第六十一話 招かれざる者 6/6

「『約定』通り、僕は君たち人間のやることにはあまり口も手も出さないつもりだ。だが、だからといってあまり僕を怒らせない方がいい」

「やれやれ」

 サミュエルは肩をすくめて見せた。その目はイオスが座っている足もとを確認していたが、もちろん気取られぬように自然に視線を移動させることには抜かりがなかった。

「誰に聞いたかはわかりませんが、正確過ぎて恐ろしい程ですな」

 その言葉にピクリと動いたイオスの眉を見て、サミュエルは続けた。

「話は変わりますが、先ほど私の部下を手にかけたのは猊下ですかな」

「部下?」

「サンテ・ミアダンテ……いや、現名より賢者名の方が猊下にはわかりやすいですかな。《潤の鈎》の事です。彼は来るべきファランドール帝国を創世するという大いなる志の元に集まった我が同志。猊下はそれをまるで虫けらのように焼き殺してしまった」

「心外だな。虫けらの命を粗末にする趣味は僕にはないよ」

「《潤の鈎》は虫けらにも劣るとおっしゃるのですか?」

「それよりも来るべきファランドール帝国とは何の事だ?」

 イオスはサミュエルの問いにはまともに答えず、質問を返した。ここへ来てサミュエルはもうすっかり落ち着いていた。


 イオスがソファに座った時点で実のところ彼は心の中で快哉を叫んでいたのだ。だから彼の声には企図せず余裕めいたものが漂っていた。

 イオスも話の途中からはそれに気付いてはいた。当初見せた狼狽の色はすっかり姿を消し、サミュエルの様子は途中からはまるでイオスの謎解きを心から楽しんでいるかのようだった。

「人間のやることには手を出さないとおっしゃいましたが、それならば《潤の鈎》が、何か『賢者の法』に触れることをしたのですかな?」

 サミュエルもイオスの問いを無視して自分の質問を続けた。

「神の空間」に捕らえられた者は空間の支配者である《蒼穹の台》イオス・オシュティーフェの命令には逆らえない。だがまだイオスはサミュエルに「命令」はしていない。彼が口にしたのは質問だけだった。回答を命ずる事を敢えてせず、通常の会話の中でサミュエルから自発的な答えを得ようとしているイオスのその態度は、サミュエルからしてみれば自分を遙か上位に存在すると思い込んでいる者がとる、きわめて傲慢で不遜な態度にしか見えなかった。

 もちろん所属母体が全く違う者同士である。両者の立場の上下などはあまり意味をなさない。とはいえ一国の軍事部門の最高位に立つとはいえ、国を統べる立場にはないサミュエルが、小さいながらもそれなりの領地を有し、シルフィードを除く三大国……いや、ある意味シルフィードにさえきわめて強い影響力を持つ、つまりは単なるいち宗教団体にとどまらず、一つの準国家としか言いようのないマーリン正教会を統べる立場にある「三聖」と同等であるとは言い難い。しかし、それでも遙か彼方に見下ろされるような存在ではないという自負が、サミュエルにはあった。

 だが目の前でソファに腰掛ける濃紺のローヴを纏う小柄のアルヴィンがサミュエルに注ぐ視線はどうだ? 蔑みの目だ。いや、蔑む感情さえわかないと言わんばかりの、目の前の人間には何の価値も見いだせないと言ったその唯我独尊振りがサミュエルには許し難かった。


 老大元帥にその時生まれた感情は言葉にしづらかった。世の中の高みという高みをすべて見下すかのような視線を持つそのアルヴィンの表情をどうにかして崩したいという思い……いや、もう少し具体的にはその孤高を気取る顔に憎しみや恐怖といった感情を表に出させ、引きつらせてみたいという衝動のようなものだったのかもしれない。

 どちらにしろバード長と近衛軍大元帥を兼任し、かつ長く国王アプサラス三世の相談役として勤め上げてきた思慮深き老人が持つ感情としてはあまりに薄暗く稚拙なほど残虐なものだと言えるだろう。立場というものを超越して彼にそれだけの感情を抱かせるにはもちろん彼なりの理由が存在する。

 その理由がつまびらかにされるのはもう少し後になるが、サミュエルに当初生まれた恐怖の感情を上書きする別の感情が生まれた外的な理由は一つしかない。彼がイオスに対して優位な立場にあったことである。その優位性は必ずしも客観的なものである必要はない。彼自身がそう思っていたという事が重要なのだ。

「神の空間」における術者イオスの絶対的な優位性。それが崩れる事など少なくともイオス自身は塵ほども思ってはいないはずだった。

 イオスの敗因は自らの絶対有利を短絡的に持ち出すことをしなかった点に尽きる。彼は自分の絶対優位を毛ほども疑う事なく、悠然とサミュエルとの会話を続ける事を選んでいたのだ。そしてサミュエルはそんなイオスの態度こそが許せなかった。


「バード長。いや、サミュエル。君は何か勘違いをしているようだが、正教会内の事で僕がしたことに口出しできる人間など、三聖以外にこの世に存在はしないんだよ」

 やや怒気を含むイオスの声に、しかしサミュエルはひるまなかった。

「勘違いされているのは猊下の方ではありませんかな? このエッダは我がシルフィード王国の領土、しかも国王のお膝元ですぞ? 確かに我が国も賢者法を批准してはおりますが、一国に仕える人間を勝手に殺されて一言もない上官など存在しません。他国の事は存じませんが、少なくともここシルフィードでは」

「君が《潤の鈎》の上官だって?」

「さようでございます、猊下。サンテ・ミアダンテは我が近衛軍にあって准尉の地位にある将校です。それももう、何年も前から」

 サミュエルにはイオスの眉が少し動いたように見えた。だが、イオスの声は以前同様、何の抑揚もないものに戻っていた。

「賢者になったものは死ぬまで賢者の法から逃れられない」

「ミアダンテ准尉は我が国の将校です、猊下」

「くどい」

 イオスはサミュエルの言葉を遮るようにそう言うと、ソファから腰を上げ手にした青白い石で出来た精杖を掲げた。

 業を煮やしたのか、サミュエルのと会話に興味を無くしたのかはわからない。しかしイオスがサミュエルに都合の悪い何かの行動を起こそうとしたことは間違いない。少なくともサミュエルは自分の言動がイオスの感情に何らかの影響を与えた事に満足した。思いが満ちたと言い換えてもいい。


 そしてそれは彼が待っていた「その時」でもあった。

 彼はずっと機を伺っていた。そしてそれは今この瞬間だと判断した。

 バード長は迷い無く手に持った精杖「星を呑む獅子」で、足もとの濃い色のタイルを強く突いた。それはイオスが声を出す前になされた。

 タイルにぶつかる精杖の先がコンっという軽い音を立てたかと思う間もなく、サミュエルの目の前で立ち上がったはずのイオスの体から、何かが裂けるような音がしたかと思うと、そのアルヴィンは鈍い音を立ててその場に崩れ落ちた。

 それきりイオスは動きを止めた。

 ほんの少し遅れてイオスの手にあったはずの青白い精杖が、その持ち主の数倍の重量を感じさせるようなドスンという重い音とそれに伴う衝撃を部屋中に響かせた。見た目以上に重量があった事を証明するかのように、その精杖は床板のタイルに深い傷を残して横たわった。


 精杖の落下音が収まると部屋には静寂が訪れた。

 ソファに座ったままのサミュエルは目の前に横たわる紺色の僧服を着た金髪のアルヴィンを無言で見下ろしていた。見ればアルヴィンの背中からは先端が鋭利に削られた手首ほどもある太さの木の杭が突き出ており、それは哀れなアルヴィンの鮮血によって真っ赤に染まっていた。

「忌まわしい化け物め」

 サミュエルは長い沈黙の後……それはイオスの体からしみ出す血溜まりが広がり切った頃だった……その亡骸を見つめながら吐き捨てるようにそう呟くと、自分の精杖を手にしたままで、いくつかのルーンを立て続けに唱えた。

 それはイオスが作り出した「神の空間」の消滅を確認する為の行為であると同時に念の為に自分にかけておく強化ルーンのようだった。

 確かにルーンが発動した感覚を得ると、老デュナンはゆっくりと立ち上がった。そして横たわるイオスの体へ一歩近寄ると片方の膝をつき、動く事をやめた三聖の一人に語りかけた。

「《深紅の綺羅》様は大した方です。あなたの『神の空間』の弱点を正しく把握されておられる。おかげ様で最もおそれていた猊下をこうして亡き者にすることができました」

 そこまで言うと一度言葉を切り、立ち上がった。

「どうぞ安らかにお眠りくださいませ。猊下が案じていらっしゃった《深紅の綺羅》様は我々が手厚く弔うことにいたします故、ご心配には及びません」

 それだけ言うと、サミュエルは手にした精杖「星を呑む獅子」を掲げ、今度は長めのルーンを唱えはじめた。そして低い声でその認証文を唱え終えると、掲げた精杖をイオスの遺体に向けた。

 すると三聖蒼穹の台の体は青白い炎に包まれ、音もなく燃え上がったかと思うまもなく、一塊の灰に姿を変えた。高温で人体だけを焼却できるルーンのようだった。そして主人が灰になると同時に、床に横たわっていた青白い石の精杖に無数のひびが入り、やがてそれも細かい砂と化した。

 サミュエルはそれらをすべて見届けると部屋の窓を開け放ち、新たなルーンを唱えた。ルーンによって呼び込まれた空気の流れは、その開け放たれた細長い窓から入り込み、つむじ風となって灰を巻き上げると、再び空へと戻っていった。


「さて」

 風が去った空を見上げながらサミュエルはゆっくりと窓を閉めた。

「蜂退治の前に、気は進まぬが成すべき事を成さねばなるまい」

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