第二十六話 客船グェルダン 2/2

 その夜の食事が始まる前に、眉をつり上げたニームが口にしたペシカレフ公爵に向けた悪態と呪詛の数は、おそらく公爵がエスカに要望した項目を上回っており、その場にいた者は既にペシカレフ公爵は呪い殺されているに違いないと確信する程であった。

「だいたいエスカ。お前はあのような事を言われて平気なのか?そもそも何だ、その腑抜けた顔は?」

 怨念のたっぷりこもった悪態が終わると、矛先が今度はエスカに向けられた。

「お前は腹が立たないのか?文句の一つも言うべきであろう!」

「いや……」

 エスカはいきなり始まったニームのペシカレフ公マルクに対する罵詈雑言大会をあっけにとられて眺めていたのである。その矛先が自分に向けられるとは思っても居なかった。


「いや……、何つーか、別にもう腹は立ってない」

 そう言ってエスカは苦笑いを浮かべた。

「はあ?」

 ニームは普段見せないような鋭い眼光でエスカを射た。

「あの愚かしい自分勝手な要望を聞いて平気なのか?」

「いや、怒り心頭だった」

「だった?」

 ニームは訝しげな表情でエスカを睨んだ。

「ああ。さっきまではな。でも、もういいんだ」

「なぜだ?」

「俺の代わりにお前が全部言ってくれたじゃねえか」

「え?」

 ニームはきょとんとした顔でエスカを見た。次に横合いに立っているロンドの表情を伺った。あっけにとられていた二人だが、今は嬉しそうに微笑んでいた。

「お前が俺の言いたい事を全部言ってくれたから、スッとした」

「まさにエスカ様のおっしゃるとおりです。このロンドの気持ちも、ニーム様のおかげで今はもう晩秋の空のようにすっきりと晴れ渡りました」

「いや、まったくだ。これからも頼むぜ、ニーム」

 エスカとロンドはそう言うと、顔を合わせて笑い合った。

「訳がわからん!」

 ニームは今度は二人の態度に腹を立ててふくれっ面をしたが、笑いやまないエスカとロンドに釣られて、いつしか自分も声を出して笑っていた。


 ともかく、そう言う事があったためにニームはマルク・ペシカレフ公爵という人物がどういう人間かをあらためて理解できた。それは、大葬が終わりシルフィードを無事に後にするまでのエスカと自分の役割を再認識する事に大いに役立ったのだ。

 マルクは虚栄心の固まりのような典型的な小物である。しかしながら歴史の転換機とも呼ばれる重要な場面では、しばしば傑物と呼ばれる人物よりもマルクのような存在が鍵を握る事がある。それは浅考で軽薄であるからこそとれる行動による。

 エスカとニームはそれを恐れた。

 マルクはなまじ公爵という家柄であるだけに始末が悪い存在であった。大のアルヴ嫌いとしても有名である。そんな男が国王の名代としてアルヴの国に行こうというのである。どんな楽天家であろうと、まともな神経の持ち主であれば、ドライアド国王エラン五世が「正しい」人選をしたとは考えないであろう。

 今回に限っては、エッダ滞在中につまらないごたごたを起こされると、それは『「小物」ペシカレフ公爵の馬鹿な所行』では済まされない。

 なにしろ国王名代なのだ。

 ペシカレフ公爵の失態は、すなわちエラン五世、ひいてはドライアド王国の「態度」ととられかねない。

 いや、この間のファランドール情勢を踏まえて考えるならば、少なくとも何よりも矜持を重んじるシルフィード王国にとってそれは宣戦布告に等しいものととらえられてしかるべきであろう。

 当初エスカは五大老がそれを狙ってペシカレフ公爵を名代に据えたのではないかとも考えたが、およそ政治には向かないただの人情家のエラン五世の指名であったことを国王本人から聞くに及んで、腹をくくった。五大老も実のところ国王が決定した人選の対処に苦慮して、最善策としてエスカに白羽の矢を立てたのだという事が判明したからである。

 落ちぶれたとは言え姻戚であるペシカレフ公がエラン五世に対して、それはそれは聞くも涙、語るも涙の物語を聞かせたのであろう。国家的な仕事をしてそれをこなせばそれ相当の褒美を合法的にペシカレフ公爵へ与える事ができる。人の良いエラン五世は単純にそう考えたのだ。言い換えるならば、ドライアドの政治や財政を五大老が実質的に握っているという体制はドライアド王国にとってはこの上もない幸運なのである。人が良いだけの君主は、時に最悪の存在でしかないのである。


 ドライアドがシルフィードに牙をむくには、まだ少し時期が早い。特に先王アプサラス三世が崩御した直後だけに、ここでドライアド側が戦争の口火を切ることにでもなろうものなら、シルフィード王国は新王の下にかつて無いほどの結束を見せる事になりかねない。アルヴ族の気質を考えるとそう判断せざるを得ないであろう。熾烈な戦闘になると、自軍の被害も相当なものになる。戦後処理の事を考えても自軍の疲弊は最小に押さえておきたい。で、あればその時期は今でよいはずはない。

 少なくとも五大老はそう考えたからこそ、出来るだけこの時期に事を荒立てることを防ごうとしているのである。

 それはエスカの見立てでもそうだった。

 とは言え、五大老側としても最悪の場合の保険も同時にかけておきたい。その最適解がエスカ・ペトルウシュカという人物であったのだ。

 万が一失敗した場合、ドライアドは二つの公爵家を「処分」することによって対シルフィード王国への詫びとし、今ひとときの時間を稼げると計算した。

 力のないペシカレフ家は問題なくつぶせる。ペトルウシュカは強大だが、公爵本人は実質的な当主によって幽閉されており、その実質的な当主は口頭ではあるが、国王への領地献上を約束している。大義名分はすでに存在しており、公式な文書はどうとでも作れる。国王の名でミリアから爵位を取り上げたあと、エスカを公爵の後継とし、それを罰して領地の一部もしくは全部を没収すれば良いだけの事だ。

 ただ、実際にそうなると様々な軋轢が生じる事もまた容易に想像ができる。

 だからそれは最後の手段としてとっておき、できればエスカにお目付役を全うして帰国してもらいたいというのが本心ではあろう。言わば保険の保険がミリアという人物の持つ器量そのものと言ったところであろうか。


 ミュゼからエキープへは陸路で二日ほどの行程だったが、豪華客船グェルダンがエキープを出港するにはそれからさらに五日も要した。

 ペシカレフ公がエキープで連日の夜会を催したからである。

 ある程度の行事を催せる特権を有しているとは言え、自分の財を一サインも減らすことなく贅の限りを尽くせる事を知ったマルクは、いわばやりたい放題であった。

 五日というのは、エキープ到着初日に採寸した服が仕立て上がるのに五日かかったからである。

「国の代表としてドライアド王国に乗り込むのだ。それなりの身なりでなければエラン五世陛下の沽券に関わる」

 マルクはそう言って金糸・銀糸をふんだんに使った恐ろしく重い服を十数着もエキープで用意させたのである。

 エスカはその行為にもちろん顔をしかめていた。

 マルクがミュゼで出発前に同じ理由で夥しい服や装飾品を用意させていた事を知っていたからだ。準備資金としてエスカが国庫から預かった金額の多くはマルクの私腹に化けていた。しかもマルクの服はエスカに言わせると「地獄の道化師のなれの果て」と表されるほどの趣味の悪さを誇っており、それはニームが馬車一台を使った衣装部屋を検分した際、ずらりと並んだその服を見て不覚にも軽いめまいを覚える程の見事さであった。


「目的は大葬であろう?あのゴミ屑のような男はあれを着てドライアド国王の代行として国の執り行う葬儀に列席するつもりなのか?」

 ニームは目をつり上げてエスカにそう抗議したが、エスカは自分の馬車で既に頭を抱えており、ニームに皆まで言わせなかった。

 文句を言うニームの両肩をいきなり摑むと、懇願するような目でエスカはこう言ったのだ。

「ニーム、お前を大賢者と見込んで頼みがある」

「い、いきなり何だ?」

 思い詰めたようなエスカの態度に、ニームは怒りを忘れてしまった。

「長時間眠らせるルーンはあるか?出来ればいびきなどもかかないようにしてほしいんだが」

「おやすいご用だ。何なら永遠に眠り続けるルーンもある」

「いや、それは睡眠と言えるのか?」

「まさかマルクにかけるつもりか?眠っていては列席できんぞ」

「ジーナに石化を頼んでもいいんだが……」

「いや、あれこそ永遠の眠りだぞ?」

「眠らせておいて添え木で立たせておく。まぶたに目を書いておけば起きているように見える」

「正気か?」

「これが正気でいられるか!お前も見ただろう、あの服を?」

「見た。見てしまったというべきだが」

「とにかく、妙案が浮かぶまで見なかった事にしよう」

「それが賢明と言えるかもしれんな」

 そんなやりとりがあってわずか数日後に、彼らはエキープで同じ光景を見る事になったというわけである。

 だが、彼らの心配は杞憂に終わった。

 なぜなら、それら数十着の服は客船グェルダンには積み込まれなかったのだ。

 マルクはそのばかばかしいほど悪趣味で瀟洒な服を、秘密裏にミュゼにある自分の屋敷に運ばせていた。

 エスカ自らが積み荷の検査をしてそれが判明した。

 マルクの荷は封印されていて、いち官吏に開封する権限はなく、仕方なくエスカが世話役権限で荷箱を開けた際に発覚した事だった。

「文字通り着服、というヤツだな」

 マルクの服や装飾品の荷箱の中が空なのを見て、ニームはそう言ったが、声にはホッとしたものが混じっていた。

「そこまでして金に執着するほど困窮しているとはな」

 エスカの語感にも怒りはなく、むしろ哀れみが込められていた。

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