第六十六話 守るべきもの 2/3
「それに、アトルは見ていたでしょう? 私はもう面を捨てました。すなわち『白面の悪魔』はこの世に二度と現れることはないのです」
そう言われてアトラックは思い出した。ラシフの前でアプリリアージェはエルデに白面を焼いてもらっていたのだ。
あの行為にいったいどういう意味があるのかをアトラックは考えてみた。
今この時点でうがった考えをするならば、アプリリアージェはあのときすでに今の状況を見越していたと言えなくもない。それは夕べの不穏な発言にも絡んで、アトラックを急に不安にさせた。
「ですから」
そんなアトラックの心中を知ってか知らずか、再び目を細めてエイル達を見ながらアプリリアージェは告げた。
「これからは『笑う死に神』一筋で行くことにします」
「は?」
アトラックはいつもの事ながら、アプリリアージェの言葉の意味をはかりかねた。
「『一筋』って……ええっと」
「これからは私は自分の意志で行動するという事です。『笑う死に神』として」
その言葉でアトラックはようやく合点がいった。
アプリリアージェにとって、白面は「軍人」としての象徴のようなものだった。作戦指揮を執る時、ユグセル中将は必ず白面を着用していた。その白面を捨てると言うことは軍人としてではなく個人として、兵士ではなく戦士として行動すると言う事を決めた自分に対するけじめのような行為だったに違いない、と。
だが。
「まだわかりませんか? ルーチェと一緒にファルンガに行ってもいいですよと言っているのですよ?」
「はあ?」
アトラックはそう叫んで思わず席を立った。もちろんその場にいた全員が驚いてアトラックとアプリリアージェの方を見た。
「どういう意味です、司令……じゃなかったリリアお嬢様」
「その『お嬢様』も、もうなしにしましょう。これからは、そうですね、あのファーンを見習って『リリアっち』でお願いします」
「ふざけないで下さい!」
アトラックは両手で卓を叩いた。奇しくもそれは昨夜のアプリリアージェと同じ行動だった。
「そうですか、残念です。では、『リリアさん』でいきましょう。ファルもティアナも、いいですね?」
「そうじゃなくて!」
「どうしたんだ、アトル?」
普段と様子が違うアトラックを見かねて、ファルケンハインが声をかけた。
「いえ……すみません、さすがにちょっと興奮してしまって」
アトラックはうつむくと一つ深呼吸をした。それで幾分落ち着いたのだろう。今度は直立の姿勢でアプリリアージェに向かうと努めてゆっくりとした口調で皆に聞こえるように質問した。
「今の言葉はたとえ『リリアさん』といえども聞き捨てなりません。シルフィードの人間として、アトラック・スリーズとしての矜持にかけて納得の行くお返事をいただきたく」
アプリリアージェはそれまで平然と微笑みながらスープを口に運んでいたが、アトラックがきちんと直立した時点でスプーンを置いて、立ち上がった部下の顔を見上げた。
「ずいぶん立派になりましたね、アトラック」
アプリリアージェは、アトルとは言わず、スリーズ特佐でもなく、『アトラック』と呼びかけた。
「はじめて会った時はまだオシメもとれていなかったのに」
「恐れながら、ル=キリア配属時には確かオシメはとれていました。誤解されるといけませんので訂正して下さい。……と言うか、もう一度言います。ふざけないで下さい」
アプリリアージェは苦笑すると「ごめんなさい」と謝った。そして全員が注目する中でゆっくり立ち上がった。
『何が起こるんだ?』
【俺に聞くな。見てたらわかるやろ】
『そうだけど』
「この先、私といると死にますよ」
「なんだ、そんなことですか」
アトラックは『笑う死に神』という言葉をアプリリアージェが持ち出した理由を察した。だが、意味はわかったが納得はできない。
「覚悟など、とうにできています」
「同胞に殺されても納得して死ねますか?」
「え?」
「この先、風のエレメンタルを守るためなら、私はあなた達を平気で見殺しにする事を決めたのです。もちろん、賢者エイル・エイミイの呪法を解くまでは守るべき対象が二人になるわけですが」
「もとより承知」
「わかっていませんね。私は自分の意志通りに忠実に動く手駒しか要らないのですよ。『私を守るために盾になって死ね』と言われたら迷うことなく忠実に従う僕(しもべ)しかいりません」
「俺は今までもそういう心づもりでしたし、これからも変わりません」
アトラックがそう答えるとアプリリアージェはイライラしたようにあからさまにため息をついた。部下との会話で上司がそんな態度をとるのもアトラックには初めての経験であった。
アプリリアージェは険しい顔で自分を見つめるアトラックから視線を外した。
「ラシフさま」
「な、なんだ?」
急に矛先が自分に向いたラシフは驚いて思わず声をうわずらせた。話の展開にまったくついていけず、ただ呆然と成り行きを見守っていただけなのだから。
「ルーチェはもう成人していると聞きましたが、間違いありませんか?」
「あ、ああ。それは間違いないが?」
ラシフはそういうと隣に座っているルーチェと顔を見合わせた。
「それはルーチェはもう結婚出来るという理解でよろしいのですか?」
ラシフとルーチェは再び顔を見合わせた。……が、ルーチェの方は何かを思いついたようで、顔を真っ赤にするとうつむいてしまった。
そんなルーチェの様子を妙だとは思いつつも、ラシフはアプリリアージェの方に向き直り、うなずいた。
「そういうことになるな」
「ルーチェには許嫁でも?」
「いや」
ラシフは首を横に振った。
「結婚に関してジャミールは昔ながらのダーク・アルヴの風習そのままじゃ」
「というと?」
「男は心通わせた相手のもとに通うのじゃ。女が閨(ねや)の窓を開けてそれを受け入れればよし。あとは女の親が認めれば正式な婚礼の儀式を執り行える」
「認めなければ?」
「正式な婚儀はできん。だが親も成人の結婚に口出しはできん。それも子が生まれれば族長の名のもとで正式な婚儀が執り行われる事になる」
アプリリアージェはうなずいた。
「ルーチェはもう自室を?」
「もちろんじゃ。成人したダークアルヴの娘は夫となる者を迎えるべく扉のある自室を与えられるのがジャミールの風習じゃ」
ラシフの回答を受けて、返事の代わりにアプリリアージェはにっこりと笑った。そして改めてアトラックに向き合い、視線を再び絡ませると、部下の名を呼んだ。
「アトラック」
「はい」
「夜な夜な迎賓殿を抜け出す人影がいるのを私が知らないとでも思いましたか?」
「!」
にっこりと笑いながらそういうアプリリアージェの前に直立して立っているアトラックの顔は上気し、その額には汗がにじみ出ていた。
『えええ?』
【び、びっくり仰天や】
『昨日も、かなり仲が良さそうだなあとは思ってたんだけど、まさか』
【ウチらが一週間眠りこけてた間にそんな桃色な出来事があったとはな。おちおち寝ても居られへんな】
『桃色って……』
「ちょ、ちょっと待て」
その場で一番うろたえたのはラシフだった。アプリリアージェの発言は彼女を嵐の大海原へ放り込んだような形になった。
「あらあら、そのご様子では『ばばさま』はご存じなかったのですね?」
アプリリアージェはいつもののんびりとした口調でそう言ったが、ラシフはそれに反応する余裕すらなかった。
「き、聞いておらん。ルーチェ!」
ラシフはすっかり頭に血が上っていた。
もちろんルーチェがアトラックに懐いているのは彼女自身も知っていた。
だがまさか……。
ラシフに呼びかけられても、ルーチェは耳まで真っ赤にしてうつむいているだけだった。
それを見たラシフは矛先を変えた。
「イブロド!」
「はい」
声がかかることをすでに予想していたのだろう。イブロドは意外に落ち着いた声で返事をした。
「お前は知っていたのか?」
「もちろんです、母上」
イブロドは少し間を置くと、そう答えた。
『ラシフ様』ではなく『母上』と。
ラシフは娘のその態度を見て頭から血が噴き出しそうなほど興奮した気持ちをなんとか抑えることに成功した。孫の方はうつむいていて比較ができなかったが、おそらくその時のラシフの顔はルーチェよりも真っ赤になっていたにちがいない。
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