第十六話 リリとジーナ 4/5

 エスカ・ペトルウシュカという特定の個人を深く調べ上げて観察をする途上で、ニームは喜怒哀楽以外の人間らしい感情を初めて知る事になったのかもしれない。それはニームの年齢が成人に達する頃であり、その年頃が大いに関係していたのかもしれなかった。

 ニームほどの聡明さがあれば、既に自らに起きた変化については戸惑いながらも理解していたであろう。彼女はエスカ・ペトルウシュカの屋敷で、いっぺんに三つもの未知の「もの」を得ていたのだ。

 それは普通の人間であればもうとっくに手に入れている「気持ち」であった。

 同じ空間と時間を積極的に共有したい気持ちにさせる存在である友。

 二心無く、甘えることのできる存在である家族。

 そして、思うだけでなぜか心がざわめく存在。


 そして、その友の言葉に思いを馳せて心ここにあらずという状態を部下の前で見せること、実はそれはニームにとっては初めてだったのだ。

 ニーム自身はそういう自覚はない。しかし部下としてはそんな大賢者の姿を見るのは異常事態と言えた。

 逆説的ではあるが、部下の皮肉を含んだ言葉から自分の「らしくない態度」に思い当たったニームは、そのバツの悪さを押さえきれず、思わず少し頬を上気させた。



「それから、これも差し出がましいようですが……」

「何だ? 申せ」

「老婆心ながら、夜着のままで屋外、それも人前に出るのは女性という立場上自重された方がよいと思います」

 女の部下が追い打ちをかけるようにそう言った。もちろんスノウを見送った時の事を言っているのである。要するに彼女たちはニームをずっと監視しているということに他ならない。

「あの娘の付き人には男も何人かおりました」

「余は別に人前に裸を晒したわけではない。まあ、その件については素直に忠告は聞いておこう。だがそもそも監視など無用だと言っておいたはずだが?」

「ご命令は重々承知しております。ですがそれは出来ぬ相談です。その役目を怠れば、我々が賢者会から罰を受けます。なにとぞご容赦願います」

 この場合に賢者会が賢者に下す罰とはいったい何だろうか、とニームは一瞬考えを巡らせたが、すぐに我に返ると、一切振り向かずに男の賢者に声をかけた。

「そうだ。《黄丹(おうに)》」

「何でしょう?」

「お前には友はいるか?」

「え?」

 《黄丹》と呼ばれた賢者はいったい大賢者が何を言ったのかが理解できなかった。《天色の槢》という人物と「友」という言葉が全く結びつかなかったのだ。

「《黄丹の搦手(おうにのからめで)》には友と呼べる人物はおるのか、と問うておるのだ」

「はあ?」

 《黄丹の搦手》は横にいる女賢者とまたもや顔を見合わせた。そこには(いったいどうしたんだ? )という言葉が飛び交っていた。

「お前と《薄鈍の階(うすにびのきざはし)》とは友という関係ではないのか? ただ賢者と賢者、なのか?」

 ニームのその問いに対しては、少し間があって、

「私とこの《黄丹の搦手》は知人ではありますし、もう長くこの地で共に過ごしております故、友と呼べない事もございませんが」

 《薄鈍の階》と呼ばれた女の賢者がそう答えた。

「はっきりせんのだな」

「友というものが法で定義されているわけではない以上、あやふやなものであることはおわかりいただけましょう。自分が友だと思っていればそれは友なのです。はっきりしない言葉になってしまったのは《天色の槢》が友についてどのような定義をされているのかが分からなかったからです」

「なるほど」

「私の定義でよろしければ《黄丹の搦手》は友と言えましょう」

「大切か?」

「は?」

「その友はお前にとって大切な存在と言えるのか?」

 ニームの質問は、普段と違い二人にとってもかなり勝手の違うものだった。計算の結果だけを求めるような質問しかしないニームが、定量的な回答をしにくいあやふやな存在について答え、いや「考え」を求めているのである。

 二人はまたもや顔を見合わせた。

「大切かと問われたら、はいと答えるしかございません」

「そうか。賢者同士でもそう言うつながりはあるものなのだな」

「我々は末席賢者ですから」

「ん?」

 ニームの言葉に、やや自嘲気味の声で《黄丹の搦手》が答えた。

「我等より上席にある賢者方にはそのような繫がりはあまりないように聞き及んでいます。我々の場合は末席であるという点である意味劣等感を持っています。その分お互いの傷をなめ合うような感情が強いのかもしれません」

 ニームは歩みを止めるとゆっくりと配下の末席賢者達を顧みた。

「とはいえ、それを肯定しているという訳ではございません、大賢者様」

「分かったような分からぬような話だな」

 ニームは独り言のようにそう言うと、再び歩き出した。

 その後ろ姿をじっと見つめていた《黄丹の搦手》は主に再び声をかけた。

「ところで、ペトルウシュカ男爵という人物は実際はどのようなお方でしたか?」

「え?」

 虚を突かれたようにニームは再び歩みを止めた。

「よろしければお聞かせ下さい。《天色の槢》が興味を持つ人間に、我らも興味があるのです」

「どのような、と言われてもな」

 ニームは立ち止まったまま腕組みをしてしばらくの間考え込んだ。

「差し支えなければ是非。私も大いに興味があります」

 これは《薄鈍の階》だった。

「興味本位とお叱りになるやもしれませんが、できれば是非。単純な感想でけっこうです。狡猾なのか、高慢なのか、はたまた家柄を笠に着た身の程知らずの……」

「あの人はそんな人ではない!」

 ニームはそう言うと不機嫌そうな顔で《薄鈍の階》を振り返った。

「確かにかなり口は悪いが狡猾でも高慢でも身の程知らずでもない」

「申し訳ありません。たとえば、の話のつもりでした。しかし、そこまであの人物をお気に召していたとは存じ上げませんでしたので」

「わ、わかっている」

 ニームは憤然とした表情のままで、再び歩き始めた。ただし、今度は足取りが速かった。

 部下の二人は慌てて自分たちも歩を速めてその後を追ったが、すぐに回廊の終点に行き当たった。

 そこはバード、それも上級以上のバードの宿舎棟で、彼ら神官の制服ではこの先には立ち入れないことになっていた。

「当面の着替えや身の回りのものを取ってくるだけだ。すぐに戻る」

 ニームはそう言うと、スタスタと宿舎棟の中に消えていった。


 残された二人の賢者はお互いに顔を見合わせた。

「どう思う?」

《黄丹の搦手》はドライアド風の白い神官服を身に纏った《薄鈍の階》にそう声をかけた。もちろん、《黄丹の搦手》にしても、同じような神官服を着ている。二人の神官服が普通のドライアドのそれと違うとすれば、それは左肩に黒い腕章が縫い付けられている点であろうか。それは黒い地に蛇の絡まった精杖とつるバラが巻き付いた剣が交差しているクレストが白く染め抜かれていた。紛う方無きマーリン正教会のクレストである。

 もちろんマーリン正教会から派遣された神官である、という証しであった。その腕章のある神官は、同じ地位の神官の中でも不文律ではあるが上位とされていたが、バードよりは下位にある。そのバードの関連施設への立ち入りは原則として認められていなかった。

「どう思うと言われてもねえ」

《薄鈍の階》は腕組みをして思案していた。

「これはどう考えてもペトルウシュカ男爵の屋敷で何かあったとしか思えないわね」

「そうだな。屋敷でというよりはエスカ・ペトルウシュカとの間に、だろう。だいたい何かあったじゃなくて、何が起こってるのかは明白だ」

「はっきり言って賢者になって一番の驚きだわ」

「俺も開いた口が塞がらないほど驚いてる」

「たった数日で正教会の大賢者ともあろう人物が、まったく別人みたいに変わってしまうというのはどうなのかしら」

「どうなのかしらって、変わってしまったものは仕方なかろう?」

「参ったなあ」

 そう言うと《薄鈍の階》は人差し指をこめかみにあてがってグリグリと押した。

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