第十六話 リリとジーナ 1/5

 ニーム・タ=タンはドライアド王宮の深部、いわゆる後宮と呼ばれる棟から少し離れた場所にある神官舎と呼ばれる建物へ向かって歩いていた。

 ペトルウシュカ少将の幕僚長の役に就いた日、つまりエスカの屋敷に居候となった日から既に数日が経っていた。

 ニームには五大老からのとりあえずの指令が下っていた。もちろんそれはすでにエスカには伝えてあり、ニームの上官であるエスカはニームからその命を聞いた直後から、その指令を遂行する為の様々な準備で忙殺されていた。

 突然の辞令で将軍の地位に就いたエスカだが、とりあえずは担当業務のない少将ということもあり、雑務の為に毎日出仕する必要はなかった。しかし、まずは大佐時代の業務の引き継ぎを後継将官と打ち合わせる必要があった。

 それと同時にニームから伝えられた仕事に関係する準備もこなさねばならない。そちらはエスカの思惑が及ばぬ部分も多く、そもそも日程が極めて窮屈な状態であり、のんびりニームと世間話をしているような時間などなかった。

 エスカの腹心であるロンドは、ニームから伝えられた指令を受けて、即座にエスカが決定した戦略に沿った準備作業を精力的にこなしていた。エスカ本人でしかこなせないものを除き、ロンドは実に細やかかつ効率的にペトルウシュカ男爵屋敷に配した部下を動かして事にあたっていた。

 ニームはエスカの戦略のうち、彼女にできることを行っていた。すなわち、バード庁との折衝である。

 その一連の作業における最後の仕上げの為に、その日ニームは王宮へ出仕していたのである。

 必要な諸事をこなしたニームは、ペトルウシュカ男爵の屋敷に引き上げる前に神官舎にある今まで使っていた自室へと足を向けていた。

 今の今まで特級バード、ニーム・タ=タンとして、小柄ながら颯爽とした足並みで会見や引き継ぎ業務をこなしていた彼女だが、自室へ向かう歩みには覇気がなかった。ゆっくりというよりも、背中を丸めてとぼとぼと歩いているようにしか見えない。

 エスカはもとより、他人には決して見せない背中を丸めてうつむく小さな後ろ姿は、とてもバード庁の重鎮達を震撼させる実力を持つ自信にあふれた、いや尊大といっていい人物と同一とは思えない様子であった。

 小さな背中を猫背にして歩くニームの姿は、およそちっぽけな子供にしかみえない。そこには背中をピンと伸ばして大柄なエスカに対峙する大賢者の姿はなかった。

 おそらく、誰の目もない時のその姿がニームの本来の姿、いや、素顔の一つであることは間違いないようであった。


 ニームは長い回廊をとぼとぼと歩きながら、エスカの家での事をあれこれと考えていた。

 彼女がエスカの屋敷に突然やってきたあの日。仕事が山のように積まれているにも関わらず、エスカはその日の夕食をニームの歓迎会と決めると、屋敷中の人間を動員して準備に当たらせた。

 時間が来て、ロンドに呼ばれて広間に招かれたニームが見た物は、それまで想像していたいわゆる晩餐会とは全く違うもので、言葉にうまく言い表せないものだった。

 少なくともその日の夕食の事は、生涯忘れることはないだろうとニームは思った。

 ニームの知っている晩餐会は、馬鹿のように着飾った男女が、さもしい目をして自分より値段の高い服や装飾品をつけてる人間がいないか目を光らせる場所であった。さもなくば表層の知識や情報をひけらかし、他人よりも自分が如何に上等な頭脳と慧眼を持った人間なのかを相手に納得させようとやっきになっているか、あるいは権力の流れの中で自分の居場所をよりよい物にしようと血眼になって足下ばかり凝視している人間の集まりでしかなかった。

 だがペトルウシュカ男爵家の屋敷の広間に用意されていた「それ」は違った。

 着飾った人間など一人もいない。

 薄ら笑いや上目遣いに相手を見る人間も存在しない。

 そこで彼女を出迎えたのは、人なつっこく優しい笑顔をした屋敷の主人であるエスカと、彼と同様に暖かい笑顔で新しい家族を歓迎するために集まった屋敷の「仲間」の拍手だった。

 きょとんとしているニームの手を引いたのは、少しだけ上等な部屋着の背に、相変わらず長い木の槍を背中に背負ったスノウ・キリエンカだった。

「ようこそ、ニーム。私たちはあなたをエスカの新しい家族として、心から歓迎します」

 手を引かれるままに広間の中央に歩み出たニームは、その手をスノウからエスカに渡された。

 エスカはニームの手を大切なものを扱うように優しく握ると、片膝をついて頭を下げ、いかにも芝居がかった、大げさかつ、もったいぶった仕草でその手の甲に軽く接吻してみせた。

 エスカの唇が手に少し触れた瞬間、ニームは体に電流が走ったように感じて、思わずびくっと体を震わせた。

「おやおや。何も恐れることはありませんよ、我らがお姫様。ここはもはやあなたの家。そして私以下、ここにいる連中はみんなあなたの家族だ。まずは肩の力を抜いて、今宵はゆっくりとお楽しみあれ」

 そして顔を上気させたニームを自分の前に立たせると名前を紹介し、あとはニームに自己紹介を求めた。

「き、今日からやっかいになる。ニーム・タ=タンだ」

 決まり悪そうに赤い顔を下に向けると、ニームは口の中でごにょごにょとそう言った。

「おいおい、オレに自己紹介した時とはえらい違いだな。どうした? キノボリアワガエルじゃねえんだから、口の中でぶつぶつ言ってたって聞こえないぞ」

 そう言ったエスカの意地の悪い、それでいて暖かい笑顔をにらみつけるとニームは顔を赤くしたまま背筋を伸ばして唇を結ぶと、あらためて挨拶をした。

「我が名はニーム・タ=タン。言っておくが成人はしている。だがまあ、見ての通りの子供だ。私の事はニームと呼ぶがいい」

 広間は小さくどよめいた。口々に交わされる言葉の多くは「なんて可愛らしい」「あの意地のありそうな目がいいですな」「エスカさまの相棒としてはピッタリです」「そのエスカ様の鼻の下の長い事。男前が台無しだわ」等々、つまりは歓迎のひそひそ話であった。

 ニームはそれを聞くと小さく咳払いした後に、続けた。

「まあ、いろいろあってエスカ男爵の幕僚長という表向きとは別に、政治的に遣わされた側室、という事になっている」

『側室』という言葉を、ニームはここでもサラリと口にした。

「名目上だぞ、名目上。囲った女が居れば妙な虫はつかねえだろ? しかも相手は特級バードだ。ケチな貴族が俺を青田買いしようなんて気は失せるってもんだろ? だいたい正妻もいないのに側室もクソもないもんだ」

 一応、その話は既にその場にいた彼らには含んでいたのであろう。異常などよめきなどは一切なかったが、ここぞとばかりに大いにヤジが飛んだ。

「何を言う、エスカ様。ぜひ正妻にすべきだ」

「そうだそうだ」

「お二人なら、美男美女でぴったりじゃありませんか」

「オレはこの奥方にならエスカ様を任せてもいいと、今思った」

「賛成だ! 着飾ることしか脳の無いような、どこかの権勢貴族の馬鹿娘をあてがわれる前に、こういう凛々しいお嬢様と早く既成事実を作っとくべきだぞ、エスカ様!」

「あの小柄なところが背の高いエスカ様にかえってお似合いですわ」

「あらあら、まあまあ。見てご覧よ、ニーム様のお顔があんなに真っ赤に」

 降り注ぐヤジは半分冗談、半分本気ともとれる二人を祝福するものばかりだった。

 ニームは予想外の状況に勝手も対応策もわからず、とりあえず助けを求めるかのようにスノウの姿を探して木犀の香りを追う。件のデュアルの少女はニームと目が合うと、珍しくにっこり微笑んで返した。

 ニームはそれを見て、肘でエスカの脇腹を小さくつついた。

「なんだよ?」

「スノウは、本当にお前の許嫁ではないのか?」

「だから違うってんだろ」

 かがんだエスカの耳元に、小声でささやくニームに、エスカがひそひそとささやき返す様子を見て、皆はまた一斉に沸いた。

「おお、もうけっこうな間柄のようだぞ」

「敢えて別の部屋など用意する必要は無かったのでは?」

「女は建前上、そういうものが必要なんですよ。殿方はこの手の話になるとどうにも下品でいけませんわ」

「あなたたちから遠慮会釈なく野次を飛ばされればどんな娘さんでも恥ずかしがって照れますよ。さあさあみんな、もうそろそろ冷やかすのはおやめ」

「そうだそうだ。これからはずっと冷やかせるんだからな」

「そうね。ボランの言うとおりだわ。今やり過ぎたら、あとの楽しみが減るってものよ」

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