第六十九話 リリアのルーン 4/4

 思えばエルデにしてもエイルにしても、落ち着いてラシフと二人きりで話をした記憶があまりない。雑事に明け暮れていたラシフにはもとより時間がなく、目を覚ましたエルデもラシフ同様に結構多忙だった。里の豊富な備蓄薬材を使い、手が空いているジャミールのハイレーン達を集めて里人の為の常備薬の調合・作成の指揮を執っていたのだ。

 結局、二人が顔を合わせるのは食事の時間くらいだった。そしてもちろんその場は二人だけというわけではない。


「向こうに着いたら、家を建てるつもりだ」

「え? ああ」

 ラシフは突然話題を変えた。

「ここと違って、一年中暖かな場所らしい」

「らしいな」

「気候が良いのなら質素な家でよいと思っていたのだが、実は皆にわがままを言って、一部屋余分に作ってもらうことにした」

 エルデにはラシフが何を話そうとしているのかがわからなかった。だから黙って話をきいた。しかし、ラシフはエルデが考えるよりもくせ者だった。

「それがどういう意味かわかるか?」

 そうやっていきなりわかるはずもない質問をしてきたのだ。

「え?」

 ラシフはしかし、エルデに回答を期待してたわけではなかった。

「ニブいヤツだな。それではこの先、とうてい若い女子(おなご)にはもてまいて」

「わ、悪かったな。ほっといてくれ」

 エルデは思わずムッとしてそういったが、ラシフはそれに反応しなかった。

 その代わりにエルデの背中に回した腕に力を入れ、強く抱きしめると自分の頬をエルデの頬に重ねた。その様子に誰もが小さく驚きの声を上げた。

 族長ラシフ・ジャミールがそんな行動をとるのを見るのは初めてだったのだ。

 びっくりしたのはエルデも同様だった。だが、その次の一言にはもっと驚いた。

「一緒に来ぬか? アトラックもおる。我らと向こうで暮らさぬか?」

「え?」

 ラシフの声は明らかに鼻声になっていた。族長のそんな声を聞くのもこれまた多くの里人にとっては初めてのことだった。

「私はお前のことが大嫌いだ。里はお前のおかげですっかり変わってしまった。そもそもこの里を失うた」

「……」

「それだけではないぞ。お前は私の事もすっかり引っかき回してしまった」

「……」

「私はお前に会うまであんなに腹を立てたことはなかった。私はあんなに悔しい思いをしたことはなかった。だが、あんなに爽快な気分になったこともなかった」

 エルデの顔のすぐ横に、ダーク・アルヴの褐色の頬があった。そしてその頬はもうすでに涙で濡れて、それはエイルの頬をも同時に濡らしていた。

「わかっておるのか、この小童め。私はお前と別れとうないと言っておるのだ」

 ラシフはそういうとエイルを抱いた腕にいっそう力を込めた。

「増やした一部屋はお前の為の部屋だ」

「あ……」

「お前専用の家を建てるほどの余裕はない。だから部屋でがまんせい」

「でも、ウチは」

「わかっておる。お前にはお前のやるべき事があるのは、端(はな)からわかっておる」

 寂しそうなラシフの言葉に、エルデは小さく頷いた。

「うん」

「だが、寂しいのだ。お前と別れるのがこんなにも辛いのだ。こんな気持ちも……初めての事だ。私をこんな気持ちにさせるお前はいったい何者だ?」

 エルデは目を閉じた。もう、まぶたを開けていられなかった。ラシフのそのあまりに無防備な心は鋭い楔のように、エルデの心の深くに届いていた。

 エルデは少しためらったが、両手をラシフの細い腰に回すと、ゆっくりと力をいれた。ラシフは自分がエルデにしっかりと抱きしめられたことを感じると、思わず小さく嗚咽が出た。

「だから、無理は言わん。その代わり、お願いだ。やるべき事が終わったら必ず里に顔を見せてくれ」

 完全に涙声になっていたラシフのその言葉は不明瞭で、少し離れた里人の耳にはもうとどかなかった。だが、それでも里人達は肩を震わせている自分たちの小さな、そして大事な族長を優しく見守っていた。

「二つで揃いの妖剣の一方をお前に託したのは、あの揃いの妖剣はたとえ離れても必ずもう一度出会うという言い伝えがあるからだ。だから、必ず新しいジャミールの里に来い。そして色々な話をしよう」

「うん。そうやな」

「お前に聞いて欲しい話がたくさんある。いや、向こうに行けばもっともっと増えるだろう。お前達には聞かせられないようなアトラックの恥ずかしい話もルーチェから山ほど仕入れておく」

「そいつは……めっちゃ楽しみやな」

「その時は、お前の話もたくさん聞かせてくれ」

「わかった」

「だからそれまで、くれぐれも息災であれ」

「族長こそ……もう歳やねんから、今回みたいなことして俺に心配かけさせんといてくれ」

「年寄り扱いするな。私はまだ若い。それにダーク・アルヴは長命だ。ピクシィが心配することではないわ」

「そうやったな」

「だが、できれば出来るだけ早く来て欲しい」

「うん。必ず行く」

「そうか。なんなら来週でもいいぞ。それが駄目なら来月でもいい。それが駄目なら……」

 エルデはたまらなくなってラシフを抱いた手に力を入れた。

 ラシフの言葉はそこで途切れ、また一つ嗚咽が漏れた。

「すまぬ。もう駄々はこねぬ」

「うん」

「そうだ、忘れておった。最後にもう一つだけ言わせてくれ」

 エイルは頷いた。というのも、実のところエルデはもう言葉を出せなかったのだ。声を出して、自分がどういう状態なのかを知られるのが嫌だった。

 ラシフは改めてエルデの体に回した両腕に力を入れると小さくため息をつき、黒髪に埋まった耳元に口を寄せて短い言葉をつぶやいた。

「ありがとう」

 そして一瞬ためらった後に少し体を引くと、エルデの濡れた頬に小さく口づけ、もう一度ささやいた。

「本当に……ありがとう」

 その言葉を聞いたエルデは、離れようとした小さなぬくもりを思わず引き寄せると、その体を再び抱きしめた。

「会いに行く。ウチの方こそ、おおきに、や。大事にするわ、このマント」

「うむ……。うむ……」

 ラシフの言葉は、しらずしらず暖かい掌で心を包まれるようなぬくもりをエルデに与えていた。どこかしら懐かしい、そして大切な気持ちで満たされるような気がしたのだ。すでに熱くなっていた目頭から涙があふれているのがわかった。だが、頬を濡らしているのはほとんどラシフのものだった。

「必ずだぞ?」

 そう言って念を押すラシフはエルデに抱かれて泣いていた。自分もエルデの体を抱きしめながら。

「待っておる」

「うん」

「お前が私をこんなに泣かせたのだぞ? だから詫びを入れに来るのだぞ」

「うん」

「里人にこのようなみっともない姿をさらしたのもお前のせいなのだぞ?」

「うん」

「『うん』ばかりだな」

「うん」

「ばかたれ」

 それだけ言うと、ラシフはエイルの胸に顔を埋め、今度は声を上げて泣き始めた。

「ばかたれ……」


「リリアさん、秘伝のルーンって言うのは、まさか」

「まさか、ですよ」

「ですか」

「ルーンとはもともとは思いがこもった言葉だそうです。であれば、あれも立派なルーンでしょう? 言葉は思いを伝えるもの。簡単な言葉ほど、純粋な気持ちが強くつたわるのだと思いませんか?」

「まあ、そういうものですかね」

「そういうものですよ。でも」

「え?」

「今回はそれさえも、蛇足だったようですね」

 アトラックは改めて目の前の二人を見守った。そのアトラックの手を、ルーチェが黙って握りしめた。


「嘘つきめ」

 別れ際に、ラシフはアプリリアージェにそう言った。

「おいおい泣いたのは私の方ではないか」

「あらあら」

 アプリリアージェはそう言っていつもの微笑でこう答えた。

「私は『おいおい』泣かせる方法を教えるとは言いましたが、『エイル君をおいおい泣かせる方法」とは言ってませんよ」

「詭弁にもほどがある」

 ラシフは憤慨したようにそう文句を言ったが、アプリリアージェはにっこりと笑って首をかしげて見せた。

「でも、エイル君も泣いてましたよ」


【泣いてへんわ!】

『嘘つけ!』


 別れの時がやってきた。

「達者でな。また会おう」

 エルデのルーンが効いたのだろう。すがすがしい顔をしたラシフが短くなった髪を翻した。

「言い忘れたけど!」

 ラシフの後ろ姿を見たエルデは思わずその背中に声をかけた。

「なんだ?」

 そういうとラシフは立ち止まったが、背中を向けたままだった。

「長い髪も綺麗やったけど、その髪型も似合ってると思う。少なくとも俺は好きやで」

 ラシフは無言だった。イブロドがそっとその族長の横に寄り添った。

 背中を向けたままでラシフは小さく手を挙げると、ゆっくりと歩き出した。

 ラシフの表情はわからなかったが、一つだけ確実な事があった。アトラックの先導でジャミールの一族が踏み出した一歩は、歴史的な第一歩であると言う事を。


 

 エイル達は最後尾をつとめるラシフの姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。

 エルデは無言で、何度も何度も振り返るラシフの顔をまぶたに焼き付けていた。


「殺されかけた相手だというのに、エイル君達はすっかりラシフ様のとりこですね」

 ラシフの姿が見えなくなってもまだぼうっと立っているエルデに、アプリリアージェが嫌みとも言える言葉を投げた。

「そろそろネスティがヤキモチを焼きそうですよ?」

「え?」

 エルデはアプリリアージェの視線をはずしてエルネスティーネの方を見た。だが、エルネスティーネもエルデと同じように消え去った森の入り口をじっと見つめていた。

「みんな、無事に着くといいですね」

 一行の視線に気付いたエルネスティーネは、そう言って微笑むと、当たり前のようにすっとエルデの隣に寄り添った。


【そろそろ代われ】

『やだよ』

【代わらんとキレるで。泣くで? 叫ぶで?】

『おいおい』


 アプリリアージェはエルネスティーネのその様子を見て可笑しそうに小さくクスっと笑うと、瞳髪黒色の少年の肩をポンっと叩いた。

「さあ、そろそろ私達も出発しましょう」

 

 シルフィード王国のファルンガ地方南東の温暖な海岸沿いに「アアク」という小さな町がある。

 そこの住民にはジャミール姓が多く、カラティア家の血を受け継ぎ、歴史上何人もの賢者を排出した一族の町として伝えられている。

 町の人々の多くは果樹の栽培や漁業で生計を立てているが、特産と呼べるのはやはりその美しい織物で、特に金布と呼ばれるつやのある見事な黄色の布は「ジャミールの金」と呼ばれ、珍重されている。町の周りにはその布を染めるための染料となるクチナシの群生があり、「クチナシの町」とも呼ばれる。

 また、檸檬の栽培も盛んで、量は多くないものの、その香りの高さはファランドールでも一、二を争うと言われている。

 町の歴史は比較的新しく、『月の大戦』の直前に開墾によって作られた町だという。当初、人口の多くはダーク・アルヴで、町の行事には今でもその頃の名残が残っている。

 普通の結婚式とは別に年に一度、黒の六月に執り行われる「合同婚儀」は秋の収穫祭を兼ねた盛大なもので、遠くに住むアアク出身の人間がわざわざ駆けつける事もめずらしくない。式の進行は町長の役目で、黄色い民族衣装を纏った町長の前で、夫婦はそれぞれ長く伝えられている誓いの言葉を口にする。

 町史を紐解くと、そこには初代町長としてラシフ・ジャミール、翌年就任した二代目にはルーチェ・ジャミールの名を見つける事ができる。ルーチェ・ジャミールの任期は二十年に及び、それを継いだ三代目の町長の名はファーン・ジャミールである。

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