第二十七話 設計図 1/3

「気持ちがいいもんだな」

「え?」

 ニームの膝に頭を預けたまま髪をそっと撫でられていたエスカが、目を閉じたままでそうつぶやいた。

「普通に母親がいる奴らは、みんなこういう快感を知ってるって事なんだろうな」

「エスカ?」

 ニームは手の動きを止めて、エスカの表情を読もうとした。しかし、エスカは目を閉じて気持ちよさそうな微笑を浮かべているだけであった。もっとも、顔はまだ青ざめたままであったが。

「不公平だよな。俺もあの馬鹿兄貴も、母親の膝枕の感触を知らねえんだぜ?」

 青ざめているとはいえエスカの呼吸は穏やかになっており、表情が和らいでいるのがニームにはわかった。

「すまぬな。私はコンサーラだし、リリもジーナも生粋のエクセラーだ。治癒系のルーンを使える者がいない」

「そりゃ、おまえがハイレーンを連れて行くのを反対したからだろ?」

「あ、あれは……」

 そう指摘されると、ニームは思わずエスカの髪を握りしめた。

「痛い痛い」

「あ、すまぬ」

「お前があのハイレーンを親の敵を見るような目で睨んでたから、迫力に押されて同意したが、そういやなんであのハイレーンはダメだったんだ?」

「そ、それは、その……」

「何だ?」

「あのハイレーンは背が高くて、髪もまっすぐだし、いつも胸元を開けて……ではなく、たいした治癒力もないのだ。役に立たぬ人員を増やすのは経費圧迫であろう?」

 ややしどろもどろになりながらそう言うニームに、エスカは思わず苦笑した。だが、ニームはそれを苦悶の表情だととらえたようだった。

「苦しいのか?我慢できないなら業腹だがペシカレフ付きのハイレーンを呼びに行くぞ?」

「いや」

 エスカはすぐに首を横に振ると、頭を撫でてくれているニームの小さな手の上に、自分の手を置いた。

「必要ない。お前にこうされていると治癒ルーンとやらをかけられているようなもんだ」

 エスカのその言葉に、ニームは過敏に反応した。

「わ、私に、そ、そういうおべっかを使っても何にも出ぬぞ」

「何を動揺してんだ?」

 エスカは片目をあけてニームの顔を見た。だが、視界はニームの掌ですぐにふさがれた。

「動揺などしていない。だが、アレだ」

「アレ?」

「お、お前が気持ちがいいのなら、気の済むまでこうしてやってもいい」

 エスカは目をふさがれたまま、にっこりと笑って見せた。

「助かる。でも重くねえか?」

「重くはない。それより……」

「ん?」

「わ、私がこうしていたいのだ」

「そうか」

「そ、そうだ。文句があるか?」

「文句なんかねえよ。それよりお前に一つ、いい事を教えてやろう」

「いい事?それは何だ?」

「どっちも母親の膝枕の感触を知らない同士だが、馬鹿兄より俺の方が幸福だって話だ」

「それがいい話なのか?」

 覆いがとれた目を、エスカはそっと開けた。そこには怪訝な目で自分を見つめているニームがいた。それを見て、エスカはいつものいたずらっぽい笑顔を浮かべて見せた。

「馬鹿兄貴は知らないのに、おれはニームの膝枕の感触を知っているって事だ」

 案の定であった。

 エスカは自分がそう言ったらニームの顔がどう変化するのかがわかっていた。もちろん、みるみる顔を赤くしたニームは、目を泳がせてエスカを叱責するのだ。

「ば、ば、馬鹿な事ばかり言うな。まったく、船酔いというヤツは始末が悪いな」

 そう言いながらニームはエスカの頭を痛くないように小突いた。だが、すぐにそこをそっとさするようになで回した。

「お前は誰にでもそんな心にもない事を言っておるのだろうな」

 そうつぶやくと再び指でエスカの金髪をすきながら、ため息をついた。

「私は自らの目的を果たす為に適当だと思われる相手をお前に絞ると、リリとジーナを使ってペトルウシュカ男爵という男について色々と調査させていた」

 ぽつりぽつりとしゃべり出すニームの言葉を、エスカは黙って聞いていた。自分の事を相当なところまで細かく調査していたであろう事くらいは容易に想像が付く。何せ相手はマーリン正教会の賢者達だ。その調査には間違いはないだろう。もし存在するとしたら、エスカは自分の調査報告書をじっくり読んでみたいと思った。それは興味深いだけでなく、間違い無くその辺の有名な小説よりもよほど面白いに違いなかった。

 ニームは続けた。

「そこに『女たらし』だという報告があったが、私にもその意味が今、なんとなくわかった気がする」

 前振りから、何の話になるのか興味津々だったエスカだが、その言葉を聞くと、船酔いの苦しさが消えて、笑いがこみ上げてきた。エスカは自分の胸に去来したその感情に抵抗することなく、声を出して笑った。

「何がおかしい?」

「心配するな。俺は誰彼かまわずこんな台詞を吐いてる訳じゃねえよ」

「そ、それはそうだろうが……」

「娼館で遊んでた俺だ。いろんな女の膝枕を知ってるさ。でもよ、心底これほど気持ちいいと思った事はない。それは本当だ。それに、今さっき言った事は本心なんだぜ」

 そう言ったエスカの頭を、ニームが今度はげんこつで少し強く叩いた。

「そ、それが『女たらし』だというのだ」

「痛えよ」

「え?」

 もちろん痛くなどなかった。エスカはむしろそのげんこつを快く思っていたくらいである。

「ここか?痛いか?すまぬ。思わず叩いてしまった。本当にすまぬ」

 ニームは慌てて自分が叩いたであろうあたりを両手でさすり始めた。エスカは何も言わず、真っ赤になりながらも心配そうな顔をしているニームを穏やかな表情で見つめていた。

 ニームのその慌てぶりを眺めていたエスカは、ふと漠然としたもやのようなものが胸の奥の方から生まれてくるのを感じた。エスカに対するニームのその姿は、もはや大賢者などという大そうな肩書きとは完全に無縁の、言ってみればただの若い娘のそれであった。

 五大老との謁見の場で初めて出会った時の不敵な眼差しはエスカの前では完全になりを潜めていた。こうしていると年齢からはおよそ想像も付かないほど冷静で頼りがいがありそうだった「将軍の有能な副官」という面影もない。

 特に二人だけになるとそれが顕著になる。本人には自覚がないのであろうが、二人になるとニームは顔を上気させる事が多く、時には目を潤ませるようにもなり、視線が絡むとうつむく事すらあった。

 もちろん……。

 もちろんエスカにはニームの態度の理由はわかっていた。

 それだけに不安なのだ。

 ニームに芽生えた感情は、彼女自身の目的とエスカが抱く野望の両方にとって、大きな障害になりはしないかと、その時初めて思ったのである。

 ニームが自分の目的を達成する為には、ある時点で彼女にとっては「駒」であるはずのエスカ・ペトルウシュカを切り捨てる、あるいは犠牲として使う時が来るかも知れない。いや、その可能性は高いと言える。

 その時ニームは、大賢者天色の槢(あまいろのくさび)として、揺るぎなく目的に対して適切な行動がとれるのだろうか?

 リンゼルリッヒとジナイーダから聞いた限りでは、ニームは彼らの言う「現世(うつしよ)」すなわち世間をあまり知らないという。それはエスカの予想通りであった。

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