第一話 エスカ・ペトルウシュカ 6/6
キリエンカ家はペトルウシュカ公爵家に古くから使える執事家で、元々はデュナンの血の一族であったという。種族の融合が推奨された時代にアルヴの血が混じると、その後はむしろアルヴ系の氏族として名を残している。だから厳密に言えばデュアルになるが、キリエンカの人間は一目見てデュアルとわかる外見のものが少なく、目の色さえ見なければ、アルヴにしか見えない者と、どこをどう見てもデュナンにしか見えない者とにはっきりと分かれていた。ロンドは前者である。
ペトルウシュカ家の執事家は世襲制で、その氏族はいくつかあるが、筆頭がキリエンカである。つまりロンド・キリエンカは本来ペトルウシュカ公爵であるミリアの側に控えていなければならないはずであったが、ミリアの無能ぶりに業を煮やした側近達がエスカと共謀してミリアをエスタリアの中部山岳地帯にある田舎町エイビタルの避暑用の別荘にほぼ軟禁状態にした後、息子達にソリュートの城を任せ、ロンド本人は首都ミュゼに赴き、公然とエスカに仕えるようになっていた。公爵家領地のいわゆる台所事情を一手に抱える立場のロンド・キリエンカはミュゼに居ながらエスタリアの経営を切り盛りしており、すでに領地の実権はエスカ側に移行していると言って良かった。
側近のほとんどに離反された形のミリアだったが、名目上キリエンカ家の者が従者として仕えていた。それは既に家長を息子のロンドに譲り引退した立場になっている老フィドルことフィドル・キリエンカであった。
「時に、フィドルの方はどうなんだ? 気まぐれなバカ兄貴の世話は辛いだろうな」
エスカは思い出したように言った。
「お気遣い、いたみいります。父は齢すでに七十ではございますが、ご存じの通りいたって壮健でございますゆえ」
「ははは。フィドルは確かに剛の者だよな。俺もガキの頃、何度フィドルにぶん殴られた事か。あの真っ赤な顔で怒鳴られるのを想像すると、今でもチビりそうになるぜ」
「エイビタルには父、ソリュートの城には我が息子のフレクトやフェルンもおります故、ミリア様も安心して創作活動に専心できましょう」
「そのフレクトとフェルンだがよ」
エスカはそう言うと、その日初めてまじめな顔になってロンドを見つめた。
「バカ兄の様子次第だが、問題ねえようならとっととミュゼに呼んだほうがいいぜ。正直、ファランドール情勢に変化が起こる前に呼んでおきたかったんだが、そろそろ実行しとこうぜ。もう兄貴の近くに置いておくわけにはいかねえだろ」
「は。それはありがたきお言葉なれど、そうなりますと、その」
ロンドは口ごもった。
「わかってるよ。この屋敷が手狭なら、どっか適当な屋敷を借りればいいだろ? なんなら今日、五大老に格安物件をねだってみるのも一興じゃねえか。飼いネコがひっくり返って腹を見せやがって、くらいに思ってくれりゃ思うつぼだしな。ま、今日の雰囲気次第だが」
「承知しました。では、仰せのままに」
「兄貴のお相手はもうお迎え間近なジジイ連中だけでいいだろ。フレクト達だけじゃなくそろそろ他の人材も目立たねえように随時呼び寄せとけ。その辺は任せる」
「ではエスタリア側の手配はそのように」
「ああ」
エスカはうなずいたが、ロンドはじっと主人を見つめたまま動こうとしなかった。
「どうした? 言いたいことがあればはっきり言え」
「御髪(おぐし)を整えられた方が……」
ロンドはそう言うと櫛をエスカに差し出した。エスカは鼻を鳴らしてそれを受け取った。
「そういう事はもっと早く言いやがれ。というか俺の髪なんかどうでもいいんだよ。『エスタリア側』じゃない『側』について言いたいことがあるんだろ? 言っとくが、これから先はほんのちょっとした機会喪失で情勢はガラッと変わっちまうぜ? 言いたいことは今言わないと後悔することになるだろうよ」
ロンドは肩をすくませた。エスカには心の迷いがお見通しだったのだ。
「恥ずかしながら申し上げます。ミリア様のお世話周りの手前もございますが、我が父からいきなり話し相手を取り上げるのも酷でございますので、愚息達の替わりに我が娘を遣わしとうございますが?」
ロンドの申し出に、エスカはしばらく無言で手に取った櫛を見つめていた。
「ミリアさまとの約束を違える事になってしまいますが、ご存じの通り我が娘の性格はあの通りでございます。無理矢理ミュゼに連れては参りましたが、かえって逆効果のようでして以前にも増して無口・無表情になっております」
「あの時は大騒ぎだったな。あいつがあんなになりふり構わず抵抗するなんて思ってもみなかったぜ。結局バードに頼んで眠らせて運んだそうだな」
「三つ子の魂百までとはよく言ったものです」
「そうだな」
エスカはさらに少し考え込んだ。
窓の外、中庭に当たる場所からはいまだに稽古の声が聞こえていた。
「お嬢様は槍の才能がないのですから、巧く突こうなどと言うスケベ心を持ってはいけません」
「はい」
「返事だけは相変わらず師範級ですな」
「はいっ」
「ではもう一度!」
「はいっ」
稽古の様子に耳を傾けていたエスカは、やがてポンッと手を打ってロンドに目配せをして見せた。
「よし。お前の申し出は実にいい考えだ。あいつならフィドルも退屈はしないだろ。奴も槍の使い手だし。エイビタルでも十分稽古はできるってもんだ。うわっはっは」
「エスカ様」
「なんだよ?」
「あからさまに嬉しそうですな」
「そりゃそうだろ? これで安心して便所にこもれるってもんだ」
ロンドは苦笑いを禁じ得なかった。
「私もいい加減、我が娘の思い詰めたような顔を見るのが辛くなりました。苦悩に彩られた長寿より、短くとも幸せな笑顔を残してくれた方が良いのもしれないと。あの子の父親としては複雑な心底ではありますが」
ロンドの言葉にエスカはニヤリと笑ってみせると、実に嬉しそうにつぶやいた。
「こうなったのも全部あのバカ兄貴の勝手なわがままのせいだしな。この際あいつとの約束なんざどうでもいい」
「約束は約束です。それを破るのはさすがに胸が痛みます」
「大丈夫だ。俺たちゃアルヴじゃねえんだ。必要なら約束の一つや二つ喜んで破ってやるさ。スノウが目の前に現れた時のバカ兄貴の驚いた顔が目に浮かぶぜ。いや、怒り狂うかもしんねえな」
「さすがにお人が悪うございますぞ」
そう主を諫めつつ、しかしロンドもエスカと同じ事を考えていた。だが、その場面を想像しあって楽しむ時間がないことを、この優秀な執事はわかっていた。
「その話はまたの機会に」
時間だった。
「わかってる」
エスカはうなずくと、ニヤニヤした顔を瞬時に真顔に戻し、背筋を伸ばした。
玄関の車止めには気をもんで悶々としている使者がいるはずだった。
ロンドはエスカから櫛を受け取ると、歩み去る主人に深々と礼をして見送った。
エスカは玄関の車止めに駐まっていた迎えの馬車に優雅な身のこなしで乗り込んだ。
そしてすぐに窓をおろした。
それを見た御者は、馬にムチ入れ、馬車をゆっくりと発進させた。
屋敷の門を抜ける際、あたりに咲き誇る木犀の香りが車内に入った。その香りを逃がさぬようにするためなのか、エスカは開けたばかりの窓を引き上げた。
目を閉じる。そのまま右手を腰に滑らせると、短剣の柄に象眼細工された薔薇のクレストをそっと指で撫でさすった。
それは彼が男爵の爵位を得た時に「紳士録」に登録したペトルウシュカ男爵のクレストであった。意匠はペトルウシュカ公爵家のものと同一。違うのは薔薇の色である。
白の公爵家に対し、男爵の四連の野薔薇は真っ赤であった。
エスカはそのクレストに心の中で話しかけた。
(答えろ、バカ兄貴。なぜ、俺なんだ? )
そして赤い薔薇のクレストを隠すようにその柄を握りしめた。
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