第六十四話 初めての料理 3/5
「お待たせしました。どうぞ召し上がれ」
エルネスティーネはエイルのすぐ横に来ると正座をして盆を床に置いた。
そこには木でできた椀に入った白濁した液状の物が入っていた。
「え?」
盆の上に載っている料理らしきものはそれだけだった。
不満そうなエイルの顔をみて、エルネスティーネは苦笑しながら説明した。
「イブロドさんが言うには、一週間も何も食べてないのにいきなり普通の食事は体に悪いそうです。と言うことで、これを作りました」
エルネスティーネのいう「これ」が一体何なのかがわからないエイルはなんと答えてよいものか迷っていた。ただ空腹は切実で、正直言ってそれなりの量を腹にいれたかったのだが、イブロドの言うことももっともだと思い直し、ここは素直に従った方がいいと判断した。
エイルは納得することにしてさっそく盆に手を伸ばしたが、その手を途中で止めた。
匙がない。
「えへへ……」
その様子を見て楽しそうに笑うエルネスティーネを見ると、その手には木でできた匙が握られていた。
「え?」
驚いた顔をしたエイルに、エルネスティーネはきっぱりと言った。
「病み上がりのエイルはじっとしていて下さい。これは私が食べさせてあげます」
「いやいやいやいや」
エイルは後ずさりしながら、匙を持つエルネスティーネの指を見ていた。
『おいおい、さすがに』
【ふん、まんざらでもないくせに】
『ンなことはない。そうだ、じゃあお前代わってくれ』
【ヤだ】
『というか、病み上がりじゃないんだけど』
「はい、あーん」
エルネスティーネはドロリと白濁した流動体を椀からひと匙すくうと、上気した頬をふくらませてフーッと息を吹きかけて熱を冷ました。
「あのさ」
「何です?」
食べさせようとしたのに手を出して止められたエルネスティーネは、ムッとしてエイルをにらんだ。
「それ、いったい何?」
「見ての通り白濁した流動食です。名前は聞き忘れました」
「『流動体』じゃないんだな」
「え?」
「いや、食べ物なら、いいんだ」
「味見をさせてもらいましたが、優しい甘さが何とも言えず、喉をするんと落ちていく感じが快感でした。見た目はこんなですが、意外においしいですよ」
『ああ、しまった……謎の食べ物に対する恐怖が先に立って、突っ込むべき所を間違った』
【観念したらええんちゃう?】
『なんか冷たいな、お前』
【フンっ】
『それよりお前、気付いたか?』
【ああ。ネスティの指先やろ? お嬢様然として綺麗やったのに、なんや結構手荒れしてるな】
『さすが、エルデだな』
【お前さんが気付いて俺が気付かへんとか、あり得へんから】
『はいはい』
【そこにたたんで重ねてある布も、今まで選別して畳んでたんとちゃうかな。一段落付いたから、マナちゃん相手に息抜きでもしてたっていうとこかな。そもそもジャミールの作業着姿といい、なんかあるな】
『ああ。ってあれは作業着だったのか?』
【みたいやな】
『ジャミールの人たちの服装って、なんか作業着まで優雅だな』
【それについては同意やな】
「じゃあ、はい。あーん」
気がつけばエルネスティーネの顔は息がかかる距離にあった。
エイルはほんの少し躊躇したが、自分とエルネスティーネ以外に周りには誰もいないことに気付くと、観念したように目を閉じて口を開けた。
「はい、どうぞ」
口の中に差し入れられたスプーンをくわえると、その中の『白濁した流動食』をおそるおそる飲み込んだ。味覚がないとどうやら食感も鈍くなるようで、いったいそれがどういうものなのかがわかりかねたが、とにもかくにもその得体の知れない『流動食』は、エスネスティーねの言うとおり、するりと咽の奥に落ちていった。
『なあ』
【うん?】
『聞くけど、胃の調子なんかお前のルーンで簡単に回復できちゃうんだろ?』
【もちろん】
『だったら』
【いや、今はやめとこ】
『何でだよ? オレ、ちょっと……いや、かなり困ってるんだけど』
【ネスティのその顔を見たら、何となく邪魔するんも悪いかなあって】
『はあ?』
【ま、ちょっとの間の辛抱や。というかやな、一国のお姫様に「あーん」ってしてもらえるなんて、フツーはあり得へんで。いや、多分普通の姫君というヤツは結婚相手にもそんな事はせえへんはずや】
『へいへい、そりゃもう光栄ですとも。オレはこれを一生の思い出にして、墓の中までもって行きゃいいんだろ?』
【そやな、ただし!】
『え?』
【許すんはここまでや。これ以上の甘えすぎは御法度やで】
『なんだよ、それ』
【この後、『膝枕でしばらく休んでください』とか言われても毅然とした態度で断らなアカンっちゅう事や】
『お前、結構妄想派だな』
【誰がや!】
エルネスティーネは次の一口を同じように冷ますと、本当にうれしそうな笑顔でまた「あーん」と言ってエイルの口を開けさせた。
「白い粉のような物を椀に入れて、イブロドさんが何かの果物の皮を何種類か粉にしたものを少し加えた後に、熱湯を注いで手早くかき混ぜたものです。私も初めて見ました」
「なるほど」
エイルはそれを聞いて『白濁した流動食』の正体がなんとなくわかった。彼に残るフォウの記憶は重要な事に関しては曖昧だが、どうでもいいような事柄については意外に鮮明に残っていた。
『葛湯か』
「私、お湯を注いだんですよ。初めての料理は本当に緊張しました」
「お湯を?」
「ええ」
「……」
それを料理と言っていいのか? と言う言葉が、思わずのど元まで出かかったエイルだが、エルデの言うように確かに『こんなにいい顔をされたら何も言えない』と思わざるを得ない笑顔が目の前にあった。
少し上気したエルネスティーネの笑顔はそれほど幸せそうだった。
その笑顔を見て、エイルはエルネスティーネの二つ名を思い出していた。
『シルフィードの宝石』
エルネスティーネはそう呼ばれていたと言う。おそらくそれはこの笑顔に対して付けられたものなのだろうと、この時エイルは思った。
【葛湯?】
『フォウ、というよりオレの国では昔からある流動食さ。葛の根からとる澱粉で作るんだけど、葛は高価だから普通の家庭じゃ芋なんかからとれる澱粉で代用する事が多いけどな』
【ほお。得体の知れんモンやないってことやな】
『そういうこと。ジャミールにちょっと親近感が生まれた』
【さっきの話やないけど、実は俺もけっこうこの里は気に入ったな。ラシフもからかいがいあるしな】
『お前、それは止めとけって』
エルネスティーネは何も言わずにエイルがどんどん食べるのが楽しくてしょうがないといった感じで、実に上機嫌で次々と匙を運んだ。
木の椀に半分ほど入っていた葛湯風の流動食はすぐになくなった。
「どうでしたか?」
最後のひと匙を飲み込んだエイルをのぞき込むようにエルネスティーネはそう声をかけた。
「香りもいいし、おいしいでしょう?」
「うん……」
「あ!」
困ったように言いよどんだエイルの表情を見て、エルネスティーネは笑顔を一瞬で無くした。そしてみるみる両の目に涙を溜め始めた。
「あ、いや、全然気にしないでいいから」
あわててエイルがそう言ってなだめたが、すでに涙はエルネスティーネの頬を伝い落ちていた。
「ごめんなさい。私、知っているはずなのにうっかり無神経な事を」
「いやいやいや、本当に気にしなくていいから。これ、食べやすくてよかった。えっと、その、ネスティに食べさせてもらったから、すごく楽しい食事だったよ」
「本当?」
エイルの言葉に、ネスティの顔がまた輝いた。
「本当だって。ちょっと照れくさかったけど」
「じゃあ、お詫びに夕飯も私に世話をさせてくださいな」
「え? いや、それはちょっと」
エイルが言いよどむと、ネスティの顔が曇った。それを見てエイルは即座にうなずいた。
「うんうん、是非よろしく」
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