第二十六話 客船グェルダン 1/2
「今こそ俺はあの闇の女王、アイスに誓うぜ」
脂汗を額に浮かべながら、エスカは小さなニームに体重を半分ほど預けながらうめいた。
大型客船グェルダンは、エキープ港を出てからしばらくの間はまるで氷上のような海面を滑るように西へ進んでいた。つまり航海は快適なものだと言えた。エスカ以外には、という但し書きは必要のようではあったが。
エスカとニームは、そのドライアドが誇る大型船の、彼らにあてがわれた船室にいた。
その船室にいるのはは二人だけである。
グェルダンはシルフィード前国王、アプサラス三世の国葬にあたる「大葬」に参列する使節団を運ぶ船であった。
もちろんエスカにとって「大葬」参列が主たる目的ではない。ドライアド国王の名代の付き人として参列することにはなるだろうが、任務は「護衛官」である。
それがニーム経由で下された、五大老からの指令であった。
少将としての最初の指令が軍を率いての戦闘ではなく国家の代表であるペシカレフ公爵の護衛だと知らされたエスカは、拍子抜けする間も惜しんで、すぐに戦略を組み直した。
ドライアドを離れるということは、同時に兄であるミリアの動向把握にも遅れが生じる事になる。エスカはしかし、その機会を逆に利用して監視を強化することにしたのである。
さらにそれに加え、首都ミュゼの体制強化の機会とした。
彼の領地、すなわち「白の国」エスタリアの首府ソリュートに駐留する、彼の息がかかった配下をごっそりとミュゼへ移動させる事にしたのである。
留守居役であるロンド・キリエンカがどれだけ優秀な人物であろうと一人で出来る事には限りがある。またロンドは、見た目がアルヴであるという問題も抱えていた。純粋なアルヴではなく、デュナンとアルヴの混血であるデュアルとは言え、外見がアルヴそのもののロンドは、ミュゼに於いては人々の前に出て主人のいない間の外交役を勤める人物としては適さなかった。故郷であるソリュートでは考えられないことだったが、それだけミュゼでは反アルヴ……いや、アルヴに対する嫌悪の念が根強いのである。
エスカの持つ人的・財的な資産をミュゼに集中し、行動に対する基盤を文字通り盤石にしておく事。それがやがて勃発する大戦を見越した彼の出発前の個人的な準備であったのだ。既に構想として持っていたものではあったのだろうが、シルフィード行きの指令がそれらを一気に推し進める引き金になった。
エスカは故郷に帰るスノウに随行させた人間には既にそれを含ませていた。準備が整い次第、エスカの命を受けたフレクト・キリエンカ、つまりロンドの長子でスノウの兄がミュゼ入りして後は万事上手くやってくれるはずであった。
首府ソリュートからはけっこう離れている山間の町、エイビタルに封じられている格好のペトルウシュカ公爵、すなわちエスカの兄ミリアの押さえは、本人の意志にかかわらず、スノウが負うはずであった。
スノウがミリアの行動の、大きな「重し」になってくれると踏んでいたのだ。スノウを故郷へ帰した目的は、もちろんスノウの意向に沿ったものではあったが、それだけで済まさないところがエスカのそつのなさと言えた。
だがそれがエスカの誤算であった事は、しばらくして判明する事になる。エスカは自分の甘さを思い知ることになるのである。
どちらにしろ、エスカとロンドは短期間で驚く程の大量の準備をこなして見せた。その疲れが一気に出たのかもしれない。乗った船が湾を離れて外洋に出たとたん、たいした揺れがないにも関わらず、エスカはあっという間に船酔い状態に陥っていた。
船室はニームと同室だった。もちろん一行に二人の関係を印象づける為の措置だったが、ニームもそれはもとより了解していた。
エスカとニームはグェルダンの自室で、出港当日に催される晩餐会の為に夜会服に着替えたところだった。
(明月アイスも暗月デヴァイスも、まだ出てはいないではないか)
円い窓から空を見上げたニームがそう思ったすぐ後に、エスカはうめき声を出して長椅子から立ち上がり、少し離れた場所にあるベッドに向かい、そのまま崩れるように倒れ込んだのだ。その顔面は蒼白であった。
ニームは慌ててエスカの肩を支えるように隣に座った。
「シルフィードに着きゃこっちのもんだ、金輪際船なんぞにゃ乗らねえぞ」
悪態もいつもの口調とは違い、弱々しい。
「あなたはシルフィードに永住するつもりか?それにだいたいアイスは闇の女王なんかではないだろう?しっかりしろ」
ニームはそう言いながら、手に持った汗取りでエスカの額の汗を拭ってやった。
「そうそう。闇の女王はアイスじゃなくてデヴァイスの方だったな。それより俺は何て幸運なんだ。海軍じゃなくて陸軍所属だぞ?これはもうマーリンの祝福を独り占めしてるようなもんだな」
「アイスもデヴァイスも闇の女王などではない。それにマーリンの祝福を独り占めしているような奴がそもそもこんなひどい船酔いなどするものか。訳のわからない事を言わずに早くこの酔い止めを飲め」
「あと五分くらいで到着するんだろ?だったらそんな得体の知れねえ薬なんか飲まなくても大丈夫だ」
懐から取り出した粉薬の包みをエスカが弱々しく払いのけたのを見て、ニームは大きなため息をついた。
「まだ出帆して半日と経っていないのだぞ。それともシルフィードはミュゼのご町内にあるおもちゃの王国なのか?」
「いや。俺の計算だと間違い無く半日と五分で着くはずだ」
「着くものか!それは計算ではなく妄想だ」
ニームはあきれたようにそう言ったが、その手は言葉とは裏腹に優しくエスカの頭を抱いてやっていた。
「しかし、エスカ。お前がこれほど船に弱いとはな。この先『事』が始まっても、お前は海戦など出来ないではないか」
ニームはエスカの金髪を細い指でゆっくりと梳ってやりながら、そう言った。
「おまけに極端な薬嫌いときた。まるで子供ではないか。いや、子供より始末が悪い」
「うるせえ。子供に『子供』とか言われたかねえ」
エスカの声は消え入るように細かったが、それでも口の悪さだけは健在だった。ニームはこれなら大丈夫だという確信を持っていて、つまり内心ではそれほど心配はしていなかった。
「私を子供と言うな。私はドライアドの法ではもうれっきとした成人だ。それに何度も言うがそもそも公式には二十八歳だ。あまつさえ一応お前と婚儀もしていることになっているんだぞ。不本意ながら、な」
「不本意なのか?」
エスカは目を開けると、その青い眼で自分をのぞき込むようにしているニームの顔をじっと見つめた。
「どうなんだ?」
「こ、言葉の綾だ。いや、話の流れに沿った必然的な予定調和と言うべきものだ」
見つめられたニームは一瞬で顔を赤くすると、あからさまに目をそらした。
「俺の方はあてがわれたのがお前で良かったと、本心から思ってるんだぜ?」
「ほ、本心とか、あてがわれたとか、少女趣味だとか、メロメロだとか、そう言う事をサラっと言うな!」
ニームはさらに顔に血を上らせると、髪を撫でていた手で、エスカの頬をつねった。ただし、優しく。そしてすぐに、慌てたようにつねったその場所を同じ手でそっと撫でた。
「色々と突っ込みてえんだけど、あいにく今は何も考えられねえ……」
エスカは再び目を閉じると、そう言った後で小さなうめき声を上げた。そんなエスカに、ニームはおそるおそる尋ねた。
「メロメロという所は否定しないのか?」
「否定して欲しいのか?」
「ば、馬鹿め。薬がいやなら安静にしておれ。ほら、とりあえず横になるのだ」
ニームはそう言うと、エスカの頭を慎重に自分の膝の上に下ろした。エスカは体に全く力が入らないようで、ニームにされるままに詰め物がしっかり詰まった、つまり固めのベッドの上に横たわった。
ドライアド王国の首都、ミュゼの西方にあるエキープの港はドライアドの海の玄関とも言える大規模な港だった。
ドライアド国王エラン五世の名代であるペシカレフ公爵の一行は、そこで大型軍艦三隻の護衛のもと、海路シルフィードを目指していた。
一行は総勢三十名ほどで、当初は軍籍の要人輸送艦に乗り込む予定だった。しかし、ペシカレフ公爵の意向で、エキープ港にある最も豪華な客船を使うことに急遽変更されたのである。
軍籍の船と違い、グェルダンの船室はゆったりと豪華で広間や食堂の装飾にも贅が尽くされていた。ペシカレフ公爵が何より重要視したのは、毎日の食事を優雅に過ごせる場所と装備と料理人の存在だった。
そしてたった三十人の為に、その三倍の人員が付随することになった。
エスカが出発の準備作業でもっとも頭を悩ませていたのが、その船の手配だったのだ。
「なにせ私は国王陛下の名代だからな。それ相応の格式の船でないといかん。軍船などもってのほかじゃ」
エスカの又従兄弟にあたるマルク・ペシカレフ公爵は、一行のとりまとめ役であるエスカにわざわざ直接会いに来ると、そう釘を刺して帰っていった。急な命令で、それでなくとも準備作業に追われて眠る暇もないエスカに、ペシカレフ公爵は思いつくだけの我が儘を言い放った。
困惑するエスカの事などおかまいなしで、最後には出発当日の迎えの馬車に用意しておくべきワインの銘柄とそれに合うチーズを二〇種類程。ついでにつまみとなる好みの料理を数種類伝えると、ようやく満足した顔で名代マルクはペトルウシュカ男爵屋敷を後にしたのである。
その話をロンドから聞いたニームは、頬を真っ赤にして、文字通り烈火のごとく怒り狂った。
「度し難い!」
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