第十八話 休日の刺客 1/3

 ニームが公式行事用の軍服を取りにミュゼ王宮に行き、自室に現れたセッカの声と会話をした日から、五日後の事だった。

 その間ニームは、出立の準備に忙殺されていたエスカとゆっくり話す機会がなかった。

 ニームにはまだエスカに伝えねばならない重要事項が一つあったのだが、それを切り出せずにいた。リンゼルリッヒ・トゥオリラとジナイーダ・イルフランをエスカに引き合わせておこうと思っていたのだ。もちろん二人の正体も包み隠さず伝えるつもりにしていた為、二人きりになれる機会をうかがっていた。

 想像以上に多く、そして些末な仕事の為にエスカは寝る間も削って働いていたが、屋敷内に居る限り、どれほど忙しい状態であっても、たとえ人を何人待たせていようとも、アンナばあちゃんが決めた食事の時間になると、エスカは必ず食卓に顔を出した。

 ニームがエスカと話ができるとすれば、その時間しかなかったのだ。


 食事が始まる十分前には、ニームはいつも必ず席に着いた。

 その食事開始をじっと待つ姿勢のいい少女の姿は、既にエスカの屋敷では当たり前の風景の一つとして、使用人達に認知されていた。

 彼らはその姿を見て、皆一様に優しい笑顔とともに目尻を下げる。

 ニームはいつも決まって食事開始の五分前までは姿勢良くじっと正面の壁を見つめていた。そこには何枚もの絵が掛けられていて、どれもニームの気に入った絵だったから、退屈はしなかった。それらはエスカの兄、ミリア・ペトルウシュカの作品だと聞かされていた。ニームはミリアの筆による絵を見るのは初めてだったが、噂以上の才能を感じていた。どの絵にも生き生きとした人物が描かれていて、特に目に気品があった。

 一枚の絵は花蔦が絡まったぶらんこに座る子供のアルヴを描いたものだ。それがスノウ・キリエンカであることは、モテアの髪ですぐにわかった。

 ニームはその絵のスノウの笑顔が特に気に入っていた。

 だがそれも、五分前になるとニームの様相は一変する。

 とたんに落ち着きが無くなり、そわそわし出すと、さかんに壁に掛けられた大がかりな時計に目をやった。

 それが食事二分前になると、今度は顔が赤くなってくる。

 屋敷の使用人達は、その食事五分前からのニームの様子を窺いに、用もないのに食堂の近くにやってきては、落ち着かないニームの姿や赤くなってうつむいたり天井を向いたりする仕草を見ては、満足そうに仲間同士で囁き合う。

「なんてまあ、可愛らしいこと」

「エスカ様に会うのが本当に楽しみなのねえ」

「かわいそうだよ。仕事が多すぎるんじゃないか?」

「いや、エスカ様一流の作戦だね」

「作戦だって?」

「焦らして焦らして、焦げさせるつもりだろ?」

「おやまあ、あんな若い子にそれは酷ってもんだろ?」

 そう言い合って、皆は優しい顔でもう一度様子を窺う。

「俺は単純に忙しいんだよ!」

 そして食堂の周りに集まった彼らは、定刻の直前に現れた主人によって解散させられる。

 それが、このところのペトルウシュカ男爵の屋敷での日常であった。


 エスカが食堂に現れると、ニームは自覚のないまま、顔をパッと輝かせて立ちあがる。そしてすぐにうつむき、少ししてから顔を上げる。

 それも、もう日課になっていた。

 エスカはそんなニームににっこり笑いかけると、後ろに回って椅子の背を持つ。ニームはあらためてそこで椅子に腰を下ろすのだ。




「質問がある」

 ある日の事。

 準備がほぼ整った事を告げたエスカは朝食の後、ニームを連れ出した。

 これはその時の会話、いや長い沈黙の後にニームがしびれを切らしたように漏らした言葉であった。

「これは面白いのか?」

 屋敷の背後にある森の中の開けた場所に池があった。エスカはニームをそこに連れて行ったのだ。

 徒歩で三十分あまりの距離にあるその池は、ペトルウシュカ家の所有池だという。比較的大きな池で、流れ出る川が数本あった。水が湧出する池という証拠であろう。そしてペトルウシュカ男爵家はそこでは鱒の養殖をしているのだという。

 その池に突き出た桟橋の一つに腰をかけ、エスカは釣り糸を垂れていた。

 そのすぐ隣に座っているニームも、同じような格好で釣り糸を垂れていた。

 そうやって、すでに数十分が経過していたが、水面に浮かぶ二つの浮きは何の合図も寄越さず、時折気持ちのいい風が水面を撫でる時に、多少揺れるだけであった。

「退屈か?」

 ニームは首を横に振った。

「退屈ではない」

「なら、いいじゃねえか」

「面白いからやっているのではないのか?」

「いや、釣れたら面白いんだが、つれないと面白くねえな」

「言っている事がよくわからん」

「釣りは初めてか?」

「無論だ」

「なら、釣れなきゃ今日はメシ抜きだ」

「言っている意味がよくわからん!こっちは初めてだと言っている」

「初めての奴が本気で釣るには、それくらいの危機感がいるんだよ」

「いや待て。私は育ち盛りだぞ」

「だったら二匹でも三匹でも食えばいいさ。さっとオリーヴオイルで焼いて上からジュッとライムの絞り汁をかけると、これが天国的にうまいんだぜ?」

 ニームは思わずその情景を思い浮かべ、ゴクンとつばを飲み込んだが、あわてて首を横に振った。

「初めてなのに、三匹も四匹も釣れるわけがなかろう?」

「お前、四匹も食うのか?」

「そこではないだろう!」

 エスカは気色ばむニームの頭に手を置くと、優しく撫でた。

「ご、ごまかされんぞ。私を誰だと思っているのだ」

「『釣れるわけがない』なんて決めつけたら釣れるものもつれなくなっちまうだろ?」

「あ……」

「俺に言わせりゃ、お前がこれからやろうとしてる事は『四匹も釣れるわけがねえだろ!』の自乗値ってなくらいの大事だぜ。いや、十匹かもしれねえな」

「う……」

「俺がやろうとしてる事も同じさ。時々じゃねえ。いつだってそうだ。『ンなもん、出来るわきゃねえだろ!』って大声で叫んでテーブルを殴り壊したい気分になる」

「……」

「出来るかもしれないから、やるんだろ?」

 ニームは首を横に振った。

「『出来るかもしれない』ではない。やるのだ」

 エスカはその言葉を聞くと、座ったままでニームの肩を強く摑むと、抱き寄せた。

「いい返事だ」

「おい、何を」

 突然の事にうろたえたニームは思わず持っていた釣り竿を落とした。

「あっ」

 水面に浮かぶ釣り竿に手を伸ばしかけたニームはしかし、エスカにしっかりと肩を抱かれて身動きがとれなかった。

「動くなよ。そして振り返るな」

「え?」

 エスカの口調ががらりと変わっていた。それは明らかに異変を伝えるものだ。

「どうやら退路を断たれたな」

 ニームは顔をゆがめると唇を嚙んだ。

(まただ)

 ニームはまた周りの気配を感じる事が出来なかった事を恥じた。だが、すぐに通常の思考力を取り戻したニームは、エスカの警句の意味とその背景を推理・把握した。



 エスカには政敵が多い。たいした爵位もないのに、若くして国の中枢に入り込む勢いが強すぎたのだろう。本人の外交手腕の高さも万能というわけにはいかない。ましてや人間の心の中にある嫉妬や憎悪、憤怒といった感情は根源的なものだ。エスカが外交関係を築く前にそれらの感情を育てた人間を全て把握するのは現実的ではない。さらに言えば顔見知りになり、二三度話をしたからと言って、それが確実に友好関係になると考えるのもあまりに楽観的に過ぎるだろう。特にエスカの場合、その才能だけならばまだしも、容姿、とくにその美貌が友好関係を築く為の障壁になる事も多々あった。有り体に言えば相手がエスカに対して「面白くない」という感情を持つのである。

 自分の大切な娘や、ましてや妻が、国王のお気に入りという武器で「伸ばして」来ている若造に魅入られたりすれば、それを愉快に感じる方がおかしいと言うべきだろう。

 もちろんそれらの感情が暗殺行為にまで発展する事はまずない。エスカの人脈と背景にあるペトルウシュカ公爵という血筋と名前だけで、「敵になるよりは味方になりたい」と計算する「大人」が大半だ。

 さらにエスカは誰であろうと相手に対しておよそおごった態度をとる事がない。どのような相手であろうと、名乗り合って挨拶をし、その素性がわかった相手の家にはその日のうちに。その日が無理な場合、遅くとも翌日にはペトルウシュカ男爵の屋敷から使いが走る。エスタリアの名産品や、新鮮な鱒などの「ちょっとした」挨拶の品とともに。

 エスカの評判がいいのは、その「お近づきのしるし」であるところの付け届けがあからさまに金銀や宝石、豪華な装飾品等ではない事である。身分の上下に関係なく、「ちょっとした」ものが贈られる。鱒などは本人自ら「朝の散歩の途中、供の者と釣ったので」という当たり障りのない社交辞令とともにやってくる事も多かった。

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