第六十四話 初めての料理 1/5

 おだやかに雲が流れている。

 白い雲だ。

 ずっと遠くに見える地平線は、青と緑の二つの色を区切る為にだけ存在しているかのようだ。

 青い色は白い雲の背景になり、緑色は足もとまで近づいて、そよ風にたなびく風草にとなって後方に広がり行く。


 そして、この視点の中心にオレがいる。


 それだけだ。

 オレ以外には誰もいない。

 何もない。

 見上げればただ雲がゆっくりと流れ、頬を風がすり抜け、ざわざわと風草が波打つ。

 オレはそれをずっと眺めているだけだった。


 何のために?

 ここはどこだ?

 オレは……。


 オレは誰だ?

 掌を見る。

 だがそれは半分透き通っていた。

 時折向きを変える風に呼応して、そのたなびく方向を変える風草が作るうねりが掌を通してぼんやりと透けて見える。


 これは何だ?

 オレは……。

 オレはなぜこんな所にいる?

 いや、それよりも、

 オレの名前は?


(――お兄ちゃん)


 背後から、そう小さな声がしたような気がした。

 オレは迷わず振り向く。

 だが、そこにあるのは風草の海。その海の果てにある地平線。そしてまた青い空と白い雲。


(お兄ちゃん)


 よりはっきりとした声が、今度は頭上から降ってきた。

 見上げる。

 距離感がつかめないほど底抜けに青い空がそこにある。

 真上を向くと焦点を合わせるものがない。

 そして平衡感覚が悲鳴を上げ、オレは倒れそうになる。

 慌てて地平線に近いところに浮かぶ雲を見た。


 やはり声の主は居ない。


「ここにいるわ」


 今度は真横で声がした。その声はさっきよりずっとはっきり聞こえた。

 少女の声だ。


「お兄ちゃん、私よ」


 声のする方に顔を向けた。

 そこには右手があった。

 右手だけがあった。

 細い指をオレの方にのばしている。

「忘れたの?私よ、お兄ちゃん」


(お前は誰だ?)

 オレはそう言おうとしたが、声にならなかった。

 思わず首に手を当てる。

 だがそうしたところで声が出るわけではなかった。


(お前はオレを知っているのか?だったら教えてくれ。オレは誰なんだ?)

「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃない。何を言っているの?」


 声に出してはいないのに、少女は答えた。

 少女の手には細い腕が続いていた。

「思い出して。私のことを」


 少女はオレを『お兄ちゃん』と呼んだ。

 妹なのか?

(妹?)

「そうよ。お兄ちゃんの妹。思い出して」

 オレには妹がいる。

 名前は……。


「私の手を取って。お兄ちゃん」

(でも)

「大丈夫」

 少女は促す。

「大丈夫だから」


 オレは差し出された右手に、自分の右手を重ねるようにして、長く形のいい『妹』の指をそっと握った。

 ――ひどく冷たい。しかし、柔らかかった。

 

「それでいいわ。もっと強く握って」

(こうか?)

 オレは握った手に力を入れた。

 『妹』の手は少しだけ握り返してきた。

「ええ。そしてそのまま私を引っ張って、お兄ちゃん」

 オレは言われるままに握った手にさらに力を入れると、少女をぐいっと引き寄せた。

 すると、何もないはずの空中から、腕の先が現れた。

 腕の持ち主。

 やはり少女だ。

 白い薄衣を纏った、腰まである長い黒髪の少女。

 前髪は切りそろえられ、黒目がちの切れ長の大きな目でオレをじっと見つめている。

 それは、ぞっとするほど美しい少女だった。

 だが、少女の青白い顔色がオレは気になった。


「思い出した?」

 オレはうなずいた。


 妹だ。

 オレの妹。

(マーヤ)

「うん」

 少女はうれしそうに頷くと、にっこりと笑った。

 大人びた顔が笑うと、とたんに幼く見える。

 マーヤの不思議な魅力だと、オレは思う。


 ――兄バカなのかもしれないな。


「さあ、戻りましょう」

「戻る?」

 いつの間にか声が出ていた。

 マーヤはうなずく。

「ここはお兄ちゃんの居る場所じゃないわ。私との約束を忘れたの?」

「ああ……いや、忘れるものか」

 そうだ、マーヤとの約束があった。

「私にはあまり時間がないの」

 そうだった。

 こんな所でぼんやりしている時間はない。

「忘れるわけがないじゃないか」

 オレがそういうと、マーヤは満足そうにうなずいた。

「じゃあ、帰りましょう。目を閉じて」

「ああ」

 オレはマーヤに言われるままに目を閉じた。

 握りしめたマーヤの手は、いつの間にか温かくなっていた。

「目を閉じたら、自分の名前を言うの。いい?」

「わかった」

 オレはうなずいた。

「じゃあ、教えて。お兄ちゃんの名前はなあに?」

 オレは目を閉じたまま、小さく深呼吸をしてはっきりとした声で自分の名前を言った。


「オレの名は、エイル・エイミイ」




 そこでエイルは目を覚ました。

 暗い。

 暗いが、暗闇ではない。周りの様子がぼんやりとわかった。

 エイルはすぐに自分が布団部屋のような場所で眠っていた事を認識した。


『えっと、ここは?』

【お早いお目覚めで】

『エルデか』

【エルデか、はないやろ。一体どんだけ眠ったら気が済むねん、この寝坊助!】

『いや、ネボスケとか言われても……えっと、確か』


「そうだ!」

 エイルは声に出すと、がばとばかりに寝床から起き上がった。

『大丈夫だったのか? 古代ルーン、詠唱失敗したんだろ?』

【「失敗」やのうて「途中解除」と言うてもらおか。というか、大丈夫やなかったら、今頃こうして生きてへんやろ?】

『いや、まあ、そうなんだろうけど、その時のショックか何かで俺たち寝込んでたのか?』

【俺たち、やない。お前だけや】

『オレだけ寝込んでた?』

【そういうこと。まじめな話、今回はホンマに心配したわ】

『そうか』


 エルデはエイルに眠っている間のいきさつを、かいつまんで説明した。

 エイルは長く意識を失っていたとは思えないほど頭の中がすっきりしていて、エルデの話をすんなり飲み込むことが出来た。

『で、オレは何日くらい眠り込んでたんだ?』

【それはオレにもわからへん。そやから確認がてらリリア姉さん達に挨拶しにいこか。みんなも相当心配してたしな】

『そうだな』


 このときのエルデの眠りはいわゆる普通の眠りではなく、特殊なルーンを使った意識の閉鎖だった。新陳代謝を極限まで落として出来るだけ長く生命が維持できるようにしてあった。ファーンが使った「冬眠ルーン」と同じ系統のルーンである。

 おそらく目覚めたすぐ後にエルデのルーンによって覚醒されていたのだろう。意識は驚くほどはっきりしていたものの、体の方は言うことをきかなかった。

 ただでさえ「食らいの呪法」の追加発動により右目が見えない状態である。当初はまっすぐ歩くことすらままならない程であった。加えて極度の空腹の為に胃がむかついて、だんだん気分が悪くなってきていた。

 廊下を辿った突き当たりにある居間に相当する広い部屋には、エルネスティーネが一人でいた。床に座り込んだエルネスティーネの背中越しに小さな毛むくじゃらの玉のようなものが見える。エルネスティーネはどうやらマナちゃん相手に暇つぶしをしているようだった。

 エイルはそのアルヴィンの少女を見た時、はじめはそれがエルネスティーネだとは気付かなかった。ジャミールの里人と同じ平服を身に纏っていたからだ。そしてその服を纏った姿には、何の違和感もなかった。

 もとよりダーク・アルヴとアルヴィンは外見上は肌の色が違うだけの同種族である。黄色いリンゴと赤いリンゴのようなものだ。ジャミールの服は独特な意匠で作られているとはいえ、同じ種族がその長い文化で培った民族衣装である。アルヴィンのエルネスティーネに似合わないはずはなかった。


「エイルっ!」

 部屋の入り口で突っ立ったまま、ぼうっとエルネスティーネを眺めているエイルの気配に振り向いたエルネスティーネは、そこに懐かしい黒髪の少年の姿を認めると目を丸くして驚いた。そして手に持っていた大量のサラシのような布の山を放り投げて駆け寄ってきた。

「やっと起きたのですね」

 エイルには、短く切りそろえたエルネスティーネの髪が、記憶より心なしか伸びている気がした。

「うん」

「大丈夫ですか? 体は何ともないですか?」

「う、うん」


【うれしそうな顔したり、泣きそうな顔したり、忙しいやっちゃ】

『そうだな』

【ふーん】

『なんだよ』

【なんでもない】

『おかしなヤツ』

【おまえに言われとうないわ】


 エルデの言う通り、エルネスティーネはエイルの顔を見たとたんに顔を輝かせ、まるで何もなかった荒れ地にぱっと花が咲いたかのような笑顔を見せて飛んできたが、間近でエイルの顔を見ると、今度は眉根を下げ泣きそうな顔で何かを訴えるような表情になった。

「本当にもう大丈夫だよ、ネスティ」

 エイルは思わず苦笑しながらそう言った。

「良かった」

 エイルの言葉を聞いたエルネスティーネは安心したようにそういうと、何のためらいもなくエイルに抱きついてきた。

「お、おい」

 驚いたのはエイルの方だ。

「心配しましたよ。今日でもうまる一週間も眠ったままだったのですよ」

 訪ねるまでもなくどれくらい眠っていたのかがわかったが、そういうエルネスティーネの声は心なしか涙声だった。

「まさに『待てばカイロに火がついた』です」

「いやいや……」

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