第二十八話 海蛇のスタンセイル 4/4
「とりあえず保護ルーンを使いたかったのでな。何はなくとも座標軸の固定だけはしておかねばと思って『槢(くさび)』の精霊陣を発動させたのだ」
「後方に船がなくて幸いでした」
「エスカも同じ事を言っていた。確かにそうかもしれん。だが私の優先順位は決まっている」
「それで、エスカ様はお怒りになって部屋を出て行かれたのですか?」
その質問に対しては、ニームは大きく頭(かぶり)を振った。
「叱りはしたが、エスカはもともと怒ってはいなかった。海賊が現れたと私を起こしてくれた時も、先に出て行く時もいつもの優しい声のままだ。寝床から出られぬ私を見て、掛け布団を直してもくれた」
この寝癖のせいで起きられなかったのですね、とはジナイーダは言わなかった。それよりも眠っているニームを見た時のエスカの気持ちを想像すると、笑いがこみ上げてきた。
エスカはおそらく、この寝癖を見て笑いを堪えながらも、ぐっすり眠っているニームをとりあえず起こし、事の次第を手短に告げたに違いない。
「海賊か。やっかいな事にならぬといいがな」
そう言って再び髪をとかそうとし始めたニームの手からやさしく櫛を奪うと、ジナイーダはニームの寝癖直しに取りかかった。
「ニーム様は精霊陣の結布(ゆいふ)を」
ニームは何も言わずに頷くと、懐から何本かの細い布を取り出し慣れた手つきで耳横の長く伸ばした一房をそれでまとめ始めた。
「海賊が出たと言うのに、ジーナは楽しそうだな?」
鏡に映るジナイーダの笑顔に気付いたニームはそう言った。
「そうですね」
ジナイーダは少しバツが悪そうに苦笑した。
ニームが気付いているのかどうかは分からなかったが、ジナイーダがニームの身繕いの手伝いをするのは、その時が初めてだったのだ。ニームはいつも一人で何もかもこなしてしまう。彼女たちには業務上必要な事柄しか要求をしてこない。そう言う意味では仕えるには楽な相手と言えたが、それがお互いの距離感を埋められない原因にもなっていたのである。
その日、ごく自然に髪をすく手伝いが出来たことが、ジナイーダには嬉しかったのだ。とは言え、こんなことならばもっとずっと早くできていたのかもしれないとは思わなかった。ここに至るまでには間違いなくお互いの変化があった。だからこそ今この時に繫がったのであろう。
「ところで、エスカ様の船酔いは治まったのですか?」
「フェルンが寄越した丸薬がよく効いたようだ」
「あの特効薬とか言っていたものですか」
「エスカは嫌がっていたが、マルク・ペシカレフ付きの医者の薬が気に入らなかったのではないようだな」
「なるほど。粉薬が飲めない、と言うわけですか」
ニームはうなずいた。
「まったく、どっちが『お子ちゃま』だ」
ジナイーダは笑い声が漏れそうになるのを苦心の末に堪えると、できるだけ感情のこもらない声で尋ねた。
「つまり、昨夜もエスカ様はニーム様を子供扱いされた、と?」
もちろん言葉の意味はニームに伝わったのだろう。ニームの顔が少しだけ赤く染まった。
「ゆ、夕べはその丸薬のおかげでエスカの食欲が戻った事もあって、安心してついつい食べ過ぎてしまったようなのだ」
「それでおなかがくちくなってすぐに眠ってしまったと?」
ジナイーダの問いに、ニームは憮然とした顔をしながらも、小さくうなずいた。
「まあ、お話し相手がそんな状態だと、長い夜はエスカ様もご退屈でしょう。さりとてこの船にはさすがに娼館もございませんし……。ならばここは一つ、ニーム様がご命令下されば、この私がエスカ様の夜伽役を買って出てもよろしいですよ」
「な……」
ニームの手から結布精霊陣が滑り落ちた。
「そ、それは絶対だめだ」
後ろのジナイーダを振り返ろうとしたニームは、しかしそのジナイーダに体を拘束されて身動きが出来なくなった。
ジナイーダが後ろからニームを抱きしめたのだ。
「ジーナ?」
「いま言ったことは、もちろん冗談です」
そう言うジナイーダの穏やかな声に、ニームは抵抗を止めた。
「冗談にしてはタチが悪いぞ」
「ご安心下さい。エスカ様がどれだけ魅力的でも、私はリリに夢中ですから」
「え?」
「お気づきではありませんでしたか?」
「いや……かなり驚いた」
「エスカ様は既にお気付きだったようですよ」
「そうなのか?」
「ええ。一切そんな素振りを見せてはいない自信があったのですが、本当に不思議なお方です」
ジナイーダは昨夜リンゼルリッヒの部屋に準備されていた椅子の並びで、気付かれていることを確信していた。
二人の卓は、テーブルを挟んで向かい合って用意されてはおらず、並んだ状態だったのだ。敢えて指示しなければそう言う並べ方はしないものである。
「そうか」
説明されて、ニームはうなずいた。
「ニーム様とて、エスカ様に対しては私がリリに対するものと同じお気持ちをお持ちなのでしょう?」
「……」
「迷っておいでですか? それとも悩んでおいでですか?」
ニームはしかし、首を横に振った。
「むしろ悩むことも迷うこともない自分に驚く。おそらく、私はどうかしてしまったのだ」
「いいえ」
ジナイーダは即座に否定した。
「ニーム様だけではありませんよ。みんなどうかしてしまうものなのです」
「みんな?」
「みんなです。たまにそうではない人もいます。でも、そうならない人は私は人とは認めません」
「ジーナもリリに対して、どうかしてしまったと言うことか?」
ジナイーダは思わずクスっと笑いを漏らした。
「私だけではありません。リリもきっと、私に対してどうかしてしまったのですよ」
「そうか……」
ニームは目を伏せた。
「エスカは……」
「はい?」
「エスカは優しくはしてくれる。頭がぼうっとするような事を言ってくれる時もある。だが『お子ちゃま』としてしか見てはくれておらん」
「それは……」
ジナイーダは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「こういう事については、たとえニーム様が四人の大賢者の頂点に立つお方であろうと、末席賢者である私の方が経験が豊富です。もしお望みとあらば、助言出来ることもございますよ」
「それは何だ?」
ニームは顔を上げると、姿見を通して後ろのジナイーダの目を食い入るように見た。ジナイーダはニームと目が合うとにっこり笑って見せた。
「こういう事には決まりがあるのです」
「決まり?」
ジナイーダは力強くうなずいた。
「『どうかしてしまった』 からには、それ以上どうにかしたいと思うのならば、『どうかしてしまった』方が思い切って相手にぶつかる事が、人の世、いえ、大人の世界では決まり事になっているのです」
「――ぶつかる?」
「ぶつける、と言うべきでしょうか。言葉でその思いの丈をぶつけるか、行動で示すか、です。相手がどうだとかいう話はその後ですよ」
「――ぶつける、か」
自分に言い聞かせるようにそう呟くニームを、ジナイーダはようやく開放した。もちろん思い切り抱きしめていた訳ではない。そもそもニームはジナイーダの抱擁を嫌がってはいなかったのだから。
腕をゆるめると、ニームはようやくジナイーダを振り返った。
「気持ちよかった」
「え?」
「お前の抱擁は心地よかったと言ったのだ。私には経験がないが、母親に抱かれるとはこのような感じなのかもしれんな」
その言葉を聞いたジナイーダは、今度はそのまま正面からニームを抱きしめた。
「ジーナ?」
「お許し下さい、ニーム様……」
「ジーナ……」
「非常時を承知でお願いします。ほんの少し……。もう、ほんの少しだけ、こうしてニーム様を抱きしめる事を、お許し下さい」
どうして良いのかわからずしばらくそのまま動かなかったニームは、ジナイーダが自分を抱擁しながら涙を流しているのに気付くと、自らの両手をそっとジナイーダの背中に回した。
そうすることによってジナイーダの頬がさらに濡れることになるとは知らずに。
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