第十六話 リリとジーナ 3/5

「いや、特に問題はない」

 ニームはそう答えた。

 だが、言葉の間にはすこし長い間があった。

 後ろに従う二人の神官はお互いに顔を見合わせた。

「部屋の調度や侍女・下男の振る舞いなどで男爵側の待遇がよろしくないようでしたら、バード庁を通して強く改善の要請をしておきますが」

「その必要はない。男爵の屋敷はすこぶる快適だ」

 ニームはそれには即座にそう答えた。

「それに、あの屋敷には下男や侍女は一人もいない」

 彼女に用意された部屋の調度はきわめて質実剛健で少女の部屋としてはいささかいかめしい感じがしたが、そもそもニームには少女趣味などはない。また特に侍女や下男などがあてがわれた訳ではないが、そもそもペトルウシュカの屋敷ではそう言う風習が無いようだった。厳密に言えば執事長であるロンドがエスカにとっての侍女であり下男の役目を負っている形になるのだろうが、少なくとも一から十まで手足のように使用人を使う光景は見たことがなかった。

 ニームに対しても同様にロンドが心配りをしているようで、むしろ四六時中使用人につきまとわれる煩わしさがなくて快適だと感じていたくらいである。

「それにペトルウシュカ男爵の屋敷の人間の対応にも特に問題はない。不足があれば遠慮無く余から直接要望する。お前達はそういう心配をせずともよい」

「ですが、《天色の槢》に何か間違いでもあれば」

「間違いだと?」

「は」

「何の間違いが起こると言うのだ? お前は余がペトルウシュカの手の者にかかるとでも言うのか?」

「いえ、大賢者ともあろう方がそのような事になろうとは想像もいたしません。ただ……」

「ただ、何だ?」

「一応ペトルウシュカ男爵屋敷へ入られた名目の一つが側室に、という事でしたので」

 そう答えた男の声に、ニームは軽い皮肉の色を感じた。とはいえ、それはいつものことなのだ。

「まさか《天色の槢》が一介の軍人にたやすくほだされるとは思ってはおりませんが、相手は『あの』男爵です。あの美貌と相まって女性を口説く話術に関しては及ぶ者がない程巧みであると聞いております故」

「そ、そんなことはない。あの人と床を同じくするなど……」

 ニームの顔が一瞬で上気した。もちろん付き従う二人がその変化に気付かないはずはなかった。

「申し訳ありません」

「要らぬ詮索だ」


 種明かしをするまでもなく、ニームに付き従う二人の神官服を着た部下は賢者である。ニームを「賢者の名」で呼ぶ者は教会の関係者であることは想像に難くないが、付き人がただの関係者ではなく賢者であるのは、ニームの大賢者という立場がそれほど重大な者だということの証左である。

 ドライアドの中枢に自ら潜入するという危険極まりない行動に対して、少ない護衛で済ませるためには普通のルーナーでは心許ないという判断は当然だと言えた。

 ニームは当初護衛を断ったが、自分がまだまだ若い賢者であるという立場をわきまえてもいた。賢者会と大賢者がつまらない事でやり合う必要など無いのである。ましてや直属の手駒として高い能力を持つルーナーをあてがわれるのであるから、便利に使えばいいだけのことだった。

 そう考えてすぐに折れたのだ。

 だが、ニームがエスカ達にその片鱗を語ったように、タ=タンという一族は特殊な家柄であった。他の一族との交流をほとんど行わず、教会関係にも面識のある者などは存在しなかった。ニームは賢者から大賢者に昇格したわけではない。教会関係者、いや、賢者達の前にいきなり大賢者としてその姿を見せたのだ。先の「天色」を名乗る大賢者をその妹が継ぐという噂は流れてはいたが、それがまだほんの子供である事に対して、よい感情を抱く者が少数派であった事は容易に想像がつく。

 もとより上下関係がその命に関わるほど厳格な賢者達である。表だった批判や不満は皆無と言ってよかったが、不満が払拭されることもまた皆無であった。

 ドライアド潜入に際し、ニームの部下に任命された二人の賢者にしてもそれは同様で、見知らぬ子供がいきなり「私が今日から大賢者だ」と言って現れ、ヴェリタスの最奥にある「前座」という禁忌の部屋に自由に出入りする姿を見ては面白い気分にはなりにくい。

 もとより賢者はそう言う人間的な感情を表に表すことは少なかったが、感情が無いわけではない。賢者の立場に長くあるものほどそう言う俗世的な感情は薄れているが、皆無ではないのだ。

 ましてやニームの護衛役にあたる比較的若い賢者達が鏡のような揺れぬ精神を持っているとは言い難かった。

 言い換えるならば彼らにも感情があり、たとえ未知であろうと一人の人間と長くつきあう事でそこに理解が生まれ、そしてそれは多くの場合「情」という曖昧ではあるが一定の「相手を認める感情」が生じるものである事も容易に想像がつく。

 ニームと彼らの場合を考えると、それが当てはまりそうなものである。

 彼女がドライアドに潜入してから、既に二年以上の歳月が経っていた。その間毎日顔を合わせて会話を行ってきた。

 そこにはある種のいわゆる「人間関係」が生じると考えるのが普通であろう。実のところ彼らもそう思っていた。相手は子供なのだから、普通につきあっていればやがてなつくだろう、と。

 しかし、彼らが《天色の槢》に対して持った第一印象はこの間全く変わることがなかった。

 すなわち一瞬たりとも他人を寄せ付けるそぶりさえ見せない、かわいげのない少女である、という印象である。

 たとえ子供であろうと、彼らが知る他の大賢者、具体的には《真赭の頤》や《菊塵の壕》のような思わず目を伏せたくなるほどの揺るぎない存在感のある雰囲気を纏っていれば、「わかくても大賢者の貫禄がある」と自らを納得させることも容易だったのかもしれない。

 だが、大賢者天色の槢は《菊塵の壕》のような言葉遣いや振る舞いを表面上なぞってはいるが、感情の制御が全く追いついていなかった。喜怒哀楽が手に取るように表情に浮かぶのだ。

 その喜怒哀楽を子供らしく相手にぶつけてくるならば、逆に護衛の彼らもニームに子供の持つ「かわいげ」を感じたであろう。だが、ニームは感情を精一杯隠す努力をしつつ、相手に自分の弱みを伝えるようなことは一切しなかった。

 彼らがからかい半分、あるいは反応を楽しもうとして時折水を向ける言葉にも、ニームは殆ど無反応を決め込んでいた。

 そんなニームを長く見ているうちに彼らもようやく学習した。「《天色の槢》は仲間ではない」と。わかりやすく言うならば彼らはただ賢者会から与えられた義務として付き従っていたということである。

 やがて彼らは自分たちとニームとの間に保つ一定の距離を策定した。そして時折その範囲でだけ、ニームに対しての皮肉を口にするようになっていった。それは「とりようによっては皮肉に聞こえる」と言った類の巧妙な言葉である。そうなってしまえば、もうお互いの距離が縮まる機会は訪れなかった。


 すなわち、そのとき男の賢者がニームに告げたその言葉も、その類のものだったということである。

 もちろんニームもそんなことはわかっていた。彼女は自分が感情制御能力がルーナーの能力と大賢者としての立場に全く追いついていない事を自覚していた。だがそれを俯瞰してお互いの関係を円滑にするために自ら歩み寄る事は一切しなかった。相手がたとえ何者であろうと、自分の胸を開いて見せるなどと考えたことも無かったのだ。

 もっとも、ニームが育った環境を考えると無理もない。

 タ=タン一族の中でいわば帝王学を学ばされていただけであり、生まれたときから「全ての賢者は手駒である」と教え込まれて育ったのだ。

 むしろ現世で交流する賢者以外の存在の方が彼女には興味深かった。

 中でも、ニームの「目的」の為に浮かび上がったエスカ・ペトルウシュカという「特別な人間」を見つけてからは、彼女の内部で何かが少し変化し始めていたのは確かだった。

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