第七十一話 時のゆりかご 3/3
「本当にウチは、もうええんや」
(何が……「もういい」のだ?)
「はじめはそのつもりやった」
(当初の目的が変わったのか?でも、目的って?)
「さっき言うたように覚悟はとっくにできてるんや」
(覚悟?一体何の?)
「それでもウチには出来んかったんや。師匠にはそれがなんで理解でけへんねん?」
(何をやろうとしていたのだ? そしてそれは成し遂げられなかった?)
『出来ないことはない』と豪語する傲岸不遜な賢者エルデの言葉とは思えなかった。
エルデの哀願とも取れる呼びかけに、シグもしかし頑に首を横に振り続けていた。
「もう一度申します」
そういうとシグは続けた。
「ご自身の立場をお忘れではありますまい?」
その声は今までよりも強目で、まさに師が弟子に言って聞かせるような風情があった。
「言いたくはありませんが、あなたの存在がどれほどの犠牲の上に成り立っているのか……ご自身もおわかりのはずではありませぬか?」
師にそう言われた弟子はうなずいた。
「勿論忘れへん。忘れとうても忘れられへん。けど、それが今更何やっちゅうねん? 考えて見ぃや? ウチ一人が居ようが居まいが、この大きな時代のうねりがさほど変わるものでもないやろ? ウチは……もはや過去の遺物なんや」
シグはひときわ大きく首を左右に振った。
「あなたはそのたった一人の取るに足らぬ命を救う為に何億、何十億もの人々の命を危険にさらす選択をなさるおつもりか?」
シグの強い調子にエルデはしかし憤然と反論した。
「取るに足らぬ命とか言うな!」
「しかし」
「こいつがウチに教えてくれた事があるんや。それはたぶんウチらが遠い昔にどこかに置き忘れてきた大事な事なんや」
「伺いましょう」
「人っちゅうのは、本当はたった一人の人間の為に生きていく事こそが幸せなんやと。たった一人を全力で守ること、それがすなわちより多くの人を守る力に繋がる事になるっちゅう事や』
「甘い」
「やかましい! 甘うてもええねん」
エルデが初めてシグに怒鳴った。
大理石で出来た床をドンドンと叩き続けるエルデの両の拳が、やがて血でにじんでくるのをアプリリアージェは認めた。手加減などせず力一杯殴った証拠であるそれは、エルデの想いの強さを表す赤い証明書であった。
「ウチの命は誰のものでもあらへん。ウチが心から守りたいと思う人の為に使いたいんや。命っちゅうのはそういう物やってわかったんや」
「しかし」
「確かにこの異世界からの客人の考えは浅い。しかも直情的や。伝える言葉は稚拙やし、不器用きわまる」
「所詮はただの人間です」
「そやけど……いや、そんなら納得が行くように教えてくれ。取るに足らん存在の言葉が、行動が、叫びやつぶやきや、涙や笑顔が……ウチの心を突き動かすのは一体どういうわけや?」
「それは……」
「ウチが取るに足らん存在とやらに教えられる事が多いのはなんでや? 共感してしまうのはなんでや?」
「いや、ですから」
「この人間が取るに足らん存在やと言い張るならそれもええやろ。ならばその存在に共鳴してしまうウチも取るに足らぬ存在や」
「それは詭弁というものです」
「黙れ!」
「しかし」
「聞け。我が理解者にして偉大なる師である《真赭の頤》よ」
「は、はい」
「師がどうあってもウチの頼みを拒否するつもりやったら、ウチはウチ自身の力を使うて違う方法で同じ事をするまでや」
「なんですと?」
「ウチの力を知らん訳でもないやろ? まずはじめに今ここでこいつを目覚めさせる。意識が二つとも覚醒している状態でウチが強力な解呪法を使うたら、さて一体どうなるか」
「ば、馬鹿なことはおやめ下さい」
シグは慌ててそう言った後、今度はしばらく黙り込んだ。
エルデも何も言わなかった。ただ、黒く深い濡れたような瞳で師と呼ぶ初老のアルヴを睨み付けていた。
弟子のその目をじっと見つめていたシグは、やがて深いため息を一つつくとうなだれて重い口を開いた。
「これでは私は、はじめから負け戦に挑んでいる愚かな道化のようなものでございますな」
「《真赭の頤》……」
「もう他人行儀はおやめ下され。師としてではなくいつも通り現名で呼んでくださいませ」
「わかってくれて、おおきに。シグ」
「いいえ、わかった訳ではありませんぞ。人質を取られ、さんざん脅されたあげくにしかたなく、です」
「それでもええねん。おおきに」
「言っておきますが、成功の可能性はほとんどありません。そして成功したとしてもいったいどのくらいの時間保つかは本当にわからないのですぞ。一年か十年か、それともたった三日か」
「くどい。言うたやろ? そんなことはもとより承知や。ウチは自分で出来ることをやるまでや。こいつの思いを継いで』
「わかりました。爺ぃめはもう何も言いますまい」
しばしの沈黙の後、シグはついに折れた。
「シグ」
「ただし、名目上とはいえ弟子に脅されていいなりのままというのはさすがに師としての立場の方がうまくありません」
「今更、何を?」
「ですから、あなたの我が侭をお聞きするかわりに我が決意も承諾して欲しいと申し上げております」
「決意?」
「交換条件と言う奴ですな。あなたの得意技ではありませんか。ですがまあ、そっちの話は後にしましょう。成功してからの話です」
「わかった」
「決めたからには急いでやってしまいましょう。もう長くはもたないのでしょう?」
「うん。頼む」
「くどいと言われるの承知で今一度たずねますが……本当によいのですな?」
師の問いに、弟子は迷い無く無言で大きくうなずいた。
アプリリアージェ達はスフィアの中に閉じこめられている為に身動きの取れない状態にはあったが、しかし言葉は交わせるようだった。だがそれでもアプリリアージェとファルケンハインは二人の何やら緊迫したやりとりを目の前にして、交わす言葉自体を失っていた。
だが、これから何か重大な事が行われるとわかってようやく気持ちが切り替わった。
先にファルケンハインが口を開いた。
「ひょっとしてエルデは俺達の命乞いをしてくれてるんでしょうか?」
「いえ。全く別件でしょうね」
アプリリアージェは穏やかにそう答えた。
ファルケンハインはアプリリアージェが泰然としているのを見て不思議に思った。彼にしてみればどう見ても自分たちは虜にされていて危機的な状況に置かれているのは間違いないわけである。エルデにいきなり何らかのルーンで失神させられたのだ。そして気がつけばスフィアに閉じこめられていた。
油断の中でかつ不意を突かれたとは言えル=キリアの精鋭二人に手も足も出させない早業には脱帽せざるを得なかったが……。
「たぶん、心配は要りませんよ」
アプリリアージェはファルケンハインの不安を見透かしたようにそう言った。
「賢者エルデは私たちを気絶させる前に小さな声で『堪忍やで』と言いました。その古語の意味は『不本意だけれど止むに止まれぬ事情がある。ついては申し訳なく思うが、できれば許して欲しい』という内容になります」
「いや。それくらいはわかりますが……えらく長くて細かい訳ですね」
「古語とはそういう微妙な心情の機微のようなものを深いところで表現している言葉だったそうです」
「なるほど」
アプリリアージェは続けた。
「その声には賢者エルデにしては妙な優しさというかいたわりのようなものを感じました。ここからは我々に下手に動いてもらいたくないから悪いけど少しの間固定する、眠らせるというかそういう意味あいが一つ。もう一つはおそらくそのままだと現れた《真赭の頤》によって直後に我々が何らかの攻撃を受ける可能性があったのであらかじめ拘束して安全地帯に退避させておいたという事でしょう」
「それはそうかも知れませんが……今エルデが話していた内容は……」
アプリリアージェはうなずいた。
「そうですね。でも私たちの事を話しているのなら、一度くらいこちらの方を見るなり指さすなりするはずでしょう? 《真赭の頤》にしてもそうです」
言われてみればそうだとファルケンハインは思った。エルデは我々がそこにいないかのように師に何かを訴えていた。
「では、始めましょう」
「はい」
シグは一呼吸置くと立ち上がり、正座をしたままのエルデにゆっくり歩み寄ると右手でそっとその髪をなでてみせた。慈愛あふれる表情で。
その様はまるでかけがえのない我が子を愛撫する父親であった。
アプリリアージェとファルケンハインは再び顔を見合わせた。
「あ、忘れるとこやった。申し訳ないけど少しだけ待ったって」
エルデは思い出したようにアプリリアージェの閉じこめられているスフィアの方を見やるとノルンという例の精杖を手にした。そしてそれをアプリリアージェ達の入っているスフィアの方に付きだして少し口を動かした。これまた口元を読む事に長けたアプリリアージェでさえ何を唱えたかまではわかりかねる小さな口の動きだった。
次の瞬間、彼らを覆っていたスフィアは消え去り、これで一行の呪縛はすべて解かれた。
シグはそれを受けて初めてアプリリアージェ一行に直接声をかけた。
「安心しなさい。危害は加えん。だがしばらくはその場で動かぬように」
穏やかだが有無を言わせない強い口調だった。
「我が弟子がこの後起こる事をしかと見ていて欲しいというのでな」
「呪法の解除ですか?卒業試験の?」
アプリリアージェが尋ねた。
「卒業試験?」
怪訝な顔で師は弟子に尋ねた。
「いや……色々と事情があって……気にせんといて」
「ふむ」
エルデの苦笑にアプリリアージェは違和感を覚えた。だが、それよりも妙に穏やかなエルデの顔を見て嫌な予感が走った。
だが、だからと言ってこれ以上何も言える状況ではなかった。
「もう一度念のために言う。余がよいというまで動くでない。もし動けば容赦はせん」
シグはアプリリアージェ達を一瞥してそう言った後、改めてエルデに向かい合った。
「始めましょう」
エルデは何も言わずに小さくうなずいた。
ファルケンハインの目には、エルデのその姿がなぜかはかなく見えてしかたがなかった。だが何も言えなかった。師と弟子の間に他を寄せ付けぬ何かしら厳粛な雰囲気を感じていたからなのかもしれない。
シグはおもむろに精杖を天井にかざした。すると周りに漂っていたいくつかのスフィアのうち、比較的大きな一つがエルデに寄り添うように近づき、ピタリと止まった。
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