第六十話 もう一つの帰還 3/4

「そうだ。あの子は……時々私にも言っていた。『一度でいいからババさまとお母様を連れて海というものを見に行きたいものです』と」

 ラシフは明らかに涙声だった。その場に居たヒノリとシスカも初めて見る族長の涙を複雑な思いで見つめていた。

「『海が見たい』なんてちっちゃい夢やな。でもこの土地でこうして隠れて暮らす限り、それは叶えられへん夢のまた夢なんやろ?」

 エルデはそれまでの厳しい声色を変え、さらに子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調でそう言った。

「……」

「ウチらの修行場のいくつかは、海岸の近くにあってな。ユートはそこに居る時は、暇があれば海が見える場所に行ってたな。みんなに広い海を見せたいって何度も言うてた」  エルデはそこで言葉を句切った。声色を変えるためだったのだろう。数秒置いて続けた言葉は、まるでだだっ子をあやす母親のような穏やかな声で紡がれた。

「なあ、この里の人間は一生海を見たらアカンのか?」

「しかし」

 なおも言い訳を探そうとするかのように言いよどむラシフを見て、エルデは深いため息をつくと、また少し間を開け、思い出したように言った。

「そうそう、話は変わるけど族長は忘れてへんやろな?」

「忘れる? 何をだ?」

 ラシフは思わず顔を上げた。頬に幾筋もの涙の跡があったが、それを隠そうともしなかった。

「俺がマーリン正教会の賢者やっちゅう事を、や」

「言われずとも覚えている」

「ジャミールの一族は単純に異教徒やって言われてるけど、その実態は準マーリン教信徒と言うた方がええんちゃうんか? 世間との長い断絶で、正教会の系列から外れてるだけやろ?」

「そうだ。我らはマーリン正教会の教徒だと思っている」

 憤然とした表情で間髪入れずに答えたラシフに、エルデはニヤリとして見せた。

「それを聞いて安心したわ。そんなら、俺の立場を使うて一つ言わせてもらおか」

「何をだ?」

「マーリン正教賢者会の賢者として、ジャミール族にサラマンダ侯国の退去を命ずる」

「なんだと?」

「まあ、そう言う訳やから、とっとと里のみんなを引き連れてシルフィード、いやファルンガへ行ってもらおか」

「な……何を根拠にお前にそんな命令が出来るのだ?」

 気色ばむラシフにエルデは肩をすくめて見せた。

「何を今更。というか、どうやら全然わかってないようやから敢えて教えたる」

「言ってみろ」

「教会の賢者会の許可なく禁忌の古代ルーンを使うた罪、に決まってるやん」

「な、何だと?」


(ひょっとして彼の言い分は言いがかりではないですか?)

 いままでまんじりともせず黙って成り行きを見守っていたティアナだが、ラシフにそう言いきったエルデの、まるでいたずらが成功した子供のようなうれしそうな顔を見て、たまりかねたように小声で隣のファルケンハインに耳打ちをした。

(いや、あれは明らかに職権濫用というヤツだろう)

(そもそも禁忌のルーンを使ったのはエイル……いやエルデでしょうに)

(いや。禁忌の古代ルーンはそのルーン書を開く事自体が罪と見なされるそうだ。以前エルデがそう言っていた。禁忌のルーンに対する協会側の戒めはそれほどだと聞く)

(ということは最初に開いたのはラシフ族長という事ですか?)

(エルデの事だ。その辺は抜かりなく族長に最初に開かせていたんだろう。なるほど、切り札の仕込みとはこういうものか。ふふ。我らの司令がエルデの立場でも間違いなく同じ罠を張ったに違いないな)

(まさか? エルデはすぐ頭に血が上るような子なのに、そこまで考えて行動してるんでしょうか?)

(いや、今のやりとりも動揺だぞ。思い出してみろ。マーリン正教会の信徒だという族長自らの言質(げんち)を取った後で切り札を出したんだ。いや、あれが手持ちの札が切り札に変わった瞬間……違うな。ただの手札を「切り札に変えた」瞬間だったのだろうな。つまり、あいつの詰めに向かう用意周到さには恐れ入るしかないということだ。たぎりやすいようでいて、行動は緻密きわまりない。沸騰しているように見えて、冷静なんだ)

(なるほど)

(ヤツを見ていると、俺は我らが司令とやり合える人間に初めて出会った気がするよ)

(敵でなくて良かったという事ですか)

(ここまでつきあって奴が俺たちの敵ではないことはもうわかっている。それに)

(それに?)

(最近の司令を見ていると、ヤツとのやりとりを心から楽しんでいるように見える時がある。司令、いやリリアお嬢様は好敵手、もしくは仲の良い喧嘩友達を見つけたのかもしれないな)


 ル=キリア側ののんびりした反応とは裏腹に、ジャミール側の反応は大きく激しいものだった。

「禁忌のルーンですか?」

「まさか、アレをお使いになったのですか、ラシフ様?」

 側近の思わぬ反応にアプリリアージェの方が反応した。

「まさか、まだおっしゃってなかったのですか?」

 ラシフは唇を噛んでいた。

「お前達には後で詳しく説明するが、今朝早く、あのルーンはなされたのじゃ」

「本当ですか?」

「では、この村は安泰なのですね?」

 二人の顔が驚きから喜びに変わったのを見て、ラシフが言葉を発する前にエルデが声をかけた。

「その場にいた俺らが証人や。族長の決心のおかげでルーンはなされ、無事発動した。そやけどルーンが効き過ぎたせいで新たな問題が発生したっちゅうわけや」

「新たな問題ですと?」

 ヒノリが賢者に問いかけた。

「冷えすぎてこの辺一体の気候が大幅に変化する事になってもうたんや。地熱の恩恵が一切なくなり、この冬からこの里は厳しい豪雪地帯に飲み込まれるやろ」

「何ですって?」

 悲鳴のような声を上げたのはシスカだった。

「それで、族長とシルフィードのファルンガ領主との間で里人全員のシルフィードの帰還についていろいろと打ち合わせをやろうというのがこの会合の趣旨っちゅうわけや。せやな? ラシフ族長」

 ラシフは唇を噛みながらも頷くしかなかった。

「改めて賢者として言わせてもらうわ。ラシフ・ジャミールは自らが率いる里人の為に偉大な決意をもって一族の秘伝である古代ルーンの開示を行い、それを全うした。しかし立会人の余としても禁忌の履行を見逃すわけにはいかへん。決まりは決まりとして正しくやるべき事は執行せなあかん。そこに助け船を出したのが故国のシルフィード王国でも有力な貴族ユグセル公爵や。王位継承権の上位にあってこの先も有力な後ろ盾になるかもしれへん人の顔を潰さへん為にも、万難を排して、しかも冬が来る前に早々に事を起こさなあかんはずやろ? それに」

「いや、しかしそれは私だけではなく一族全体の運命にかかわることだ。ファルンガの土地を開墾兵付きで用意するなど、そんな虫のいい話が」

 さすがに我慢できないといった風にラシフはエルデが言い終わらないうちに口を挟んだ。

「私が信用できない、と?」

 今度はアプリリアージェが反応した。

「しろという方が無理だ。そもそもそんな……」

「族長」

 アプリリアージェは口調を改めて言った。

「あなたにはもう一つ義務があるんですよ。お忘れですか?」

「義務?」

「これは族長としてではなく、人としての義務です。いえ、我がダーク・アルヴの一族としての誇りをかけた義務です」

「何の事だ?」

「エイル君の無償の信頼に、あなたは信頼を持って答えねばなりません」

「信頼に……応えろ?」

「エイル君の言葉にお気づきなのではないですか? 私がそれを説明してしまったら、エイル君の機転の利いたお節介が台無しではないですか?」

「……」


 もちろんラシフは気づいていた。エルデはこの場で一切「自分がルーンを唱えた」とは言っていない事を。

 当然ながらラシフが唱えたとも言ってはいないが、普通の人間ならばさっきのエルデの説明を聞けば、ラシフが古代ルーンを唱えたと考えるはずだった。エルデがそう「誤解」するように言葉を選んでいたのだから。

 そこまで考えて、ラシフはようやくあることに思い至った。今朝の待ち合わせに際しエルデは最初から「族長一人で来い」と指示をしていた。それはこういう事をはじめから計算していたと言うことだったのだ。

 ラシフは改めてエルデをみつめ、そして無言のまま目の前にいる公爵を名乗る同族の顔に視線を移すと、喉まで出かかった抗いの言葉を飲み込んだ。

 ラシフのその沈黙を観念した合図だと理解したアプリリアージェは、守るべき物が重すぎて臆病になっている小さな族長の背中をやさしく押す事にした。


「もちろん、あなたたちがこのサラマンダの辺境に移り住んで長い年月がたっていることは重々承知しています。アルヴ系種族としての誇りなど取るに足らないものになっていたとしても仕方がありませんが、もしそうなら我々はあなた方を誇り高きアルヴの血族などとは今後一切認めないでしょう。それはシルフィードの人間だとかサラマンダの人間であるとかそういった問題以前の話です」

 アプリリアージェの突き放したような物言いには、案の定ラシフは即座に反応した。

「アルヴ族としての矜持を忘れたことなどはない」

 矜恃を問われて即座に答える……アプリリアージェはそれでこそアルヴ族だと思った。

 ラシフのその剣幕に、しかしにっこりと笑ってアプリリアージェはこう言った。

「ファルンガには海が見える、いい場所があります。この私の、とっておきの土地です」

 その言葉にエルデが即座にこう付け加えた。

「必要なら俺がマーリン正教会の賢者としてシルフィード国王宛に経緯を含めた紹介状を書いてもええ。賢者法はファランドール国際法や。シルフィード王国でも批准されてるから親書を国王が読んで返答をせえへんわけにはいかへんっちゅうことになってるんや」

 アプリリアージェの口調も、それに続いたエルデのそれも、この日で一番穏やかなものだった。

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