第一話 エスカ・ペトルウシュカ 2/6

 その頃すでにドライアド陸軍において大佐の地位にあったエスカ・ペトルウシュカは、ドライアド国王エラン五世より男爵の爵位を下賜されていた。ペトルウシュカ公爵家を継ぐ立場にないエスカにとって男爵とはいえ爵位の存在は有形無形に便利なものと言えた。

 そのペトルウシュカ男爵の問題は、公務中に常に側に控える腹心と呼べる人物がまだいない事だった。ロンドはなによりそれを心配していたのだ。

 もちろん生まれたときからペトルウシュカ家の家臣であるロンドがその役目を引き受けるのが自然ではあったが、ドライアドではアルヴという種族は好まれない。特に宮廷内や軍部にアルヴを家臣として引き連れていては上からの心証が良いはずがない。つまり出世に響くのである。さらに世間体というものもある。

 ロンドはそれがわかっていたからこそミュゼに来てからは決してエスカと一緒に外出する事はなかった。彼がエスカの為にエスタリアから連れてきた選りすぐりの家臣達の中にも数人のアルヴ系の人間がいたが、同じように言い含めてあった。

 もちろんデュナンの家臣もいたが、エスカの腹心とするだけの能力を有する人物かというとさすがにその要求水準をすべて満たす事は難しかった。

 出来れば軍の中でエスカの眼鏡にかなった「これ」という人物がその役に座ることを望んでいたのだが、エスカ自身が積極的に動こうとしておらず、やきもきしている所だった。

 ただ、エスカの心中は理解していた。彼の意中の腹心は貴族学校(アカデミー)時代からの僚友であるアキラ・エウテルペであることは間違いない。

 だがアキラはスプリガンの総司令に任命されている重鎮である。しかも当時は同じ大佐で、それを他の大佐の部下に引き抜くわけにはいかなかった。

 では彼に替わる人物を見つける努力をしているのか? 

 それがロンドのいう「例の話」なのである。


「まあ、そう急かすな。外れを引くわけには行かねえんだからよ」

「左様ですが」

「それよりお前、どう思う?」

 エスカが尋ねたのは王宮からの急な呼び出しの内容である。こんな事は異例であった。

「さて……五大老様からの早朝呼び出しは初めてでございますね」

「まあ、老人どもは朝が早いからいいんだろうが、若いこっちの身にもなれってんだ」

 エスカはあくびをしながらも、着替えをする手は緩めなかった。

「情勢の変化、でしょうな。それも極めて大きな何か、という匂いがします」

「お前の方には何もないのか?」

「残念ながら、これと言った情報は」

「まったく、こんな時にアキラはどこで油を売ってやがるんだ」

「特殊なお立場ですからな、エウテルペ様は」

「まったくどいつもこいつも。だが今のところ一番忌々しいのはコイツだな」

 エスカは着替えの吟味をするためにロンドが用意した大きい姿見の前に立つとそう言った。

 ロンドが用意したものは普段の軍服ではなく、礼装だった。

 ドライアド王国の行政を実質的に司るのは国王の側近衆である五大老と呼ばれる五人の伯爵家の合議であった。公爵でも侯爵でもなく伯爵によって構成されているところが奇異に映るが、王家そのものが弱体化しているドライアドに於いて、血族の公爵家や姻族の多い侯爵家は既に名ばかりとなっており、実質的には軍部を掌握している五大老という有力な貴族が牛耳って久しい。

 国王の実権は殆ど無きに等しく、まさに王制を維持する為の儀式用の飾りのようなものであった。

 現国王エラン五世はまだ若く貴族の子息達の為の上級教育機関である貴族学校(アカデミー)でエスカと同級であった。

 もちろん出世を狙うエスカが当時皇太子であったフェリックスに近づかないはずはない。持ち前の社交性を生かし、入学数日でフェリックス皇太子をして「親友」と言わしめるほど親しい関係を築いていた。

 皇太子は自分の周りにいる形式と虚栄と虚飾に厚塗りされた人間達に辟易していた事もあり、公爵家の人間として完璧な気品と優雅きわまりない容姿をまといながら、まるで庶民と違わぬようなざっくばらんで感情を直接的に表現するエスカに出会い、あっと言う間に虜になった。フェリックスがもしも女性であったならば、出会って数日のうちに婚儀の話にまで発展していたに違いない。

 それほどエラン五世にとってエスカは重要な人間であったのだ。

 卒業後のエスカの異例の出世にはそういう背景が存在するのは間違いない。エスカはアルヴではなくデュナンである。またドライアドはシルフィードではない。エスカは持っている力は誰に遠慮することなく利用したし、ドライアドの組織はその力を簡単に行使できる場所であったというだけの話である。

 だが、力はそれに見合うだけの反力を伴う。エスカの場合も例外ではなく、彼を疎ましく思う存在を無視する事は出来なかった。

 その当面の敵が五大老という存在であると言ってよかった。

 国の行政に対して影響力の低い国王ではなく、彼は是非とも五大老の力を我がものにする必要があった。だが、もともと上級爵位の家の人間を排除する事を是としてる五大老の中に槢を打ち込む事はエスカといえども容易ならざる問題であり、その決定的な突破口を見いだせぬまま月日が過ぎていたのである。

 五大老の一人と姻戚関係を結ぶ事が手っ取り早い方法ではあったが、エスカにはそれを選べない事情があった。

 幸い、まだ五大老からその類の話が持ちかけられる事はなかったが、ぐずぐずしていると逃げ道が無くなるであろうという事もわかっていた。

 そこへ五大老からの緊急の呼び出しである。

 エスカ達としても、構えないわけにはいかなかった。 

 姿見を眺めるエスカの胸中には、そういう様々な思いが去来していたのである。


 宮廷で五大老に謁見するということはすなわち国王が同席する格式であることを意味する。つまり有事でない限り、それには最正装で臨まねばならない事を示していた。

 それは思惑通りに事が運んでいない状況に併せ、彼に頭痛の種を提供していた。

 エスカは儀式用の佐官用軍服の華美な意匠が好きではなかったが、それよりもジャラジャラとうるさく、そして重い勲章を左胸に全て並べなければならないことに対していつも閉口していた。

 いや、「閉口」とは正確な描写ではない。その証拠にロンドの耳にはエスカが放つ呪詛の言葉が先ほどから間断なく届いていた。


「このこけおどしとしか言いようのない慣習はなんとかならねえのか」

 呪詛の言葉は質問系ではあったが、さりとてロンドに答えを求めているわけではなかった。

「俺はこの格好をする度に、自分がいかに俗物でつまんねえヤツなのかを思い知れ、って言われているみたいでいい加減ムカつくんだよな」

 呪詛の言葉はこのような独り言の形をとることも多い。

 だが、幸せなことに、エスカにはどちらであろうとその愚痴をいつもしっかりと聞いてくれるロンドという相手がいた。ロンドは自分がいなければ、主人はきっと自らの溜め息で溺れ死にするに違いないと確信していた。

 だから時には呪詛の言葉に反応もする。それはロンドの思いやりである。

「めっそうもございません。エスカ様のそのお姿は実に気高くご立派であらせられます。亡き父上がご覧になられたならば我が息子の晴れ姿に感涙を禁じ得ぬ事でしょう」

 見え透いた言葉であればあるほど、呪詛の言葉を止める効果が大きかった。さらにいえばエスカによく効くのは肉親、それもエスカの記憶にはない両親を引き合いに出すことだった。

 ともかくロンドはそう言ってエスカの愚痴を優しく窘めた。エスカは最後の仕上げに詰め襟の鈎金具を、カチっと音を鳴らしてとめるとロンドを振り返った。

「父上が?」

「はい」

「ふん。俺の記憶にねえ父上や母上のことはわからねえけど、あのバカ兄貴がこのザマを見たらきっと腹を抱えて笑うこったろうよ。いや、床を転げ回るだろうな。そしてきっとこう言うぜ。『エスカ、お前は軍人に飽きて道化に転職か?  それにしてもよく似合っているぞ』ってか?  くそ、勝手にホザいてろ、バカ兄貴。いや、あのネジの外れたバカ兄貴の事だ。意外と心から喜んでくれるかもしれねえな。『今度の大吟遊会にはお前の道化舞を所望する』とかなんとか真顔で言ってくる姿がどうにも目に浮かんできてムカつくぜ」

 エスカはそう言いながら姿見に映った自分の立ち姿を上から下まで検分した後、改めて深いため息をついた。

 ロンドはもちろん、主人のため息を無視した。

「そう言えばミリア様におかれましては、最近は以前のような破廉恥極まりない酒宴は謹んでおられるようです。吟遊会も『エスタリア大吟遊会』という名前を付けて、日程を短縮した上で三ヶ月に一度に改められた模様でございます」

「ほーお」

 エスカはロンドに怪訝な顔を向けた。

「まさかあのバカ兄貴が自発的にそんな気遣いを見せたわけじゃねえよな?」

「ご想像にお任せいたします」

「まあいい。ロンド、お前もミュゼにいながら『ど田舎』のソリュートの事にまで神経を遣ってるとそのうちハゲるぞ」

「それこそが我が喜びでございます、エスカ様」

「ハゲ好きだったのか?」

「いえいえ。それよりも以前に比べるとミリア様の理不尽なわがままもすっかり影を潜め、最近はエイビタルのアトリエに閉じこもって絵を描いていらっしゃる事が多いと聞き及んでおります」

「絵か」

 エスカは姿見に後ろ姿を映して最終の吟味に入った。

「掛け値無し、というかざっくばらんに言ってバカ兄貴のヤツは公爵だの領主だのという立場よりは百万倍も絵描きに向いてる。あのぶっ飛んだ性格も芸術家だと思えば腹も立たねえ……」

 エスカはそこで言葉を切って、視線を宙に泳がせたが、すぐに床をドン、と音を立てて踏みならした。

「いや、どう考えても腹は立つぞ!」

「エスカ様……」

「俺も絵だけはあのバカの足下にも及ばねえ。それは認める。あの馬鹿の絵はどれを見ても思わず引き込まれそうになる。だからあの才能だけは素直に認めねえ訳にはいかねえんだよな。まあ俺としては出来れば一生好きな絵を描くだけにしといてくれればと思うんだがよ」

 エスカの喜怒哀楽の変化がどうあろうと、ロンドは鷹揚にうなずいて軽く返すだけであった。エスカもその気のない返事に腹を立てたりはしない。これもまた日常の光景なのだ。だが、その日のエスカは日常よりも二割増し愚痴が多かったのは確かで、それもこれもそのドライアド陸軍の佐官用の礼服と、予想が出来ない五大老の呼び出しに原因があることは明白だった。

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