第七十一話 時のゆりかご 2/3
「エイル君?」
静かになって佇むエイルに気付いたアプリリアージェは心配そうに声をかけた。
「スフィアには触るな」
エイル……いや、エイルの体を支配したエルデは振り向きざまそう言った。
「エルデ君、なの?」
エイルでもなくエルデでもない、明らかに異質の雰囲気をピクシィの少年がまとったのをアプリリアージェは敏感に感じた。
「説明してくれ。このスフィアは何だ? どうやら書物が入っているものが多そうだが……あとはがらくたか」
ファルケンハインの問いに、だがエルデは答えなかった。
「悪い。二人ともしばらくの間眠っといてくれるか」
その言葉に対してアプリリアージェが何かを言おうとした時、エルデがルーンを短く唱える口の動きが彼女には見えた。だがそう思った時には視界には全く何も映らなくなり、何かに吸い取られるように意識が消失していった。だが、意識が消える瞬間もアプリリアージェは「しまった」とは思わなかった。エルデからは危害を加えられるというおそれを全く感じなかったからだ。だから薄れゆく意識の中で「大丈夫だ」と自分に言い聞かせていた。そしてそんな事を感じている自分を奇妙だと思う自分がいて、さらにそれを見ている自分が別に存在している……そんな不思議な感覚に見舞われた。何が不思議なのかがわからぬまま……。
アプリリアージェにしてみればエルデに悪意はないと言うことを信じ切っている自分に少し驚いていたということなのだろうか。だが、その考察をする前に彼女は完全に意識を失い、底のない闇の世界に落ちていった。むろん、ファルケンハインも同様に。
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「それはなりません」
「なんでや。ウチが決めたことや。いや、最初からそうするつもりやったんや」
「絶対になりません。いかにあなたのご指示と言え、こればかりはとうてい承諾するわけにはまいりません」
アプリリアージェが深い眠りから覚めた時、視界に飛び込んできたのは大理石の奔放で複雑な模様だった。
どうやら横たわっているのは、藁をよく叩いた後にほぐして膨らませたふかふかのベッドではなく、冷たい石の床のようだった。
視界はまだぼんやりしていた。だが、それは自分の視力のせいではなく今自分が置かれている環境、つまりこの場所の特徴のせいだろうということをすぐに認識した。
アプリリアージェとファルケンハインはさっきまで自分たちが外から見ていたのと同じもの……要するにスフィアの中に閉じ込められていたのだ。
試しに手を伸ばしたが、中からは外に出ることは不可能だった。スフィアの内側には固い殻があった。
「何を言おうとこればっかりは承諾してもらう」
「あなたはご自分が何者かをご存じのはず」
「わかってる。全部理解した上での結論や」
「相手はあなたなどと違う、ただの人間なのですよ?」
「そんなことはようわかってる」
「いやいや。おわかりになっているとは思えません」
激高したやりとりではないが、誰かが言い争うような声が聞こえる。
(確かあれは……。いや、あれは誰だろう?)
落ち着いた深い響きの男の声はアプリリアージェの記憶にはなかった。初めて耳にする声の主はおそらく若くはない。
声は二つで、一人の声を彼女はよく知っていた。
(エイル・エイミイであり、そしてエルデ・ヴァイスの声)
意識を取り戻して数十秒ほど経っただろうか。ある程度の空間状況把握をしたアプリリアージェはあたりの様子をうかがいながら慎重に、できるだけ音を立てないようにしてゆっくりと体を起こした。
体に痛みはない。
四肢がすべて正常に動くのを再確認する。足首などにも特に拘束はないようだ。
だが、周りを何か得体の知れない幕のような物で覆われていて視界がゆがんでいる。まるでできの悪い再生ガラスを何枚も重ねて窓の外を見ているかのようで、無理に焦点を合わせようとするとめまいがしそうだった。
アプリリアージェが体勢を整えた頃、すぐ近くに横たわっていたファルケンハインも意識を回復し出したようで、そのままの姿勢でゆっくりと辺りをうかがう気配がした。
見たところ仲間にも外傷はなさそうだった。
一安心したアプリリアージェの意識は再び少し離れたところにいる二人の人物の会話に向けられた。
そう離れては居ない。
ぼんやりとであるが二人の姿の概略は把握できた。
エイルと話をしているのは禿頭のアルヴ。羽織っている黒っぽいローブはマーリン正教会風に見えた。そしてその手には白い精杖が握られている。
(おそらくはあれが《真赭の頤》、シグ・サルカバード)
アプリリアージェは直感的にそう確信した。
(本当に生きていたというの?)
ザルカバードの声には語気の強さはなく、穏やかで優しい響きさえ感じる。その声が作り出す雰囲気は会話の相手だけでなく少し離れたところにいるアプリリアージェをも包み込むようだった。言うなれば彼はその声でその場の空気を支配していると言えた。敵であるとか味方であるといったそんな陳腐な相対的な関係をもはや超越して、《真赭の頤》の存在感は圧倒的だった。
だがそんな圧倒的な存在感を持つ
いや……それよりも何よりも気になることがあった。シグ・ザルカバードはエルデに対して敬語を使っている。弟子に「あなた」と呼びかけている。
不自然ではないか?
アプリリアージェはそう思った。
《真赭の頤》はエルデの師……ではないのか?
そしてエルデ・ヴァイスとは《真赭の頤》の弟子なのではないのか?
何より《真赭の頤》はマーリン正教会でも大賢者と言われる三聖に次ぐ地位にある者だと聞く。その高い位にある者が、いくら上席と言えども自ら「駆け出し」と称する若き一賢者に対してあそこまで敬う態度をとるとは一体……。
実のところ、二人の関係はどうなっているのだろうか?
アプリリアージェがそう思った時、エルデがある行動に出た。《真赭の頤》の前で正座をしたのだ。さらに頭を下げた。
「頼む。この通り」
「そのような事はなさらないで下さい」
それを見たシグは慌てた様子で自分も正座をした。
「なあ師匠。もう終わりにしてもええんと違うか?」
「何をおっしゃいます。それでは我々が長きにわたって守ってきたものがすべて無駄になります」
「無駄とは言わへんけど……。ほんの十年ほど前に時間が戻るだけの話やろ? ただそれだけのことや。もともとウチはすでにこの世には存在してないはずのモノやったんやし」
「だが、あなたはもうここにこうしていらっしゃるのです」
「ウチの気持ちをわかってほしい。後生やさかい」
「その少年の代わりなど幾らでもいますが、あなたの代わりはもういないのです」
「その物言いはよせ」
「よしません。冷静にお考え下さい。ようやくこれで」
「せやから! ウチはもともとこの世におらへんかった。それでええやないか!」
アプリリアージェ達は師と弟子という通り一遍の価値観を、どうやら再構築しなければならない事に気付き始めていた。少なくともエイルとシグの関係は彼女の価値観の範囲を逸脱していた。
『師匠にかけられた呪法を解いてもらう』
そうエルデは言っていた。
だが二人の間で交わされた会話にはそれ以上の意味合いが込められているのは確かだった。《真赭の頤》ことシグ・ザルカバードがエルデの師と言えるのであれば、であるが。
「師」であるシグは弟子の前で困惑の表情を浮かべて何度も首を左右に振り、弟子はそれでも強く何かを懇願していた。あれほどなりふり構わない様子の賢者エルデ・ヴァイスを二人とも初めて見た気がした。
ノルンと呼ぶ不思議な精杖を足もとに投げ出し石の床の上に正座して、さらには両手まで突いて……。
視界の悪い巨大なスフィアのようなものに閉じこめられてはいても、耳のいい風のフェアリー達には二人の会話は概ね聞こえていた。聞こえていたからこそ余計に混乱していた。
視界は水面を通して見るように時折揺らめいていたが、それでも伝わる空気からエルデの心の表情が手に取るようにわかる。
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