最終話 マーヤ 1/2
その後シグが行った儀式……それが儀式と呼べるものなら、ではあるが、あっけないほど短い時間で終了した。
《真赭の頤》シグ・ザルカバードは小さく何かを唱えたかと思うと精杖の頭部をエルデの額に当てた……。
儀式はたったそれだけだった。
精杖を額に受けたエルデは正座をしたまま即座に意識を失ってその場に崩れ込み、同時に横にやってきていた大きなスフィアが白く光ったかと思うとその外郭が消え失せ、かわりに木製の質素な寝台が一つ現れた。
いや、正確には寝台に仰向けに寝かされた長い黒髪の少女が現れたのだ。
アプリリアージェは紗(うすぎぬ)を纏い横たわるその少女をつぶさに観察した。
意識がなく、目は固く閉じられていた。自分の腰よりも長い豊かな髪は黒く、大小のスフィア達が放つ光を受けてまるで濡れたように光っていた。
「これは」
瞳が開かずともアプリリアージェには分かった。
黒髪の少女はデュナンでもダーク・アルヴでもアルヴィンでもない。間違いなくピクシィの血を引く人類だった。
アプリリアージェとファルケンハインは再び顔を見合わせた。
意識を失い倒れたエルデ。
スフィアから現れた瞳髪黒色の少女。
彼らの推理に役立つ手がかりはそれだけだった。
つまりは一体何が行われたのか全く分からなかった。
エルデはこの後目を覚ますのだろうか?
そもそもなぜエルデは意識を失ったのだろうか?
いや、エルデは何の為に意識を失わされたのだろうか?
いったいシグ・ザルカバードは何をしたのだろうか?
そして、それら全ての疑問にシグ・ザルカバードは何かしらの説明をしてくれるのだろうか?
今し方シグは言った。『よいと言うまで動くな』と。
そのシグの視線は寝台の少女ではなく足下に崩れるように倒れ込んだエルデに注がれている。
彼ら、すなわちエイルとエルデが求めていた「解呪」を行ったのだろうか?
そしてそれはまだ終わってはいないのだろうか?
沈黙がその不思議な空間に流れていた。
どれくらい待っただろう?
もどかしさの中でそれは永遠にも感じられる時間だった。だが実際には儀式が始まってから数分しか経ってはいないのだろう。
「う……くそ」
見守る一同の重い沈黙を破ったのは瞳髪黒色の少年の方だった。
彼は周りを見渡しながら立ち上がった。そして自分の目の前にシグ・ザルカバードが立っていることを認知すると驚いたように足もとにある精杖を手にし、身構えた。
『エルデ!』
エイルは心の中で呼びかけた。
『エルデ?』
返事がない。
『おい!』
「少年よ、気分はどうだ? 余の顔がしっかり見えるか? どうだ?」
とまどうエイルにシグがゆっくりと声をかけた。
その口調は先ほどまでのエルデに対するものとは明らかに違う。そしてその顔は無表情だった。
「あ、ああ。貴方はいったい?」
曖昧な返事をしてシグの表情から何かを探ろうとして、エイルは気づいた。
この黒っぽいローヴを纏った長身の初老のアルヴが《真赭の頤》に違いないと。
ここがエルデの言う目的地であることはこれで証明された。
だが、肝心のエルデの意識がない。
(また深い眠りについているんじゃないだろうな?)
エイルは焦った。
(目の前にあれほど会いたがっていた師匠がいるんだぞ? オレだと何を話していいやらわからないじゃないか)
端から見ても動揺しているということがわかるエイルに、シグは言った。
「その顔だと余が誰かは既にわかったようだな」
動揺を悟られまいとして、エイルは努めて平静を装った。
「《真赭の頤》、シグ・ザルカバード」
大賢者はエイルの答えに小さくうなずいた。
「危害は加えぬ。構えを解くがいい」
言われて気づいた。
精杖を正眼に構えたままだったのだ。エイルは大きくため息をつくと、構えを解いた。緊張が少し緩んだことで周りの状況がつかめてきた。
と、同時に重大なことに気づいた。緊張でそのことに気づかなかった自分が滑稽だった。
そう。
もうとっくに忘れかけてた懐かしい感覚がそこにはあった。
「これは!」
エイルは大きく息を吸い込んだ。二度、三度。
そして今度は自分の手のひらをじっと見つめた。
そして、次には何を思ったのか左の手の甲をペロリとなめた。
「戻ったのね」
アプリリアージェがつぶやいたとおりだった。
今まで見えなかった右の目にもちゃんと視力がある。だからもちろん遠近感もある。両方から音が、声が聞こえ、舐めた手の甲はかすかに汗のしょっぱい味がした。
「見える」
シグはエイルの様子を見るとうなずいて見せた。
「エイル・エイミイ……と言うのだったな?」
「はい」
「それはエルデ・ヴァイスに付けられた名だな?」
「そうです」
「名と、記憶の多くは失っておったのだな?」
「はい」
「では、今はどうだ?お前自身の本当の名はわかるか?」
「いや……」
エイルはシグの問いに自分の頭の中を探った。
ある程度の記憶が戻ってはいた。しかし一気に全てが明瞭になるというものではないようだった。少しずつほぐれてきている気はするが、ややじれったい。
それはまるで水底からわき上がる泡が水面ではじけるように、ぽつん、ぽつんと沸くように心の池に広がりゆくようだった。
意識を無くしていた間にエルデとシグの間で何のやりとりがあったのかがわからないが、あの忌々しい呪法はようやく解除されたようだった。
「「喰らい」の呪法は解いた。お前はもう普通の体じゃ。いくつか封じられていた記憶も戻っておろう」
「封じられていた?」
そうだ、思い出した。エルデも同じ事を言っていた。
(いや、質問よりまずここは礼を言うべき何だろうか?
でも……
ああ、やっぱりオレじゃ対応不能だよ。
エルデの野郎、肝心なときにどうしたんだ?)
「瞳髪黒色の少年よ。お前はもう自由じゃ」
「自由?」
(どういう意味だ? 呪法から開放されたという意味なのか?)
『エルデ、おい、エルデ。起きてくれ。オレ、どうしたら?』
どうにもまだ状況が掴めなかった。
それにしてもアプリリアージェ達が遠巻きにこっちを見ているのはなぜだろうか?
「同時に憑依の呪法も解けた。従ってお前が有るべき世界への扉は既に開かれておる」
そういうと大賢者は精杖を高く掲げた。
それに呼応して、またもや一つのスフィアがどこからともなく現れ、エイルの近くに寄り添った。そして青白い光を放つと同時に外郭がすっと消えさった。
そこに現れたのは大きな石造りの、厳めしい装飾が施された扉だった。
その扉は扉と枠だけで出来ており、「こちら側」と「向こう側」とを分けていた。扉の「こちら側」は明瞭に見えるが、向こう側は空間と闇が融合したようにぼやけていてどうにも焦点が合わない。
「オレが有るべき世界?」
オウム返しにそういうと、エイルはハッと顔を上げた。
気付いたのだ。
「まさか、オレは帰れるのか? フォウへ。元の世界へ?」
シグは今度はアプリリアージェ達にもわかるくらいはっきりとうなずいて見せた。
「「喰らい」の呪法と同時に憑依の呪法も解かれた。憑依が解呪された事により呪法によってファランドールにつなぎ止められていたお前は解放され、自分の有るべき場所、すなわちファランドール・フォウへの道が開かれた。さあ、扉を開いて征くがよい」
唐突だった。
つい数時間前に感じていたラシフの体のぬくもりがまだ残像のように残っている。それなのに突然「さあおうちにお帰り」と言われても何だか現実のこととは思えなかった。
「この扉で?」
「扉を開き、そこに現れる混沌の前で自らのあるべき世界の名とそこでの本当の名前を唱えよ。さすればその名はあるべき場所へ誘われる」
「オレの……本当の名前を言うのか」
ずっと思い出そうと何度も何度も懸命に考えていた。しかし、濃いもやがかかったように何の手がかりも得られなかったフォウでの自分の名前……。
(オレの名前は……)
「よくわかりませんが、これでようやくわかりました」
アプリリアージェが独り言のようにつぶやいた。
「え?」
ファルケンハインには何が行われているのか見当もつかなかったが、アプリリアージェは推理の構築がある程度できたようだった。
「今、目を覚ましたのが、エイル君」
「はい」
「解呪されたエイル君はフォウへ戻る事になった。あの扉の向こうがフォウなのでしょう」
「え?」
「問題は……」
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