第二部 深紅の綺羅(しんこうのきら)
第一話 エスカ・ペトルウシュカ 1/6
仏頂面を絵に描いたような主人の表情を見て、執事長であるロンド・キリエンカは苦笑をこらえるのに苦労していた。
それは星歴四〇二六年の冬を迎えたとある早朝の事で、公務の為に叩き起こされた彼の主人はことのほか不機嫌であった。
ドライアド王国の首都ミュゼでの話である。
王宮を中心とする都心からは少し外れた森の近くに、彼の主人の屋敷はあった。
屋敷とは言ってもミュゼ在住の貴族、しかも男爵という爵位を持つ者が住まうにはいささか質素で、使用人の数も併せて考えると十分な大きさであるとは言い難かった。
そもそもそこは借家であった。とはいえその仮住まいに腰を下ろしてからもう結構な時が経っており、我が家と言うべき愛着も湧いている。より広い屋敷に移るべきであることはわかってはいるが、そうは言ってもなかなか重い腰が上げられない状況にあったと言っていいだろう。
そのぐっすり眠れる静かな立地にある屋敷で平和な眠りの中にあった主人を直接叩き起こしたのはロンドの仕業であったが、その原因を作ったのはミュゼにある王宮であった。すなわち主人の仏頂面が向けられている先は王宮であったのだ。
まだ夜が明け切らぬ頃、屋敷の扉をけたたましく叩く者があった。王宮からの使者が馬車を飛ばして郊外にあるエスカ・ペトルウシュカの、仮の屋敷の門の前で馬を止めたのだ。
使者が携えていたもの。それはエスカに対する緊急の招聘状であった。
五大老からの。
「うーん」
先ほどからエスカは窓の外から聞こえてくる声をしきりに気にしているようで、見事な金髪をぼりぼりとかき回しながら側に控えている執事長に声をかけた。
「おい、ロンド」
「はい」
「稽古か鍛錬か知らねえが、いくら何でも早過ぎやしねえか?」
『早過ぎる』とは、窓の下から聞こえてくる声の事であろう。
声は二人分で、一つは野太い男の声。もう一つが若い女の声で、男はなにやら指示を、女は返事とそして主に掛け声を発していた。
「まあ、日課でございます故」
「日課ぁ?」
エスカは驚いた顔で窓の外に向けていた顔を上げて、ロンドを振り返った。
今し方までの安眠をむしり取られた不機嫌さを思う存分仏頂面に込めていたエスカだったが、ロンドの答えに今度は鳩が豆鉄砲を食らったような顔に豹変したのを見るとその見事な変わりぶりがどうにもおかしくて、ロンドはついうつむいた。
エスカ・ペトルウシュカという人物はデュナンとしては異例と言っていいほど整った顔立ちをしていた事で知られている。現存する多くの肖像画を見てもそれが定説なのは間違い無い。また様々な史実からも彼が相当な美貌の持ち主であった事はおそらく事実なのであろう。
無機質で表情の変化に乏しいアルヴと違い、エスカは喜怒哀楽が人一倍はっきりとしていた人物であったようで、側付きのロンドにとっては主人の顔の変化ぶりは楽しみの一つだったに違いない。
「毎日やってるって言うのかよ?」
「はい。毎日やらないと日課とは言いません」
「正論過ぎて、今ムッとした」
「恐れ入ります」
「でもまあ、こいつぁ驚いたな。ここに来る途中でチラっと見たがよ、あいつ、この寒いのにもう汗だくだったぜ?」
「ミュゼに来てからのあの子にとって、朝の鍛錬が一番のごちそうなのでしょう。そしてその後でいただく朝風呂が二番目のごちそうのようです」
エスカが再び顔を窓の方に向けた気配で、ロンドはようやく顔を上げた。
見ればエスカは寝間着を脱ぎ散らかしている最中だった。
「下手の横好きっつーか、あいつのあきらめの悪さはハンパじゃねえな。だがよ、お前からもちょっと注意しといてもらえねーか?」
「と、申しますと?」
「俺はあいつに確かに言った。『いつでもかかって来いや』ってな」
「それは存じております。その場には私も同席しておりました」
ロンドは脱ぎ散らかされた寝間着を拾い上げながら、クロゼットに向かうエスカの後を追った。
「だがな、こっちが眠ってるときに襲っていいと言った覚えはねえ」
「はあ」
ロンドはまたか、と思った。
「俺だからいいがよ、普通は犯罪だぜ?」
「はあ」
「つーか、こっそり忍び込むとか物陰に隠れてとか、お前の娘にゃそういう知恵はねーのかよ?」
「また、ですか?」
エスカは肩をすくめた。
「おうよ。真夜中に扉を叩くわ、扉を開く前に断りを入れるわ、開けたら開けたで今度は自分の名前をあのぼんやりした声で棒読みよろしく名乗った挙げ句、槍で床をドンっと鳴らしてから抑揚のない声で『お覚悟』ときたもんだ。なんで俺がやかましいのかやかましくないのかよくわからん、めんどくせえ幽霊のような奴の相手をしなきゃならんのだ?」
「それはそれはいかにも正調な。行儀作法はしっかりしておりますな。ああ見えてあの子は我が一族ではおそらく最もアルヴの気質が強いのでしょうなあ」
「『でしょうなあ』って、感心してる場合じゃねえだろ。あれじゃそのうち風呂場とか便所とかにもやって来て『勝負』とくるぜ」
ロンドはエスカが落とした服をすべて回収すると、彼の眼前にあるクロゼットの扉を開けた。エスカはクロゼットの中を一瞥すると今度は暗い顔をして目を伏せた。
そのクロゼットは王宮に「上がる」際に着る服、つまり公式の場で装うべき礼服や軍服などが目的に応じて並べられてあった。そしてそこはまた、エスカの美意識と相反する服の宝庫でもあった。
「それで、我が娘の槍の腕前は上達しておりますか?」
落ち込んでいたエスカの表情が一瞬で苦笑に満ちた顔になった。
それを見てロンドはいつも思う。主人の顔を見ていると飽きない、と。
少なくともエスカほど表情が豊かで、かつ猫の目のようにころころ変わる人間を彼は知らなかった。
「ひいき目に言ってお前の娘にゃ槍の才能はこれっぽっちもねえよ」
「ひいき目に言って、ですか?」
「忌憚のない意見を述べると、だ」
「はあ」
「あんな下手な奴はファランドール中探してもなかなかお目にかかれるもんじゃねえな」
「さすがにそれほどでは……」
「いや、謙遜する所じゃねえだろ。だがまあ、最近思うんだが、あいつが剣じゃなく槍を選んだのは正解じゃねえかな」
「ほう。槍は多少の適正がある、と?」
「いや」
エスカは今度は哀れむような顔でロンドを見た。
「剣は絶望的なんだよ。オレが足の指で握った方が上手い」
「それはそれは」
「あいつの手は武器には向いてないんだ。料理はあんなに上手いじゃないか。そっちで身を立てさせろ」
「そうは言っても聞く耳は持ちますまい。何しろ頑固な娘でございますゆえ」
「まったくだ」
ロンドは主に下着を渡し、クロゼットから着るべき服を迷わず選び出すとエスカの脇にある姿見の横の衣装掛けに吊した。
「頑固なだけじゃねえ。融通も利かねえ。だいいちあのぼーっとした顔で口うるさく言われるとこっちの調子がくるっちまう」
「ぼんやりしているように見えるのは地顔ですから仕方ございませんな。あれは母親似でして。しかし、ぼうっとしているようでも、元気な子でございますから」
ロンドはそう言って苦笑した。
「まあ、元気なのは間違いなさそうだがな」
エスカはロンドを横目で見るとため息をついて、ようやく着替えに取りかかった。
「あの子は護衛としてお役に立ちたい一心なのでございます」
「とは言え、あいつは俺の護衛をやりたい訳じゃねえしな」
エスカはそう言いながら浮かぬ顔のままでのろのろと身支度を始めた。いや、浮かぬ顔どころかその時にはもう積極的に憂鬱な表情といって差し支えない顔になっていた。
「どのみちあの子にはエスカ様の護衛はさせませぬ故、ご安心を」
「そう願いてえな」
「護衛の話が出たついでと言っては何でございますが、例の話、そろそろ本気でお考えくださいませんと」
「付き人の件か?」
ロンドはうなずいた。
その件はロンドの最優先事項ではあるが、にも拘わらず乗り気でない彼の主人が先延ばしにしていた問題であった。
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