第六十六話 守るべきもの 3/3
顔からゆっくりと血が引いていくのを感じながら、ラシフは自分を真っ直ぐ見つめるイブロドの顔に昔の出来事を重ねていた。
それはメリドがイブロドの夫になった頃のことだった。メリドはルーナーとしての資質は低い。ラシフは、ルーナーとして、より力のある男と娘を一緒にさせたかったのだ。その思いを裏切られたように思ったラシフは二人の婚儀に反対した。
目の前の娘の表情はその時の事を言いたいのだろうと理解した。ラシフは自分の過保護振りを十数年ぶりに、しかも同じ娘に指摘されたようなものだった。
「ルーチェ」
孫に呼びかけるラシフの声は普段の調子に戻っていた。
「はい」
「お前は次期族長に決まっておる」
「こ、心得ております」
ルーチェは顔を上げて、現族長にそう答えた。案の定顔は見たこともないくらい真っ赤で、その緑色の目は恥ずかしさと興奮の為か、涙で少し潤んでいた。
ラシフはチラリとアプリリアージェの顔を見た。ムダだろうとわかりつつも顔色に変化がないか探ろうと思ったのだ。だが目が合ったアプリリアージェはラシフに向かってゆっくりと頭を下げて見せた。
表情がわからないどころではない。ラシフは言葉以上の思いを投げかけられた事を、いや、投げかけられてしまった事を思い知った。
そしてそれは大きな意味での「命」なのだと言うことも。
「婿殿は優しくしてくれるか?」
ラシフは視線をルーチェに戻すとそう問いかけた。
「ばばさま……」
「乱暴な男にろくなヤツはおらんのだぞ」
「いえ」
ルーチェは少し戸惑ったあと、アトラックの方を一瞬見て
「とても優しくしてくれます」
小さくそれだけ答えると、再びうつむいた。
「そうか」
ラシフは優しい声でそういうと、孫の近くへ寄り、その頭をそっと撫でてやった。
「元気な子を産むのだぞ」
『なんか、ものすごく生々しい会話だと思うのはオレがフォウの人間だからか?』
【空気を読め。と言うか黙っとけ!】
『怒るなよ』
【そんなことより、これで外堀は埋まってもうたな】
『え?』
【アトルとはここでお別れやっちゅう事や】
『あ……』
「さて、アトラック」
アプリリアージェの呼びかけにアトラックは直立の姿勢のままで……しかし無言だった。
「あなたの守るべきものは私と行く道の先にはありません」
「ですが」
「ティアナは命をかけてネスティを守るでしょう。ファルケンハインは全霊をかけてそんなティアナを守るでしょう。私も風のエレメンタルに命を捧げることは以前から決めたとおりです。では、あなたの守るべきものは?」
「お願いです、司令」
「人は、守るべき物のために生き、守るべき物のために死ぬことこそがその本懐です」
「……」
「ルーチェは大事な存在ではないのですか?」
「……」
言いよどむアトラックに、アプリリアージェは助け船を出した。
「なるほど、ちょっとしたつまみ食いだったんですね」
「断じて違います!」
それはその場の誰もが満足する回答であったろう。アプリリアージェはにっこりと笑いかけた。
「では、もう答えは決まっているではありませんか。今はあなたの人生で一番素直にならねばならぬ時なのですよ」
「……」
アプリリアージェの言葉に、アトラックは沈黙した。
一同は言いようのない緊張で、沈黙が破られるのを待った。アプリリアージェはもう言葉を重ねようとはしなかった。次に言葉を告げるのはアトラックなのである。
ここでアトラックがルーチェを選ぶのか、敢えて風のエレメンタルの護衛役を選ぶのか。
だがおそらく、沈黙を一番長く感じていたのはルーチェであろう。次期族長が里人全員を捨ててアトラックと共に旅に出ることは出来ないのだ。つまりそれは別れを意味する。もちろん、ルーチェとてわかってはいたが、考えようとしなかった事であった。
「ルーチェは、物凄く大事です」
沈黙を破ったアトラックのその言葉で、ルーチェが弾かれたように顔を上げた。
「ルーチェの為になら、死ねますか?」
アプリリアージェのこの問いに、アトラックはもう躊躇しなかった。
「喜んで」
そして、アプリリアージェの前で直立してから、初めてルーチェの方へそっと顔を向けた。アトルと目が合ったルーチェは思わずラシフの顔を見上げた。ラシフは苦笑すると孫の背中に手をやってそっと押した。
もちろんルーチェはその場を飛び出し、アトラックは薄い黄色の固まりが自分に向かってぶつかってくるのを視界の端に捕らえることになった。
ジャミール族の民族衣装を纏った金褐色の長い髪のダーク・アルヴの少女は、大柄なデュナンの胸に飛び込むようにして抱きついた。
アトラックは少し戸惑っていたが、意を決したようにその守るべきものを自らの手で抱きしめた。
それを見ていたアプリリアージェは海軍式の最敬礼をすると、明るく声をかけた。
「今まで本当にご苦労さまでした。アトラック・スリーズ特佐」
「し、司令……」
「シルフィード王国軍、海軍中将、アプリリアージェ・ユグセルの名において、今ここにあなたの任を解きます」
「くっ」
「私はあなたのような部下を持った事を生涯誇りに思います。あなたには何度も命を救われましたね。心から感謝しています」
「そんな、俺こそ」
アトラックはこの時にはもう悟っていた。自分に懐いてくるルーチェの真っ直ぐな緑色の瞳に惹かれ始めた時に、この別れは決まっていたのだということを。
いや。
アトラックは小さなルーチェの体温を感じながら苦笑混じりのため息をついた。
(俺がジャミール行きの提案をした時に、別れが決まったんだな)
「良い話だな」
今までじっと成り行きを見守っていたアキラがぽつんとそう言った。
「二人を祝福して一曲奏でたいところだが、昨日の今日だ。それは少し遠慮しておこう。しかし、もし事情が許せば出立までに機会を設けてもらいたい」
エイルはその言葉を聞いて横にいるエルネスティーネの様子を見た。だが予想に反してエルネスティーネは柔らかな微笑を浮かべてアトラックとルーチェを見守っていた。
「何でしょう?」
エイルの視線に気付いたのだろう。顔を上げたエルネスティーネと視線が絡まったエイルは慌てて目をそらした。
「いや、寂しくなるなと思って」
「そうですね」
エルネスティーネはうなずいた。
「でも、まだエイルもティアナもファルもいます。リリアさんも」
「うん」
「それに、生きていればアトルにだってまた会えます」
エイルはその言葉に絶句した。
「ネスティ……」
気の利いた言葉を探そうとしたが、エイルはあきらめた。エルネスティーネはそのエイルの手をとるとぎゅっと握りしめた。
「エイルは、私を守ってくれますか?」
「え?」
「私はエイルといると悲しさや辛さが消えていくのです。側に居てくれると、とてもいい気持ちになります。だからこの先もずっと……」
「もちろん、一緒にいるさ。アトルの分まで」
「嬉しいです」
とっさにそう答えたエイルだが、エルデは何も言わなかった。
寄り添うようにして体重をエイルに預けてきたエルネスティーネは、エイルを見上げて耳元でささやいた。
「今度合う時はきっとアトルは父親ですよ」
「……」
エルネスティーネが告げた父親という言葉に、エイルは思わず体を固くした。
「エイルは私に気を遣いすぎです」
「いや、つかうだろ、普通、こんな時は」
「大丈夫です。本当の事を言うとまだ泣いてしまうかもしれませんが、それでも私、結構強い方ですから。それにこうしているとなんだか安心します」
腕を抱きしめるようにしたエルネスティーネは、そう言ってにっこりと微笑んだ。
エイルはいったいどう答えていいものやらわからず、ただ唇をかんでいた。
「こうなると二人を引き合わせてくれた《群青の矛》、いえファーンには感謝しないといけませんね」
「そうですね」
アプリリアージェの言葉に、アトラックは素直にうなずいた。
「女の子が出来たら、ファーンという名前にしますよ」
アプリリアージェはアトラックの軽口ににんまりと笑って見せた。
「この先もしファーンに出会う事があったら、伝えておきます。それに彼女にはこの件では私からも言っておきたいこともありますしね」
「言っておきたい事、ですか?」
「おかげさまで私にとって掛け替えのない人材を一人失いました。手足をもがれたようなこの痛みをいったいどうしてくれるんだこのガキめ……ってね」
「司令……」
そう言ったアトラックの声は、鼻声になっていた。いや、もう聞き取りにくいほど言葉はつまっていた。
「そのお言葉……このアトラック……一生涯の誇りと……させていただきます」
大事な人がそう言った後、ルーチェは額と髪に暖かいものが落ちるのを感じた。
「アトル……」
ルーチェはそういうと、その顔をさらに深く埋めた。
暖かく、大きな胸に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます