう言われてもな……」
ニームはジナイーダに問われても、彼女が望むような回答を持ち合わせていなかった。
「飲んだような、飲んでいないような」
そもそもニームはまだワインの味を云々する歳としては若すぎた。成人ではあったが彼女にはそもそも食事の時にワインをたしなむという習慣がなかった。せいぜいバードとして参加せざるを得なかった王宮内の晩餐会で、勧められるままに何度か飲んだ程度である。
例のワインにしても歓迎会で出されたから口をつけたものの、彼女にとって赤ワインの味の感想など「すごく渋い」「かなり渋い」「けっこう渋い」くらいの種類しか思いつかなかったのだ。ましてやその時に飲んだ銘柄と味の記憶が一致しているものがあろうはずもない。
ジナイーダは誰が見てもわかる程度にがっかりした顔をエスカに向けたが、彼は首を横に振った。
「いや、俺が飲む前に、そいつ、一本全部開けちまったからな」
「ええ?」
「その日は合計五本くらい開けてたかな。最後まで顔色一つ変えずに、な」
ジナイーダはその時初めて知る事になった。ワインの味もわからない成人になりたてのニーム・タ=タンという十五歳の少女が、実はとんでもないウワバミだった事を。
「いやあ、あんなに気持ちのいい飲みっぷりをするヤツは久しぶりに見たぜ」
「あ、あの時はなぜか喉が渇いていたからな。そうか、最初に飲み干したあの瓶がそのプリマロースハムとかいう特別なワインだったのか」
「プレロースコフ、三九八〇年ものです!」
ジナイーダはピシャリとニームの言葉を訂正した。
「ジーナよ、お前は何を怒っているのだ?」
「お、怒ってなどいません。ただ、どんな味がしたのかが気になるだけです」
「そうか。すまん。一気に飲んで、すぐにスープにとりかかったので、味の方は全然おぼえておらん。不味くはなかったとは思うのだが」
「そうですか……」
そう言って今度はあからさまに肩を落としたジナイーダに、エスカが慰めの言葉をかけた。
「まあ、それくらいにしてやれ。それよりそのラベルにそこまで反応するってことは、ジーナはけっこうなワイン通なんだな」
エスカはそう言った後で、後ろについていたニームを振り返った。ニームはしかし、首を横に振った。
「ジーナがそこまでのワイン好きだと言う事は、私も今初めて知った」
「そうか」
「いや」
ニームはもう一度首を横に振ると、うつむいた。
「私は……考えてみればジーナの事を何も知らぬのだな」
その言葉はやけに寂しそうに、ワイン倉に響いた。
「なに、心配には及びません。ニーム様」
すかさずリンゼルリッヒが口を挟んだ。
「ニーム様は私の事もよくご存じないはずではありませんか」
そう言われたニームは、顔を上げてリンゼルリッヒを見つめた。いつもの微妙な嫌みかと思ったのだ。
だが、ニームの視線の先にあるリンゼルリッヒの表情は彼お得意の皮肉っぽい作り笑いではなく、おそらくニームが初めて目にする優しげな笑顔であった。
「つまり私たちはニーム様に平等に扱ってもらってるってことですからね。ジーナの事だけご存じだったりしたら、きっと私はヤキモチをやいてしまうでしょう」
ニームはリンゼルリッヒのその言葉の真意を測りかねた。ただ、その言葉が嫌みではないと言う事だけは頭ではなく気持ちで理解した。そんな事もまた、彼女にとっては初めての事であった。
リンゼルリッヒに返す言葉を探しているニームの頬をエスカが指で突いた。
「な、何をする?」
「俺もこいつらの事はよく知らねえから、これでおあいこだな。何、これから知っていけばいいさ」
「知っていく?」
「何も知らない仲間っていうのも、確かにある」
エスカはジナイーダに無言で手を差し出すと、彼女が抱えていたワインが入ったバスケットを受け取った。
「だが、相手を知った方が、楽しみは増える」
「楽しみ? それは何だ」
「うーん。そうだな」
ニームの素朴な問いかけに、エスカは少しの間考える様子で間を空けた。
「難しい質問だな。まあ、適当に答えとくと、気持ちがいいって事だろう」
ニームはそれには何も応えず、エスカが抱えるワインのバスケットと、ジナイーダとを見比べていた。
思わぬ事で発覚したジナイーダのワイン好きだが、本人の言い訳によるとワイン通という程ではない、という事であった。「通」ではないのかもしれないが、ジナイーダがどれだけワイン好きなのかと言う事は、エスカが抱えるバスケットの中を見れば一目瞭然だった。
プレロースコフの三九八〇年物が水の代用品として、あっという間にニームの胃に消えていった事を知った彼女は、その反動でそれまでの遠慮が噓のように、倉のあちこちから目を皿のようにしてワインを選び出していたからである。
それは言葉より行動の方が雄弁にその人を語ると言う事を、ニームが目の当たりにした瞬間でもあった。
リンゼルリッヒが示したワインのラベルを見て、ジナイーダはその時の事を鮮明に思い出していた。
「まさか、ねえ」
「シャワーなんて浴びてる場合じゃなかっただろう?」
ジナイーダは素直にうなずいた。
そして、ワインの瓶を持ち上げると、うっとりするような表情で部屋の灯りにすかして中の液体の色を眺めた。
そしてあの時は賢者になってから一番がっかりした瞬間だったかもしれないな、と思い返すと妙におかしな気分になった。
「エスカ様という人は、私たちの想像の上を行く人ね」
そう言うジナイーダに、リンゼルリッヒはいたずらっぽい笑顔を向けた。
「何?」
「エスカ様が想像以上の人物だって事には同意だ。ただし、あの人はジーナが思っているよりずっと上を行っていると、俺は思う」
「もったいぶってないで教えてちょうだい。何か知ってるんでしょう?」
リンゼルリッヒは隠しから畳まれた小さな紙片を取り出すと、ジナイーダにそっと手渡した。
「危ないから、瓶を置いてから読め」
「何よ」
ジナイーダはしかし、リンゼルリッヒの忠告を無視してプレロースコフの三九八〇年ものを抱いたまま、差し出された紙片をひったくるように奪うと、すぐに開いた。
小さな紙片である。書かれている内容は当然ながら一目で読める分量でしかない。だからジナイーダは、紙片を開くと同時に中に書かれていた文章を一目で読むことになった。そしてあろう事か、その瞬間に抱いていた大事なワインをその腕から落とした。
「おおっと」
予測していたから間に合ったのだろう。リンゼルリッヒは倒れ込みながら大事な大事なワインが床の染みになる寸前に、無事受け止める事が出来た。
「何よ、これ」
夢にまで見たかどうかは定かではないが、あれほど飲みたかったワインの事など忘れて、ジナイーダは紙片を振り上げてリンゼルリッヒを睨み付けた。
「このワインの下に敷かれてた」
「そんなことを聞いているんじゃないわ。だって、こんなの……」
そう言うとジナイーダは思わず鼻と口を手で覆った。
「これは、ちょっと反則じゃないの……」
ジナイーダは鼻声になっていた。見るとその青い眼から、大粒の涙があふれている。
「言わんこっちゃない。ワインを先に置けっていっただろう」
ワインをそっとテーブルに戻すと、リンゼルリッヒはそう言いつつ紙片を見つめて泣いているジナイーダを後からそっと抱きしめた。
その紙片には、まるでお手本のように美しい文字で、こう書かれていた。
「これはワイン好きのジーナこそが飲むべきものだ。
リリと二人で、今宵はのんびりと食事を楽しんで欲しい」
きっちりとした隙のない筆跡で綴られたその短い文章は、紛れもなくニームの直筆であった。
ジナイーダとリンゼルリッヒが感動したのは、もちろんその達筆が故ではない。ニームの書く文字が印刷物のように美しい事は彼らは当然知っている。
だが、それは公務である文書に記されたものでしか見た事がなかったのだ。つまり、二年以上行動を共にしてきて、初めてニームから受け取った手紙がそれだったのだ。
ついこの間まで、血の通ったような会話すらしようとしなかった大賢者が、まるで友人か姉妹にあてたような文面をいきなり寄越してきた。
しかも、とんでもない贈り物と一緒に。
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