第六十話 もう一つの帰還 4/4
ラシフはエルデが話し終わる前に俯いていた。
「これでは……そもそも……私には……選択肢などないではないか」
そう言ったラシフ・ジャミールの声はまたもや涙声になっていた。
「おいおい、似合わへん声、出さんどいてんか。調子狂うやん」
それを見たエルデが早速茶化し、ラシフは顔を上げると素直にそれに反応して見せた。だが口から漏れたそれは、もうエルデを批難する言葉ではなかった。
「なぜお前達はそこまでしてくれるのだ? 誤解とはいえ、我々はお前達の命を狙ったのだぞ?」
ラシフにとってはもっともな疑問だった。その引け目が心の底にあったからこそ、エルデ達一行を心から受け入れる事が出来なかったのだろう。
「我々一族に対する哀れみか? だとしたら……いや、だとしてもあまりに話がうますぎる」
ラシフの言葉の最後は、自問のように小さな声になった。
「うーん……」
アプリリアージェは少し困ったような顔をして腕を組み、しばらく考えてから顔を上げてこういった。
「こう言うのはどうです? 実は私達は賢者エイミイに脅迫されてるんですよ。『言うことを聞かないとシルフィード軍が隠密行動してるぞってサラマンダやウンディーネやドライアドに言いふらすぞ〜』とか言われちゃってます。という答えならどうですか? 納得できますか?」
「ファルンガの領地の件は、賢者……殿の口添えなのか?」
ラシフはおどけたアプリリアージェの言葉の中に真実が一つあることを聞き逃さなかった。
ラシフのその問いに、アプリリアージェは一瞬真顔に返ると頷いた。
「それに加えて土地もお金もたっぷり持っている、とある放蕩貴族の単なる気まぐれがあったという事ですよ。その気まぐれに素直に乗ってみるのも良いのではありませんか、ラシフさま?」
ラシフはそう答えて微笑むアプリリアージェからエルデに視線をゆっくり移すと、改めて賢者と名乗る不思議な少年を見つめた。
「あの話とは、この事だったのだな?」
「あの話?」
「今朝、お前が古代ルーンを唱える前に……」
「さあ、何の事やろ」
「ふん」
ラシフにはもうわかっていた。
認証文と引き替えに話したのか? というエルデの問いにアプリリアージェは首を振った。あの時の「あの話」とはすなわちジャミールを丸ごと移転させる事だったのである。
エイルとアプリリアージェは、古代ルーンを唱える前に、既に移転話をまとめていたのだ。それは古代ルーンで火山の噴火が収まろうが収まるまいが用意されていたものだったのだろう。
いや、エルデの事である。古代ルーンの詠唱を失敗するなどとは毛ほども思っていなかったに違いない。その上でなおジャミールをシルフィードに帰す途を用意していた事になる。だとすれば、その朝のやりとりも腑に落ちる。エルデは初めて詠唱する古代ルーンの調整を誤ったのではない。おそらく「冷やしすぎた」のではなく、「思った通りにかなり冷やせた」のだ。
そしてアプリリアージェが認証文を聞き出すための交換条件に移転話を使わなかった事を聞いてほっとしていたに違いない。アプリリアージェの中にはラシフに対する敬意があると思ったエルデは、その事がうれしかったに違いない。
そう。
交換条件になど出されていたとしたら、ラシフは間違いなく誇りを傷つけられたと感じたであろう。すなわち即座に断ったことは想像に難くない。
そしてそれはジャミールの里人の未来を完全に閉ざす呪いの言葉になってしまったはずだった。
ラシフは自分が幾重もの助けの手に包まれていた事を改めて理解すると、忸怩たる思いに溺れそうになった。
ルーンの力は多少あっても、所詮はただの小童だと思っていた少年が持つ懐の深さは、彼女が覗き得る程度のものではなかったのだ。
ラシフは美しい黄色い布で出来た服の袖でそっと涙を拭うと、居住まいを正してエイルにその顔を向けた。
その少年と最初に出会った時は茶髪と茶色い目だった為、全く気付かなかったが、偽装を解いた賢者は全滅したと言われるピクシィそのものの姿形であった。
黒い髪と黒い瞳。瞳髪黒色と言われるピクシィの神秘的なその瞳の奥は深く遠く、見つめているとただ吸い込まれそうな気分になった。
目の前の、成人になったばかりといったまだまだ若い、目つきの悪いこの少年が、自分の、いや自分を含む一族全員の運命を大きく変えてやるという。
いや、自分だけではない。自分が存在する目的といっていいもの……この里自体の運命の歯車を違う軌道にのせてやると、尊大な態度で告げている。いや、突きつける。
このまま死ぬか?
それとも従うか?
違う。
このまま死ぬか、それとも生きる道を選ぶか、なのだ。
彼らは強要などしていないのだから。
「ふふふ」
ラシフは小さく笑い声を漏らした。
(結論などはじめから出ている事ではないか)
だだをこねているのは自分の方だと言う事を、ラシフはようやく認める事にした。
「本当にお前はいちいち……癪に障るガキだな」
ラシフの声も穏やかなものになっていた。族長としての立場で語る口調ではなく、それはむしろ肉親にかけるいたわりの言葉にも似た暖かさが感じられる言葉だった。
だが、ラシフのその声には部屋全体の空気を柔らかくするだけの力がこもっていた。それはエルデやアプリリアージェがいくら望んでも得られないラシフが持つ彼女ならではの力だと言えた。族長として里人達の事を強く深く思う心が生んだ力であった。
エルデにもその暖かさが伝わったのだろう。ガキと呼ばれたにも関わらずその顔は笑顔のままで、そして少しはにかんだ表情さえ浮かんでいた。
「そ、そら良かったな。族長や言うてふんぞり返ってたら誰も癪に障るような事、言うてくれへんやろ? ありがたく思いや」
「ありがたくなどないわ」
「賢者様に対して『お前』とか『ガキ』とか平気で言う人間は普通考えられへんで。さらにその物言い……癪に障る奴に癪に障るって言われても……なあ、クソババア?」
「ク……クソババアだと? まったくお前は汚い言葉を……」
「丁寧に言い直そか?
ええっと……うんこ婆さん?」
「丁寧に言うな!」
「どっちやねん!」
さすがにクソババア呼ばわりには複雑な表情を見せたラシフだが、すぐに表情を崩すと、含み笑いを始めた。
「ふふふ」
釣られたわけではないだろうが、エルデも小さく笑い始めた。
アプリリアージェは……当然ながらいつものように笑っていた。
「ふふ。まあええわ。ウチは賢者様って呼ばれたい訳やない。お前さんかて族長と呼ばれたい為に族長をやってるわけやないんやろ?」
「当たり前だ」
「だったらその証拠を見せなあかんやろ。族長らしい事をやってみせな、な」
「族長らしいこと?」
「癪に障るついでや。明日の朝にでもみんなを集めて里のみんなの前で俺のことを恭しく紹介してもらおか。族長の決定を告げる前にこの地域の現状を『あの』マーリン正教会の賢者様の口から伝えた方が話は早いやろ? 族長様の事は三眼の賢者様の言葉で思いっきり持ち上げたるわ。癪やけどな」
エルデはそう言うと改めてニヤリと笑って見せた。
だがその勝ち誇ったようなエルデの笑い顔は、ラシフにとってもう嫌なものではなくなっていた。それはエルデが仲間に見せる笑顔なのだという事をようやく理解したのだ。
「それこそよけいな世話だ。やると決めたからには里人達の事はこのラシフにまかせてもらおう」
エルデはその言葉を聞いてにっこりと笑うと、うなずいた。
「それはいいが、そもそも里人全員を短期間でファルンガに移送するのは困難であろう? じっくりと手はずを整えて準備もせねばならん。するとどう考えても来年の春を待ってから……」
「やれやれ。ようやく本題に入れそうですね」
しばらくエイルとラシフの会話を黙って聞いていたアプリリアージェだが、ラシフのその言葉を待っていたかのようにそう言ってラシフの言葉を遮った。
「それなら心配には及びませんよ」
アプリリアージェのその言葉は、またもやラシフの目を丸くさせる事に成功した。
「冬が近づいています。エイル君の予想では、この次の双朔月を過ぎると寒波が訪れて本格的に雪が降り始めるそうです。そして訪れる冬はこの里が今まで経験した事もないような厳しいものになるでしょうね」
「つまり冬が来る前に出来ると言う事なのだな?」
アプリリアージェは例の微笑を浮かべてうなずくと、ファルケンハインとティアナを改めてラシフに紹介した。
「この二人がまず動きます。二十日……、いえ。二週間でこの村を猫の子一匹居ない廃村に変えて見せましょう」
「二週間だと?無理だ」
ラシフは目を丸くした。側にいたヒノリとシスカも顔を見合わせた。その様子からもアプリリアージェがいう二週間という期限があまりに短い事が知れた。
「海までは結構な道のりだ。シルフィードに渡るための船も相当の数が必要なはず。三千人からいるのだぞ、この村には。体一つで村を捨てろとも言えぬ。皆、多少の荷物もあろう」
そう言うラシフに、しかしアプリリアージェは手を上げて皆まで言うなと制した。
「シルフィード王国の公爵たる私を『おおぼら吹き』だとおっしゃるのですか」
そう自信たっぷりに言ってみせるアプリリアージェに対して反応する言葉をその夜のラシフはもはやもってはいなかった。
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