最終話 マーヤ 2/2
「ちょ、ちょっと待って」
エイルは片手を額に当ててもう片方の手のひらをシグにつきだした。
「本当にこれで、終わりなのか? オレは本当に開放されたのか?」
シグは再びうなずいた。
「ここでの出来事は、長い夢だったと思えばいい」
エイルは強く首を横に振った。
(いや、そうじゃない)
エイルは拳を握りしめた。
(夢なんかであってたまるか)
「エルデは?」
「心配か?」
問いかけたエイルにシグはそう返した。
「当たり前だ」
「そうか」
シグは微かにため息をついたように見えた。
だが表情は変えず、手に持った精杖を少し揺らした。
するとエイルの後方に浮いていた寝台がゆっくりとシグの近くに寄ってきた。
そこには紗をまとった長い黒髪の少女が横たわっていた。歳はエイルと同じか少し上に見えた。
エイルはその少女の顔をひと目見て凍り付いた。
目を閉じていてもわかる、その恐ろしい程美しい顔立ちに、エイルは見覚えがあったのだ。
忘れようもない。
その少女の顔は……
「マーヤ!」
エイルは思わず少女の名を叫んだ。
そして寝台に取り付くと、横たわるその黒髪の少女の顔を凝視した。
エイルが叫んだ少女の名。それはエイルのたった一人の妹の名前であった。
大切な妹。そして彼にとってただ唯一記憶に残っている大切な名前。
だが……
(マーヤが、なぜこんなところにいるんだ?)
アプリリアージェは珍しく眉根にしわを寄せてそんなエイルの行動を吟味していた。
――おかしい。
そう思っていた。
「違う」
「え?」
思わず口を突いて出たアプリリアージェのつぶやきに、ファルケンハインは驚いたようにもう一人の黒髪の娘に視線を移した。
「違う?」
だが、アプリリアージェは小さく首を振っただけだった。
寝台にとりついていたエイルはゆっくりとその手を離すと、その場から一歩後ずさり、アプリリアージェと同じ言葉をつぶやいた。
「違う」
(そうだ。違う。これはマーヤじゃない)
それはエイルの妹ではなかった。
妹であるはずがなかった。
エイルには、既にフォウの記憶がかなり戻っていた。
だからこそ理解した。
なぜなら……
エイルは少女の寝台の側で、少し肩を落として立ちつくした。そして我に返ったようにシグに顔を向けた。
「これは誰なんだ?」
その質問は、もちろんシグ・ザルカバードに投げられたものだった。
ファルケンハインはエイルのその声を聞くと、息を呑んで再びアプリリアージェの顔を見た。だがアプリリアージェは何も答えず、ただエイルの目の前にいる黒髪の少女を見つめていた。
シグはうなずいた。
「左様。そのピクシィの娘はファランドールの人間だ」
「なぜ……なぜおれはこの子を妹だって思い込んでいたんだ?」
そう問いかけて、エイルはある事を思い出して自問した。
「思い込まされて、いたのか?」
シグはその問いには無言だった。
「エルデが、この子をオレの妹だって思い込ませていたんだな?」
エイルは悔しさで唇を噛んだ。
理由はわからない。だが、悔しさがこみ上げてきていた。
「なぜ騙したんだ? なぜ、エルデはこの子をオレの妹だなんて思い込ませたんだよ?」
「だいたい、よりによってなぜ名前がマーヤなんだよ? この子はマーヤっていう子なのか?」
エイルの続けざまの問いかけに、シグは無表情のままで首を振った。
「マーヤという名は知らぬ。ただ、この娘の現名はお前も知っているはずだ」
エイルはゴクリと唾を飲み込んだ。
「現名、だって?」
「この瞳髪黒色の少女は、現名をエルデという」
エイルは再び混乱の沼に意識を持って行かれた。
「やはり、ね」
アプリリアージェはしかし、シグの言葉に小さくうなずいていた。
「エルデだって?」
「左様」
「エルデが、オレの妹として、マーヤと名乗っていたというのか?」
「そのようだな」
そのようだと言われても、エイルにはにわかには信じられなかった。いや、意識にこびりついた少女の映像が目の前の少女は彼の妹以外にありえないと、いまだに訴え続けていた。
確かに頭の中にいたマーヤという名前の妹はそこに横たわる少女そのものの姿形だった。その顔はもはや記憶や意識どころか、エイルのまぶたの裏に焼き付いていて間違いようがないほどだ。
だが、エルデの憑依呪法が解けた事によりフォウの記憶を取り戻しつつある今は、それが妹ではない事はわかっていた。
なぜなら……
「オレには、妹なんていないんだぞ」
いや、それどころかエイルにはそもそもマーヤなどという名前の知り合いはいなかった。
「教えてくれ。いったいオレは何をされたんだ?なぜ……」
だが、エイルの言葉はそこで途切れた。
気配がしたのだ。木のベッドから。
「おお」
シグは思わず声を上げるとベッドの側に近寄った。
「戻られたか!」
驚きと喜びの感情をむき出しにすると、シグはその両目から涙を流した。
シグの様子にも驚いたが、それよりもエイルにはその少女が動き出した事の方が重要だった。
それまでその場を動かずに様子を見守っていたアプリリアージェはファルケンハインと小さくうなずき合うと、自分達も少女が横たわる寝台に近づいた。
アプリリアージェが見たベッドの上の少女はむずがるような仕草で体を動かしていた。見れば体を覆っているのは紗一枚のみで、体はほとんど透けて見えていた。
「ん……」
小さくため息のような声が少女から漏れた。その少女は間違いなく生きていた。
八つの瞳が注視する中で黒髪の少女はやがてゆっくりとまぶたを開けた。予想通り、その瞳は黒く、そして大きかった。
少女はその切れ長の大きな目を開き終えた。
それはまさにエイルの記憶の中で笑い、泣き、怒っていたマーヤのものだった。だが、現実の少女のその顔は意識の中のそれよりも数倍美しく、そして恐ろしかった。
そう。ゾッとするような美しさだったのだ。
ファランドールではアルヴやアルヴィン、あるいはダーク・アルヴと言った彫刻を思わせるような整った顔に見慣れていたエイルだったが、その瞳髪黒色の少女の顔はそれらとは異質の美しさを纏っていた。
エイルは息を止めたままだったことにようやく気付くと、大きく深呼吸をした。
「ここは?」
少女はまだ焦点が合わないような頼りない視線を宙に漂わせながら、誰にともなくそう尋ねた。
その声は混ざり気のない銀で出来た鈴のように、軽やかに澄んだ音で一同の耳に届いた。
これほどまでに耳に心地よい声があったろうか?
エイルはそう思わずにはいられなかった。そしてそれはもちろん、彼が頭の中で作り上げていたエルデ・ヴァイスという「少年」の声とは似ても似つかないものだった。
「ご自分が誰か、おわかりになりますかな?」
少女を覗き込んでいたシグ・ザルカバードが流れる涙も拭かず、優しい声でゆっくりとそう尋ねた。
少女は視線を自分に声をかけた初老のアルヴへ移した。そして今度はゆっくりと自分の両の手をその視界に入るところまで挙げると、ほっそりとした形のいい指を開き、その掌をじっと見つめた。
少女はぼんやりとした表情で、心の中に沈んでいるものを思い起こすように再び目を閉じた。
だが、すぐにその薄い唇は小さく開いた。
「我が名は……」
一同が固唾を呑んで見守る中で再び目を開けた少女は、小さいながらもしっかりとした声でつぶやいた。
「我が名は、『白き翼』」
テイルズオブファランドール「合わせ月の夜」 第一部 蒼穹の台 完
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