第六十二話 歩み出す者 1/3
夜明けを待たず、ファルケンハイン・レインとティアナ・ミュンヒハウゼンはジャミールの里を発つことになった。アプリリアージェの指示で朝の弱いエルネスティーネには声をかけない事にしていた。もちろん、本当の理由は泣かれて出発が遅れてしまうことを避ける為だが、本人以外は全員アプリリアージェの意図がわかっていたので、本当に朝が弱い王女様は見送りの場に顔を出すことは出来なかったのだ。
その代わりというわけでもないだろうが、ルーチェがアトラックの隣に、その腕をしっかりととって立っていた。
時間を申し合わせていたわけではなかったが、見送りの場所にはラシフ・ジャミールが供も連れずに一人で現れた。
アプリリアージェは一分の隙もない族長の出で立ちを見て最敬礼をもって出迎えたが、族長はそれには軽く答えただけで、まずアトラックの隣にいるルーチェに声をかけた。
「いい年の娘が暗い中を出歩くのは感心せんな。ちゃんとイブロドに用件を告げてきたのだろうな?」
ルーチェはコクンとうなずくと、なぜかそのままうつむいた。
「大丈夫ですよ」
その様子を見てアプリリアージェが助け船を出した。
「アトラックが護衛についていましたから」
そしてその視線をラシフからアトラックとルーチェに移して、
「帰りも送っていくのですよね?」
そう言ってにっこりと笑いかけた。
「え、ええ、もちろん」
「一応、朝食までには帰ってきてくださいね」
つづけてそう釘を刺すと、アプリリアージェはラシフに改めて礼をした。
「アルヴが二名か。頼もしいな」
自然が夜明け前に見せる光と影が紫という色の糸を使い、壮大なヴェールを織りなすような独特の空間の中、旅装を整えて出発するばかりのファルケンハインとティアナを見上げながらラシフはそうつぶやいた。小柄なダーク・アルヴのラシフからすると、間近にアルヴが二人並ぶ様はまさに壁の前に立つようなものだった。
「我々の仲間では一番体力と持久力のある二名です。デュナンのアトルではティアナの二倍の時間がかかってしまいますから」
そのラシフより頭半分ほど背が高いアプリリアージェはそう答えると、いつもの通りにっこりと微笑んでみせた。
ダーク・アルヴ族、いやジャミールの人々の中でもラシフはやや小柄に見えた。そう言えば実の娘だというイブロドも四人組の中では一番背が低い。血筋なのだろうなと、アプリリアージェはラシフを見て思った。
「これは俺からの餞別や。イブロドのおかげで何とか間に合った」
そう言ってエイル……いや、エルデが二つの小さな巾着袋を差し出した。アルヴの二人は顔を見合わせた後、一つずつそれを手に取った。
「いや、さすがにルーナーだらけの里やな。薬草の種類も豊富できちんとした管理もされてるし、おまけに質もええと来た。材料がええとこっちも気合いが入るしな。久しぶりに会心の調合が出来たで」
エルデの言葉にファルケンハインとティアナは再び顔を見合わせた。
「念のために尋ねるが、これは一体何だ?」
ティアナがおそるおそるその木綿製の巾着袋を開けながらエルデに尋ねた。
「高位ハイレーンにしか作れへん、溜まった疲労をたちどころに解消する丸薬や」
それを聞いたファルケンハインもティアナに続いて巾着袋を開けた。その中には数十個の小さな深緑の丸薬が入っていた。
「妙な匂いがする」
ティアナは丸薬を一つ摘まんで手のひらに載せると、鼻に近づけて匂いを嗅いでいた。ファルケンハインもそれに倣った。
「確かに妙な匂いだ。これは?」
眉間に皺を寄せてそう尋ねたファルケンハインに、エルデはニヤリと笑って返した。
「それはたぶん、薬効効果が高いジャミールの現族長の腋毛を配合したからやな」
「なんと!」
ティアナはエルデの説明に、目を丸くして驚いた。
「腋毛には疲れをとる効果があるのか」
「アルヴやデュナンのではアカンで。効果があるのは五百年以上生きたダーク・アルヴの女の腋毛だけなんや」
「そうか。なるほど、奥が深いな。さすがは高位ハイレーンの知識だ。勉強になる」
ティアナは本当に感心したようにそういうと、再度匂いをかいで頷いていた。
「おい」
ラシフはエルデを睨みつけると低い声でそう呼びかけた。
「しかしラシフ様は長寿なのですね。五百年以上生きておられるとは思えぬ若さです」
精杖を握りしめエルデを睨みつけているラシフに、ティアナは精一杯の畏敬の念を込めてそう声をかけた。だが、今度はティアナが目をつり上げた憤怒の形相をしたラシフに睨みつけられる番だった。
「誰が五百歳だ!」
ラシフはそういうと持っていた精杖の先をティアナの鼻先に突きつけた。
「ち、違うのですか?」
「お主、本気でそう思っていたのか?」
「え?」
「私はまだ百歳にもなっておらん」
「そ、それではラシフ様の腋毛には薬効がないということですか?」
「いや、そうではなくてだな……」
ラシフはどうにも会話が噛み合わないティアナに業を煮やして、真っ赤な顔をエルデに向けた。
「服用法は?」
二人のやりとりはどこ吹く風と言った風に、手に持っていた丸薬を巾着に戻しながらファルケンハインはエルデに尋ねた。
「昼食後と寝る前に飲んだらええ。アルヴィン用の調合やから、アルヴのお二人さんは一回二粒や」
「了解した」
ファルケンハインはうなずくと、珍しく苦笑いをみせた。そして右手を伸ばしてエルデの髪をそっと撫でた。
「あまり族長様をからかうもんじゃない」
エルデはくすぐったそうに肩をすくめたが、いやがる風でもなくファルケンハインに髪を触らせたままにやりと笑うと、自分を睨みつけるラシフにその視線を移した。
「いやあ、毎度毎度こんなにおいしい反応してくれるから族長いじめはやめられへんわ」
「貴様というヤツは!」
「なるほど、合点がいった。腋毛は薬効成分ではなくて、香り成分なのだな?」
ティアナが「わかった」とばかりに手を打ってそういうと、ラシフは再びティアナを振り返り、怒鳴った。
「私に腋毛などない!」
「えええ?」
「あの……腋毛の話はそろそろやめにしませんか?」
一歩下がってしばらく状況を見守っていたアトラックがたまりかねて声をかけた。
彼にしてみれば誰かがいい加減この下世話な話を止めに入るのを待っていたのだが、期待していたアプリリアージェと言えば、ニコニコしているだけでいっこうに割って入る様子がない。いや、アトラックの目にはむしろラシフの興奮する様をエルデ同様に楽しんでいるようにしか見えなかった。あまつさえこういう話題には良識を見せるはずのファルケンハインですらエルデを積極的に止めようとしているとは思えないのだ。
普段は自らが雰囲気作りを買って出る為に、ともすれば脱線が大きくなってたしなめられる役であるはずのアトラックだが、立場が逆になると楽しむどころか不安が先に立つようだった。
「貴様、そのビロウな話を私が好きでやっているとでも申すのか!」
矛先が自分に向いた事で、彼は声をかけるべき相手を間違っていた事にその時気付いた。
「あ、いえ、その、そ、そいつはどうも……」
助け船を出したはずのアトラックがラシフに怒鳴られるのを見て、エルデはそろそろ潮時だと判断した。
「悪い。俺のカンチガイや。その匂いはマリートの雄蕊を乾燥させたモノをすりつぶすと出てくる匂いやったわ」
エルデがそう声をかけると、ラシフの『お怒り状態』に戸惑ったような顔をしていたティアナがほっとした表情を見せた。
「そうか。植物の匂いなのだな」
「ああ。その丸薬は植物だけで調合されてる。毒薬耐性の為の訓練をしてて薬の類が効きにくいファルでもちゃんと効くようなルーンも練り込んである」
「そこまで考えてくれているとはさすがだな」
ファルケンハインは本当に感心したようにそう言ってエルデを見た。
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