第二十五話 賢者の法則 4/4
「あはははは」
エルデの怒鳴る声に重なるように、アプリリアージェの笑い声が響いた。
「あははは。もうだめ。苦しい……助けて……」
見ればアプリリアージェは座り込み、腹を押さえて笑っていた。下がった目尻からは涙があふれている。
「あはははは」
アプリリアージェがそこまで真剣に笑う様を二人が見たのは、後にも先にもその時だけだった。アプリリアージェはそれほど可笑しそうに心の底から笑っていた。
その姿に毒気を抜かれたエルデは顔を赤らめたまま元の表情を取り繕い、とまどった表情のエイルと互いに顔を見合わせた後、助言を仰ぐかのようにファルケンハインの様子をうかがった。
ファルケンハインとしても、自分の上官のそんな姿を見るのは初めてのことだった。いくら助けを求められようと、彼に出来たのは何とも言えない微妙な顔をして小さく肩をすくめて見せる事だけだった。
「――やめよか」
「――そうだな」
「というか、リリア姉さん、何がそんなにおかしいねん!」
エルデの怒りの矛先は、今度はアプリリアージェに向かった。
「だって、これが笑わずにいられますか。ふふふ。あなたたちは真剣なんでしょうが、私たちからすると微笑ましいやら見ていて恥ずかしいやらで、何と言っていいか……あははは」
「なんの事だよ」
エイルもさすがに少々ムッとした声で尋ねた。
アプリリアージェは笑いすぎて溢れる涙をぬぐいながら、その優しい笑顔をエイルに注いでこう言った。
「答えなんて始めから決まっているのではないですか?」
「は?だから何のことだよ」
「あなたたちの仲が良すぎてうらやましい、という話です」
「な、何言うてんねん!」
エルデは例によって瞬間的に顔を真っ赤にするとエイルを指さしながらアプリリアージェをそのぞっとするような美しい顔でにらみ付けた。
「誰がこんなめんどくさいヤツと仲良しやねん!」
「なんだと。オレだってお前みたいなわがままで傲慢なヤツとこれっぽっちも仲良くなんてしたくねえよ!」
「よう言うた」
「ああ。何度でも言ってやる」
エイルとエルデはにらみ合った。アプリリアージェはその様子を見てまた笑い声を漏らした。
その場で唯一、多少なりとも冷静な状態にあったファルケンハインは、事態の収拾をどうするべきかしばらく悩んでいた。そして少なくともその状態がアプリリアージェの戦術や戦略とは何の関係もなさそうだと判断した。すなわち、自分の思ったことを口にしてもよいだろうという判断だった。
「ご歓談中のところ申し訳ないのだが」
小さな咳払いのあと、ファルケンハインは切り出した。
「『ここ』とファランドールとの間に時間のズレがあるというのなら、あまりゆっくりしていられないのではないのか?」
ファルケンハインの感覚では、この「龍墓」、エルデの言う「時のゆりかご」に来てからほんの数時間しか経っていないように感じていた。勿論気を失って意識が途絶えていた時間があるため「現世(うつしよ)」から離れて実際にどれくらいの時間が経過しているのかは不明だったが、それでもエルデがここに来る前に言った「三十日」という言葉が気になっていた。だから、帰れるものなら出来るだけ早く帰りたい。そう思っていたのだ。
「そうですね。ごめんなさい。おかしすぎてすっかり取り乱してしまいました。でも、ああ可笑しい」
アプリリアージェは副官の注進に素直に賛同したが、まだ笑いが収まらない様子だった。
ファルケンハインにしてみればアプリリアージェが笑っている原因を頭では理解できていたものの、そこまで大笑いするような事柄ではないと思っていた。
仲の良い者同士が真剣にけんかをしている。それが年頃の男女であるということがその全てで、確かに微笑ましくもばかばかしい話なのだが、その二人の姿のさらに向こう側にアプリリアージェは別の何かを見ているのかも知れないと感じていた。だが、勿論それを今追求する気はなかった。
「ファランドールに戻る前に、エイルにはこれだけは言うとく」
エルデはファルケンハインの申し出に素直にうなずいた後でエイルに向かってそう言った。
「今やから言うけど、ウチらがここまでたどり着けたのは奇跡やと思う。本来ウチは一回死んでたようなもんやし、エイルと旅をしててもいろいろあったしな。何より宝鍵を回収する作業が命がけやった。アンタにかけた移魂の呪法の効力も、実のところ、もう限界やったんや」
エルデにそう言われて、エイルは改めてファランドールに降りたってからのことを反芻した。
誰も信じるな……目立つな……どんな些細な事件にも絶対巻き込まれるな。
エルデはずっとエイルの中でそう言っていた。
くどいほどに。
道で横たわっている老人に手を差し伸べようとした時、目の前で転んだ子供を助け起こそうとしたとき、路地で女が男達に嬲られているのを目撃した時、手や足のない戦争の難民達が物乞いにまとわりついた時……いつもエルデは激しい口調でそう言った。
【無視しろ】
【捨てておけ】
【耳を塞げ】
【目を閉じろ】
【口を開くな】
【関わるな】
そして
【誰も信じるな!】
それは思わずおびえるほどの強い口調の時もあった。
すべては……ここにただ辿り着く最短距離の道を見失わないための決めごとだったのだろう。
それとは別に賢者の名前を名乗らない、いや名乗れない事も原因の一つではあるのだろう。
エイルは改めて思った。
考えてみれば、関わってしまったカレナドリィの時もそうだった。何かに関わると結局大きな問題がエイル達以外の人間にもふりかかった。賢者の権力を行使すれば賢者に関わることになった。エルデがうまく立ち回らなかったら《二藍の旋律》の手に落ちていたかも知れない。
名乗れないから目立てない。なのに賢者として振る舞わねばならない時もある。
今になって思えば、エルデは賢者会の人間であるにも関わらず他の賢者と会うことを恐れていたのだ。それなのに賢者としての最低限の義務は果たそうとしていた。
エイルの大反対を受けながらも「賢者としての義務」の名の下に何人もの人間を……エルデの言葉を借りるなら「ごみ掃除」をしてきた。
そこまで考えてエイルはハッとした。
ある事に思い至ったのだ。
そしてそれは奇しくもアプリリアージェが投げかけた疑問そのものでもあった。(エルデはこの先、いったいどうするのだろうか?)
エルデが目覚めたにも関わらず、今の今まで考えが及ばなかったことだった。エイルにはそれ以外に考えることが多すぎた。また、徐々に蘇ってくる元居た世界、「ファランドール・フォウ」の記憶の処理にも負われていた。
――だが、エルデが続けて口にしたのはエイルにとっては意外な言葉だった。
「でも、もうそれも終わり。エイル・エイミイは自由や。せっかく拾った命なんや。こっちで生きていくって言うんやったら、この先は自分の思う通りに生きたらええ。もう、ウチのわがままに嫌々従う必要もなくなったんや。喜んでええで」
「エルデ」
「ウチからはそれだけや。この先、ファランドールは戦争になって、多分乱れに乱れるやろ。でも、出来るだけそんなことに巻き込まれへんよう、自分の幸せを大事に生きるんやな」
そう言って目を伏せるエルデの顔はさっきまでとは打って変わって寂しそうで、エイルはそれを見るとなぜか少し胸が痛くなった。
「なぜ今そんなことを?」
だから、思わず口について言葉が出た。
「本当のこと言うと、ウチも……もうやることはないんや」
「え?」
「話はここまで」
エルデはエイルの疑問に満ちた眼差しを無視すると、にっこりと笑って見せた。
だが、その笑顔はエイルだけでなく、誰が見てもわかる無理に作った笑顔だった。
そのぎこちない笑顔を見て、エイルは追求するのをやめた。
彼にはわかっていたのだ。こう言う時のエルデに何を言ってもそれ以上の事は教えてもらえないことを。
そして、エイルは初めて知った。
エルデがそんな事を言う時には、こんな顔をして苦しそうにつぶやくのだということを。
「ほんなら、戻ろか。ウチらの在るべき場所、ファランドールへ」
エルデは改めて一同にそう言った。三人はそれぞれ無言でうなずいた。
「行き先はヴェリーユ。用心していこ」
そう言ってエルデが掲げた精杖の頭頂にある「宝鍵」 またの名を「マーリンの導(しるべ)」という名のプリズムはその光をどんどん増して、やがてそこにいた四人を包み込んだ。
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