第六十三話 前座

「猊下!」

 前屈みに椅子から崩れ落ちたアルヴィンの体を《菊塵の壕(きくじんのほり)》が慌てて抱き留めた。

 長い間眠ったように目を閉じて身じろぎもしていなかった《蒼穹の台》イオス・オシュティーフェが、突然弾かれたように椅子から立ち上がったと思ったら、そのまま倒れ込んだからだ。

「猊下、お体の方は?」

《菊塵の壕》シャレイ・カンフリーエは小柄なイオスを軽々と抱き起こすと、肘当て付きの頑丈な造りの椅子へ座らせた。イオスの意識はしっかりしてるようだったが、シャレイはここまで憔悴した様子の三聖の姿を見たことがなかった。


 そこは床も壁も天井も、すべてが岩で出来た部屋だった。天井は高く、ちょっとした町の中央広場ほどもあろうかという空間のほぼ真ん中に、緻密な木目が見る者の目を引く四脚の大振りの椅子が並べてあり、その右端にイオスは座っていた。

「いやはや、まんまとやられたよ。菊塵」

 イオスは目を閉じたままそういうと辛そうに体を折り曲げ、肘掛けに上体を預けるようにして一息ついた。

「と、申しますと?」

「僕の全エーテルの四割も割いて作った『エーテル体』がものの見事に消滅させられた」

 イオスの言葉にシャレイは息を呑んだ。

 彼はイオスの行動を知っていた。それだけに、その言葉が信じられなかったのだ。

 だが《蒼穹の台》がどのような場合にも冗談をいうような存在ではないこともまた、彼は知っていた。

「やはりサミュエル・ミドオーバ大元帥、でございますか?」

 イオスは目を閉じて背もたれに頭をゆだねたままでうなずいた。

「どうやら想定していた中でも最悪の状況のようだ。まったく彼はやっかいな事をしでかしてくれる」

「では、《深紅の綺羅》様も?」

「バード長は倒れた僕に向かってこう言った。『我々が手厚く弔う』とね。つまり、間違いなく囚われていて、今のところはまだ生きていると言う事だね。そもそもバード長は僕の守護役の君ですら知らない『神の空間』の弱点をちゃんと知っていたんだからね」

「なんと」

「《深紅の綺羅》の持っている知識をバード長は何らかの方法で全て手にしている、と考えた方がいいね。さらに言えば僕たち三聖と自分の守護者以外には絶対に明かすことのないはずの《深紅の綺羅》の現名を向こうは知っていた。これがどういう事かわかるかい?」

「《深紅の綺羅》様はただ囚われているのではなく……」

「そういうことだろう。何があろうと三聖が人間ごときの命令で口を割ることはあり得ない。そういう意味では《深紅の綺羅》は無事ではないのかもしれない」

 イオスはシャレイの言葉を途中で遮ると肩を落としてため息をついた。シャレイにとってそれはほとんど見たことのないような《蒼穹の台》の苦悩する姿であった。

「大賢者を招集いたしますか?」

「それには及ばないよ。そもそも招集できる大賢者は、君を除くと一人だけじゃないか。それにあの子にはあの子の大事な仕事がある。今はまだそっとしておこう」

「御意」

「それにしても、大賢者が四人揃っているのを最後に見たのはいつだったろうね」

「左様にございますな」

「それにこれは好都合かもしれないよ。彼らは僕が消えたものと思っているだろう。だったらこのまま正教会の連中からも姿を隠して行動することにするよ」

「サミュエル・ミドオーバを制裁されるのですか?」

「いや。《深紅の綺羅》の件もあるからそちらに対しては今は下手に動かないほうがいいだろう。それよりも、こうなったからには先に『彼』に会おうと思う。それに《菊塵の壕》 君も気付いていると思うけど、もはやファランドールだけでなく、マーリン正教会も虫食いだらけのようだ。今思えば《真赭の頤》が起こしたあの事件はこの事を僕に警告してくれていたんだろうな。ここを空座にすることをおそれるばかりに大きな潮流が何も見えていなかったとはね。まったく僕は浅はかな存在だよ」

「《蒼穹の台》様……」

 イオスは青白い精杖にすがりながらゆっくりと立ち上がると、数多くのルナタイトで煌々と照らされた「前座」と言われる岩の空間をゆっくりと見渡した。彼が座っていた椅子の正面には四つの扉が見える。イオスはそのうち一番右にある扉に歩いていった。

「戦争は……避けられないのでございますか?」

 遠ざかるイオスの背に、シャレイが声をかけた。

「そうだね」

 イオスは杖に体を預けるようにして立ち止まると、そう答えた。

「シルフィードが、事を起こすのでしょうか?」

「シルフィードじゃなく、サミュエル・ミドオーバが『誰か』に最初の弓を引かせるという台本じゃないかな。人間の国のどこが勝とうが僕達には関係はないけど、そう言えば彼は少し気になることを言っていた」

「気になること、でございますか?」

「それが何かを僕は知らねばならない。事と次第によっては我々が介入する必要があるかもしれないし、その為にも久しぶりに『彼』をなんとか見つけ出して話をしなければならないだろうね」

「あの方が最後にこの『前座』に姿をお見せになってから、もうかれこれ五十年程たちますね」

「そうだな。でも、どちらにしろそろそろ時が来る。その前に、草の根を分けてでも探し出して会わねばなるまいよ」

「そうでした。来年は『合わせ月』の年ですな」

 イオスはうなずくとのろのろとした動作で再び歩き出した。

 そして目的の扉の前まで来ると、ゆっくりと振り返り、シャレイに改めて呼びかけた。

「《菊塵の壕》」

「は」

「君は急ぎ『彼』の足跡の情報を集めておいてくれないか? これは大賢者の君にしかできないだろう」

「御意」

「それから賢者会には一切伝えないでくれ。ただし《深紅の綺羅》の守護のあの子には事実のみは伝えておくべきだね。まさか妙な行動を起こすとは思わないけど、念のため僕の指示としてくれぐれも今は手出しは無用ということも付け加えておいておくれ。聞き分けがいい子だといいのだがな……」

「かしこまりました」

「確かずっとドライアドにいるのだったな」

「はい。一族当主の《天色の楔(あまいろのくさび)》は、以前から密かにバードとしてミュゼの王宮に入り込んでおります」

「僕はまだ会ったことがないが、新しい天色はたいそう若いと聞く。『人の筆頭』足る者が未熟な子供でなければ良いがな」

「『十二色』のひとつ、タ=タンの者です。若いとは言え人の筆頭を名乗る家の当主。間違いはありますまい。もっとも『十二色』を名乗る者自体がほとんど居なくなりましたが」

「それを言うのならば、もう『十二色』を知っている者などほとんどいないよ」

 シャレイには、そう言ったイオスの声が笑っているように聞こえた。

「なるほど。深紅の守護者は主……いや、僕なんかより血筋だけはいいということか」

「……」

「ふん。そうなると《天色の楔》とやらが僕の指示に素直に従ってくれるか怪しいものだな」

「何をおっしゃいます。三聖と我々は全く別の」

「現に!」

 シャレイの言葉をピシャリと遮ったイオスの声色は強い調子に変わっていた。

 淡々としつつも格式張らないおだやかな語調さえ、その姿を潜めた。

「守護一族の当主でありながら、守るべき《深紅の綺羅》が人間ごときに囚われているのをどう釈明するのだ?」

「それは」

「それは前当主の不始末。わかってはいるよ。現在の《天色の楔》はおそらく《深紅の綺羅》の手がかりを掴む為にドライアドに潜入しているのだろうな」

 イオスは珍しく自分が激したことに驚いていた。本人が頭で考えているよりも、サミュエルとの会見はイオスに影響を与えていたのである。

 とはいえ、それ以上に驚いていたのはシャレイだった。彼は守護一族の当主として三聖蒼穹の台に仕えてから、語調を荒らげる主を見たのはそれが初めてだった。

 だが次に口を開いたイオスの口調はいつも通り、ゆったりとした穏やかなものになっていた。

「少し、気分が優れないようだ」

「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」

「いや、いい。別に僕は《天色の楔》の釈明を聞きたいわけではないんだ。それより頼んだよ。少し休んでから、ここを空ける事になる。『彼』の手がかりがつかめるまでは、僕は本腰を入れて残る二人のエレメンタルを探すことにするよ」

「残るは三名……ですかな」

「そうだね。《二藍の旋律》の報告は間違いないだろう。つまり炎は滅した。つまり残るは三名。風はシルフィード王国……いや、サミュエル・ミドオーバの手元にある。僕は行方知れずの二名、いやどうあっても水のエレメンタルだけでも見つけ出さねばなるまいよ」

 イオスはそういうと珍しくむせて咳き込んだ。イオス本人も自覚していなかったが、咽が異様に渇いていた為だ。自身を内から構築するエーテルを四割も失う事は三聖蒼穹の台にとっても大きな損傷であったのだ。

 その様子を見て、たまらずシャレイは駆け寄ろうとしたが、察したイオスが手を挙げてすぐに制した。

「猊下、食事をとられてはいかがですか? もはや約定は破棄されたも同然なのですから」

「……いや」

 イオスは少し逡巡して見せたが、首を振ると大きな木の扉を開いた。

「相手がどうであれ、僕が『約定』を破るわけにはいかない。《深紅の綺羅》の件はまだわからないことが多すぎる。だから今はやめておこう」

「もう一つだけ伺ってもよろしゅうございますか?」

 再度咳き込みでもしたら、命に背いて肩を貸す決意を胸に、シャレイはそう声をかけた。

「何だい?」

「例の……出所不明の瞳髪黒色(どうはつこくしき)の賢者はいかがいたしますか?」

「瞳髪黒色の賢者?ああ……」

 イオスは少しだけ口の端を曲げた。

 シャレイにはそれがイオスが見せる苦笑の表情だと言うことがわかっていた。

「君としたことが、まだ気付いていないと言うことか」

「と、申しますと?」

 シャレイにはもちろん、イオスが何のことを言っているのかはわからなかった。だが、イオスの言い方ではエイル・エイミイと名乗る謎の賢者が一体何者なのかを、彼の主は当たり前のようにわかっているという事のようだった。

「僕に考えがある。それに彼には二藍と群青を監視につける。心配はいらないよ」

 それだけ言ってゆっくりと扉の奥に消えるイオスを、シャレイは恭しく礼をして見送った。

 イオスを飲み込むかのように木の扉が重い音を立てて閉まると、その部屋のルナタイトの灯りが一斉に消えた。

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