第十一話 港湾都市ヴォール 2/3
重い悲しみにとらわれて、明日に歩み出すべきつま先を隠し、尻込みを続ける妹を見ることはすなわちもう一人の人間さえ幸せの光に照らされる機会を削がれることに他ならない。
悲しみは連鎖してゆく。その断ち切れない鎖が巡り巡って新たな戦争を呼ぶ事を、彼は兵士として痛いほどわかっていた。だからこそファランドールから争いが無くならないことを。
メビウスが久しぶりに見たシェリルの顔は、はじめから笑顔だった。楽しそうで、幸せそうな笑顔はすぐに涙顔に変わったが、それはただ一人の兄であるメビウスに出会った事であふれ出た感情がそうさせただけで、それは懐かしさが支配している涙である。決して悲しみにとらわれた涙ではない。
その妹の笑顔と涙を見た後では、ハロウィンから告げられた「手術の結果」に感謝することはあっても責めるような言葉は何一つ口をつくことはなかった。
ただ、ベック・ガーニーの件についてはやや難色を示した。
それは兄として妹の交際相手としてベックなる若者が気にくわないというものではない。ベックの迷いのないまっすぐな眼差しと、シェリルに注ぐ暖かくやわらかい視線を感じれば、ウーモス出身のこのデュナンの若者が信頼に足る人間だと言うことはメビウスにはわかっていた。
だがベックの職業を聞くと、メビウスの眉間にしわが寄った。
メビウスとしてはシェリルから恥ずかしそうにベックを紹介された時に、すぐにでも妹と一緒になって所帯を持ってくれるものと思っていたのだ。だがベックの考えはそうではなかった。
彼は見聞を欲していた。
激動の時代の中で、変わりゆく世界を肌で感じたいというのがベックの思いだった。
主要な国のめぼしい町を全て見て回りたい。その上でシェリルの下に戻って店を構えて商人として暮らしたいというのが彼の妹の選んだ男の希望だった。
「兄さんからも言ってちょうだい。『側を離れるなら妹とつきあう事は許さんぞ』って」
シェリルはその話になると口を尖らせてベックを批難した、若者は困ったような顔をしてうつむくだけだった。
メビウスもアプサラス三世崩御の件は当然ながら知っていた。サラマンダから出てウンディーネに来てからは、ファランドールの情勢が以前より鮮明になっていた。
それはもはやサラマンダの王権復活などという規模の話が霧散してしまうほどの規模の「うねり」が近く起こるであろう事を示唆していた。
それだけに、彼はもう二度と戦場に身を置く事をよしとしていなかった。フィリスティアード隊が消滅した時に彼は自分の戦士としての役目に終止符を打つことに決めたのだ。
もっともそれが彼らを全滅させたル=キリアの司令と交わした約束でもあった。妹を民間人としていったんシルフィード王国で保護した後、手続きを踏み、できるだけ早いうちに一緒に暮らせるように便宜を図るという条件との引き替えとして。
ベックとシェリルは、ヴォールへの道中で、既に互いの気持ちを打ち明け合い、結婚の約束を交わしていた。
ただ、その前にファランドールを一人だけで見聞するというベックの申し出には、当初まるでだだっ子のように反対して見せていたシェリルだったが、落ち着き先のイェイガーで結婚式を先に挙げる事を条件に、ようやく折れることに同意した。
結婚して夫婦二人で回りたいというシェリルの提案は即座に却下されていた。理由はもちろん妻を危険な目にあわせられないという一見正当性のあるものだったが、「では妻にしてみれば夫は危険でも平気だというのか?」というシェリルの切り返しにあってはベックも相当の苦戦を強いられた。
結局結婚とは別にいくつかの条件をベックが吞むことで、一応の決着をみることになったのだが、その条件とは、
一、行きっぱなしではなく、定期的に家に帰ること
二、マメに伝信を寄越すこと
三、結婚後、三ヶ月は一緒に暮らすこと
であった。
ル=キリアと別れる前にベックがエルデから受けていた注意に、「しばらくの間、一緒にいろ」という項目があった。
しばらくとはどれくらいだと問いかけたら「しばらくはしばらくや」とだけ答え、くるりと背を向けたエルデの真意をベックははかりかねていたが、正確なことなど誰にもわからないからだろうと判断するに止まっていた。
シェリルが出した条件の三ヶ月という期間は、要するに春になるまで、という意味である。冬の間はムリをしないでほしいというシェリルの優しさも見え隠れするし、本当にベックと離れたくないという気持ちが強いのも確かだろう。同時にシェリルの「施術者」であるエルデの処方にも従うことになる。
本音を言えばベックもシェリルと離れたくはないと思う気持ちが強くなっていた。腰を落ち着けて商売をしてもいいのではないかと自らに問いかけることも多くなっていた。
だが、それでも彼は激動のファランドールを自分の足と目で追いかけてみたかったのだ。さらに言えばもう一つ大きな理由があった。
エルデとアプリリアージェには会う必要があると感じていたのである。
彼のカンが、あの二人にはファランドールに影響を与える大きな何かがあると告げていた。
メビウス・ダゲットはしかし、結果としてベックとシェリルの決定を尊重した。もちろん結婚についても祝福の言葉を惜しまなかった。
ただ、ベックと二人だけになった時に念を押した。
「本当にいいんだな?」
ベックは深くうなずいた。
シェリルがこのまま何の問題もなく過ごすという保証はどこにもなかった。そうなった時の覚悟があるのか、さらに言えばシェリルは未亡人のようなものである。婚約段階ではあったが、ルルデとは既に夫婦のように暮らし始めていたのだ。
それら様々な事を一つ一つ言葉に挙げ連ねて確認することはせず、メビウスはただそう尋ね、ベックは何も言わずに頷いてみせた。
それだけだった。
それだけでお互いにお互いを理解できたと確信した。シェリルを通じて二人の人間がつながったのだ。
「よろしく頼むぞ、弟」
「照れるからベックでいいよ、えっと……兄さん?」
「そうだな。俺も居心地がわるいからメビウスでいい」
二人は顔を見合わせると声を出して笑い合った。そんな二人の姿を、離れたところで優しく見守るシェリル。そのシェリルの様子をみてハロウィンとルネ・ルーはうなずき合っていた。
「で、式の日取りは決まっタん?」
注文を取り付けた給仕が下がると、ルネが早速興味津々と言った顔でベックの表情を伺った。彼女の今の興味はそこに集中しているらしかった。
知人同士、それも旅の仲間同士の結婚である。ルネが子供だからという事は理由にならない。興味を持たない方がどうかしているというものであろう。
ダゲット兄妹とベックは、ヴォール到着の翌日にはイェイガーに向かった。ハロウィン達がル=キリアと合流する期限までにはまだ時間はあったが、結婚式に出席したいというルネの強い希望もあった。それに彼らには環境さえ整えば式を先延ばしにする理由が見あたらなかった事もあり、急ぐ事にしたのだ。
なすべき事があるというルネ達の事情はメビウスもすぐ納得した。
彼は自分の上官であるシエナを殺害したアプリリアージェには複雑な思いを持ってはいたが、その「人物」は深く尊敬していた。ル=キリアが彼らに対して用意した待遇が全てであった。それがアプリリアージェ・ユグセル中将という人となりを雄弁に語っていたのだ。
捕虜は結局、全員が解放されることになっていた。非戦闘員になる事を誓うという条件付きではあったが、捕虜となった直後もその後も、非人道的な扱いを受けることはなかった。
委嘱軍に捕らわれた反政府組織の人間がどんな悲惨な末路を辿っているかを見聞きしているメビウスだけに、礼節と規律に満ちた対応に終始するシルフィード軍の態度を見ても、当初は裏があると思っていた。しかしそれがアルヴの国のやり方なのだと言うことはすぐにわかった。
恐ろしい噂に彩られていたル=キリアだが、実際に接してみると彼らが決して悪鬼のような人間ではないと言うこともわかってきた。メビウスの知る範囲では、ル=キリアは軍隊というよりも民間組織のような雰囲気の部隊であった。とりわけその司令官であるアプリリアージェに対する印象はもっとも変化の幅が大きかった。あのアクラムの森でメビウスが見た戦闘事のアプリリアージェの姿はきっと悪い夢だったのだと思うほど、その後に会った司令官の物腰は別人であった。
さまざまな「死の噂」に彩られた特殊部隊の司令官は、おだやかでたおやかで、およそ可憐な少女にしか見えなかった。
とは言えそれはやはり表面上の事。少し会話をすれば、その正体がただの少女ではない事に気付く。それも百戦錬磨のメビウスにして「かなわない」と思わせるほどの存在感を持っていたのである。提督の称号は伊達でも飾りでもないという事をメビウスも実感できた。
初対面の際にメビウスは部下の処遇についてアプリリアージェに頭を下げた。
だがアプリリアージェは捕虜の代表であるメビウスの顔をすぐに上げさせると、微笑んだままで想定される最悪の事態と最良の事態を口にした。
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