第六十一話 招かれざる者 2/6
「そ、蒼穹……」
「久しいな、《潤の鈎(うるみのかぎ)》」
《潤の鈎》と呼ばれた老デュナンは、被っていた毛糸編みの帽子を頭からむしり取ると、ひざまずいてうつむいた。
「お久しぶりでございます。息災のようでなりよりでございます」
禿げた頭をイオスに向けたまま、《潤の鈎》はうやうやしくそう挨拶をした。
「そうかしこまるな。外の者達に見られたら変に思われる」
「は」
「以前来た時はもっと商売っ気があったような気がしたが、何か変化でもあったのか?」
イオスは店の中を見渡すとそう声をかけた。
店内には陳列用のガラスがはまったテーブルが四つと壁一面にしつらえられた飾り棚があったが、そこに陳列されているリリス製とおぼしき小物はまばらで、すべてを数えても両手で足りた。しかも窓を含めガラスというガラスは埃だらけで曇っていた。つまり、およそ商売をやっている店とは思えない状態と言えた。
「最近はリリスの流通はあまり活発ではないようでして」
《潤の鈎》はそう口ごもるように言うと、額にあふれる汗をぬぐった。
「そうか」
イオスは素っ気なくそう言うと、踵を返した。
「邪魔をした」
そう言って扉の取っ手に手をかけようとしたイオスに《潤の鈎》が慌てて声をかけた。
「《蒼穹の台》様自らエッダにお越しになるような……何か大事が起こったのでございますか?」
イオスはゆっくりと《潤の鈎》を振り返った。老デュナンは跪いたままだったが、顔を上げてイオスの方をおびえるような顔でまじまじと見つめていた。
イオスはその顔を見て低い声で呟いた。
「これから起こるのではないのか?」
「え?」
「《潤の鈎》よ」
「は」
「ノッダへは行くつもりなのだろう?」
「はい。遷都に合わせて移動する予定ではおりますが」
「早めに逃げた方がいい」
「何ですと?」
潤の鈎はイオスの言わんとしていることがよくわからないという風に怪訝な顔をして見せた。
「大事が起きれば首都は混乱するだろう。それだけだ」
「戦争……ですか?」
イオスは問われて頷いた。
「実のところ、もう始まっているのかもしれぬがな」
「まさか」
「一応、忠告はしたぞ。《潤の鈎》」
「はい。ありがたきお言葉」
イオスはそれだけ言うと掴んだままの取っ手を押して扉を開いた。
「お、お気をつけて」
背後で自分を送り出すほっとしたような《潤の鈎》の声を背中で聞いたイオスは、店の外に一歩足を踏み出したところで再び歩みを止めた。
「そうだ、忘れていた」
イオスは振り向かずにそう言った。その声に反応して背後の《潤の鈎》に緊張が走るのが彼には手に取るようにわかった。
「クレハはどうしている? しばらく顔を見ていないのだ」
「――それは……そ、息災でございます。とはいえいつも行方をおっしゃらないので今どこでどうしているかは存じませんが」
「そうか。久しぶりに会えたら、それも一興かと思ったのだが、またにしよう」
「はるばるお越しいただいたのに申し訳ありません」
「何、お前が気にする必要はない。……それよりも《潤の鈎》よ」
「はい」
「お前はいつから《深紅の綺羅》の現名(うつしな)を知っている?」
イオスの声の調子はきわめて平静だった。だが、その言葉を聞いた《潤の鈎》の目は一瞬でつり上がった。彼は一気に高鳴った動悸をイオスに悟られないかと恐れながら、数秒で頭に上った血を落ち着かせた。
「こちらに来てしばらく経った頃でしょうか。昔の事です。どういう拍子でお話くださったのかは失念してしまいましたが」
「そうか。いや、そう言う事であればいい。――邪魔をしたな」
イオスはそう言うと今度こそ店の外に出て扉を閉めた。
そして、そこで小さくルーンを唱えた。
目の前を行くアルヴの下級近衛兵二人はチラともイオスに視線を投げかけない。例の姿を隠すルーンを唱えたのだ。
イオスは改めて、今出てきたばかりの店の看板を見上げた。
イオスの気配が扉の外から消えたのを感じた《潤の鈎》は噴き出す汗も拭かずに上ずった声で店の奥に呼びかけた。
「ジルバール」
「はい」
呼びかけに即座に答えたのは女の声だった。
「バード長に伝えろ。「蒼」(あお)色が来たと」
「はっ。ミアダンテ様はどうされるのですか」
《潤の鈎》はジルバールにそう言われてようやく極度の緊張から脱出する事ができたようで、浮き出た大量の汗を袖口で拭った。
「緊急事態だ。とりあえず私はいったん身を隠す。連絡はこちらからする」
「承知しました」
「急げよ」
「はい」
声の主は姿を見せないままそう返すと、次の瞬間には気配を消していた。
(念のためだ)
《潤の鈎》は思いついたように懐から懐剣を取り出した。その柄にはスフィアが埋め込まれていた。それは
彼は早口でルーンを唱え始めた。それはおそらく強化系のルーンだったのだろう。だがそのルーンを唱え始めたとたんに、ミアダンテの視界は一瞬で真っ赤に変わった。
彼には一体何が起きたのかはわからなかった。なぜなら次の瞬間にはすでに絶命していたからである。
「火事だぞっ」
「誰か防火隊に連絡しろ」
「ばかやろう、火事の始末は消火隊の方だ」
「いきなり大きな火が出たぞ」
「中に人がいるんじゃないのか?」
「近づくな。この火勢じゃ中に入るのはムリだ。消火隊を待つしかないだろ」
道を行く人々が口々に叫びながら「リリス全般」と書かれた商店を遠巻きにしていた。中にはバケツに入れた水を遠くからかけようとする者もいたが、熱の為にあまり近寄れず、かけた水が店まで届かないありさまだった。
両隣の店の人間も転がるように外に出ると、不安げに「お隣さん」の様子を見守っていた。
昼下がりの賑やかなユリスカラント大通りは、この小さな商店の出火により一瞬にして混乱に陥り、燃え上がる店を取り巻く人々の輪はそうやってどんどん広がっていった。
「言っただろう? 早く逃げた方がいい、と」
人々から離れた場所でその喧噪を見ていたイオスはそう言うと、火事場を後にした。
彼の向かう中央広場のその先には、シルフィードの王宮、通称エッダ城がそびえていた。
広場を挟んだ向こう側を目指して、彼は無表情のままで何事もなかったかのような泰然とした足取りで火事場に向かう人々を縫うように進んでいった。
「先ほどユグセル中将率いる小隊が全滅したとの報が入りました」
「そうか、ティアナは元気にしているようだな」
報告を受けた初老のデュナンはそれだけ答えると、ゆっくりと立ち上がって机を離れた。
彼はそのまま部屋で唯一の縦に細長い窓に近づくと、遠くへ視線を向けた。よく晴れた明るい青空には一点の雲もなく、遠くに見える湾では波が揺れ、陽光を反射して白くはためく藍色の海と視界を二分していた。
「これでル=キリアは二度目の、そして今度こそ真の意味で全滅したことになりますな」
報告の後にそう続ける若い男も同じくデュナンで、身につけている服装から軍人、それも士官であることが知れた。
「さすがに感傷的におなりですか」
彼の言葉に何も反応せず窓の外をただ見やるだけの初老の男に、若い士官はそう言って水を向けてみた。その口調には言葉の字面ほど皮肉めいた感情は含まれてはいなかったが、初老の男を見つめる訝しむような鋭いまなざしが印象的だった。
若い士官から呼びかけられた初老の男はゆっくりと声の主を振り返った。その身に纏うゆったりとした白い制服は、シルフィード王国近衛軍のものであった。そしてその制服に飾り付けられた階級章の縫い取りの厳めしさから察するに、初老のデュナンの地位がかなり高いことを示していた。
「ミドオーバ中佐」
近衛軍所属の初老の男は同じデュナンの若い士官に向き合うと、その名を呼んだ。
「はい、父上」
若い士官に父と呼ばれた初老のデュナンは小さくため息をついた。ため息の主の名はサミュエル・ミドオーバ。シルフィード王国のバード長、ミドオーバ大元帥その人であった。
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