第六十二話 歩み出す者 3/3
「私には思いっきり怒鳴った後のラシフ様が、なんとなくですが、いつもすっきりした顔をされているように見えましたよ。嫌味ではなく」
ラシフにしてみれば、確かに本気で激高した記憶はもはやあやふやで、思い出せない程遙か遠くの話と言えた。それなのに、里の入り口で賢者を名乗る風変わりな若者と対峙してからいったい何回怒鳴り散らしただろうか?
「私は」
ラシフはそう言って深いため息を一つついた。
「自分がこれほど短気で怒りっぽい人間だと言うことをあの者に出会って初めて知った」
「いえいえ、ラシフ様は別に短気でも怒りっぽいわけでもないと思いますよ。お気の毒ですが、相手が悪すぎるんです」
おかしそうにそういうアプリリアージェに、ラシフは嘆息した。
「相手か。確かに、あの者は二言目には私を小馬鹿にするような事を口にする」
「でも、口げんかも楽しいのではないですか?」
「馬鹿を申せ。里の一大事が係わっていることで楽しいと思えるわけがない」
「それはそうですけれど、先ほどのものはどうですか?」
「まあ、確かにそう言われてみれば先ほどのあれはまるで子供の言い争いのようなものだな。もっとも、感心せん話題だが」
「話題はともあれ、お二人のやりとりを見ていた私には、仲の良い友人同士がじゃれ合っているようにしか見えませんでしたよ」
アプリリアージェにそう言われると、ラシフは自分の両の掌をじっと見つめて小さく笑い声を漏らした。そしてアプリリアージェに向かって両掌を向けた。
「ふふふ。見よ、掌に爪の跡がついておる。ムッとして思いっきり拳を握ったのであろうな。こんな事もいままでにはなかった」
そして今度はじっとその爪を見た。薄い桃色の綺麗な爪だった。
「今まで通りの爪では、少し長すぎるのやもしれん」
「昨日も言いましたが、彼はラシフ様と同じでとても優しい子なんです。表現が不器用な所もそっくりです」
ラシフはゆっくりとうなずいた。そして
「そうかもしれん」
そういうと、再び掌をじっと見つめた。
だが、ラシフはその掌を急に握りしめた。爪の跡がくっきりとつくほど、強く。
「しかし、ムカつく!」
そう言ったラシフの唇は横真一文字に結ばれて、顔には悔しさがにじみ出ていた。
「うふふ。わかります。その気持ち」
間髪入れずそう言ったアプリリアージェの言葉に、ラシフの顔が一瞬で輝いた。
「おお、そちもわかってくれるか?」
アプリリアージェはそういうラシフの顔を見て、吹き出しそうになった。その上気した顔は、まるで何かいい事があった幼い子供が、うれしそうに親に報告する時に見せる、うれしさをにじませる笑顔だったのだ。
「もちろんです。彼とはもう結構なつきあいですからね」
ラシフはアプリリアージェに向き合うと、その細い両肩を掴んだ。
「私は悔しいのじゃ。何というか口ではどうあってもあの者に敵わぬ」
「でしょうね。彼とまともに口論をして、勝負になるのは私くらいでしょう」
「そう。そこでじゃ」
ラシフはアプリリアージェの肩に置いた手に力を入れた。
「あの者をぎゃふんと言わせる方法があれば、こっそり教えてはくれぬか?」
「『ぎゃふん』ですか?」
アプリリアージェはラシフにそう言い寄られると、眉根を少し下げた。
「そうですねえ、エイル君をぎゃふんと言わせる方法はちょっと無理ですが、『おいおい』泣かせる方法なら知っていますよ」
「そ、それでいい。是非教えて欲しい」
肩に置いた手にさらに力が入った。アプリリアージェはさすがにたまりかねたのかラシフの腕に自分の手をそっと置くと、力をゆっくりと入れてその腕を下げさせた。
「任せてください。ただし」
「ただし?」
「その代わりと言っては何ですが、私も二つほど頼みがあります」
「交換条件か」
「私は慈善事業家ではありません。当然の要求です」
「とんでもない慈善事業家が何を言う」
「いえいえ。税を搾り取りますから長い目で見た優良な投資事業です」
アプリリアージェの言葉に、ラシフは眉根を下げ、目を潤ませた。
「お主達はまったく」
「あらあら、族長様は涙腺まで緩くおなりですね」
「言うな。これは自分でもどうしようもないのだ」
アプリリアージェはふふふと笑って金色のスフィアの耳飾りを揺らした。
「それで、どうしますか」
「うーむ」
ラシフは鼻をすすり上げると、溢れる前の涙をそっとぬぐった。そして腕を組んで少し考える様子を見せたが、すぐに顔を上げた。
「その頼みというのを先に聞こう」
アプリリアージェはラシフの言葉を予測していたかのようににっこり笑ってみせた。
「皆さんの出発前に、我々と剣技の稽古をしませんか? 一対一の実戦形式で。もちろん怪我などしないように完璧に安全な方法で行います」
「実戦形式の剣技の稽古じゃと?」
「シルフィード王国軍では『試闘』と呼んでいます。簡単に言えば決闘方式の試合のようなものです。ルーナーとしての力はともかく、里の兵士達の戦闘員としての技量が我々シルフィード軍現役の兵士と比べて一体どのあたりにあるかは族長としても知っておいて損はないでしょう? ご存じの通りこのところの政情は不穏です。皆さんはこの後、その技量を実際に使わねばならないかもしれません」
アプリリアージェの申し出は一理ある、とラシフは思った。ファルンガ領とはいえ、いわゆる外の世界に出るわけである。里の中での武術の優劣は意味を成さなくなるのは確かだった。それにアプリリアージェが言うように族長という立場で兵の技量を把握しておく必要はもちろんだが、それ以前に兵士達が自分の実力を『外』との比較で認識しておくことはそれ以上に有意義に違いない。
「安全は確保する、と言ったな?」
決心がついたように顔を上げてそう尋ねたラシフに、アプリリアージェは自信ありげにうなずいてみせた。
「私にいい考えがあります。と言ってもエイル君の持っている便利なルーンを使ってもらうだけなんですけどね」
「あやつ……あの者はハイレーンのくせに我が里の高位のコンサーラでも知らぬような強化ルーンを使えるというのか?」
「昨日の事といい、ラシフ様はハイレーンをかなり低く評価されているのですね」
「ハイレーンとは所詮、エクセラーにもコンサーラにもなれなかった者が仕方なく薬草の調合方法などを覚えて治療などにあたる者だ。ルーナーの落伍者とまでは言わんが、能力が相対的に低い者であることは確かだ。もちろん里にとってもハイレーンは大切な存在ではあるが、だからといってルーナーとしての高い評価を与えろと言う方が無理と言うものであろう?」
「なるほど、そういうご理解でしたか」
ラシフはうなずいた。
「私は高位にあるルーナーという者の本当の実力を知らぬ。
「では、その件は信用していただくと言うことで」
「わかった。やるからには旅に出る前の壮行試合として、盛大に執り行おう」
「あらかじめ申し上げておきますが、我々もアルヴの一族。矜持にかけて戦います。手加減はできませんよ?」
「むろんじゃ。むしろ里の兵にそなた達の実力を見せつけてやって欲しい。我らはぬるま湯にいたと言うことを知るべきなのだ」
アプリリアージェは満足そうにうなずいた。
「では二つ目のお願いです。こちらは簡単ですよ。エイル君が目覚めるまで、ラシフ様とイブロド様以外には迎賓殿には誰も来させないで下さい」
「ルーチェは行きたがるだろう?」
「普段はこちらからラシフ様の私邸に出向くようにいたします。ご迷惑でなければ、ですが」
ラシフはうなずいた。
「かまわぬ。我が家のように振る舞うがいい」
「ありがとうございます」
「条件は呑んだ。では教えてもらおう。『おいおい泣かせる』方法と言うヤツをな」
アプリリアージェはうなずくと、少し離れた所にいるアトラックとルーチェの方にチラリと顔を向けた。
目が合うと、アトラックは何も言わずに肩をすくめてみせた。
「お耳を拝借」
アプリリアージェはアトラックには聞こえないように、ラシフの耳元で何かをひそひそと囁いた。それを聞いていたラシフの表情が微妙に変わっていった。だんだん眉間に皺がよって来たのだ。
「本当にそれだけでいいのか?」
「はい。その代わり、上っ面で言っても駄目ですよ」
「それは……たぶん大丈夫だ」
「だったら問題ありません」
「ふむ。間違いなく『おいおい泣く』のだな?」
「誰だって泣きますよ」
「そちも、泣くか?」
「私はたぶん、そんな感情は持ち合わせていませんから」
「貴様という奴は、食えぬ女じゃな」
「お褒めの言葉として頂戴します」
「まったく……。まあだが、そちがそこまで言うのなら信用しよう」
「光栄です」
「騙されたような気もするがな」
「あら、なんなら……」
「皆まで言うな。貴様が機会を与えてくれた事くらいはわかっておる」
「夜が明けましたよ」
ひそひそ声でなにやら話し込んでいる二人のダーク・アルヴに向かって、アトラックはそう声をかけた。
声に反応してアプリリアージェとラシフは陽が昇る方へ同時に顔を向けた。それはアトラックの言うとおり、熟した柿の実のような色をした昼星が、ノーム山脈に連なる峰の間から顔を出す瞬間であった。
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