第六十話 もう一つの帰還 2/4
ユグセルという族名を自分の前でアプリリアージェが自ら口にした時、アキラは瞬時に『その時』が来たと判断した。
アプリリアージェの正体がアキラの前で初めて明かされたのだ。
アキラは思った。
相手が言おうがこちらが指摘しようが、ここで正体が明かされることは全て彼女の計算なのだと。
わざわざ首脳会談とも言える場に正体を知らぬはずの者を招き、無防備と言ってもいいような状況でいとも簡単に自分の本当の肩書きを明かして見せたのである。
アキラにしてみれば最初の出会いの時にアプリリアージェが差し出した手鏡にあったユグセル公爵家のクレストが意味する謎を見落とすという失策を犯していただけに、この場で同じ失敗を繰り返す愚は避けねばならなかった。
だから、間髪入れずに対応した。
用意していた対応だ。声をかけたタイミングも不自然ではないはずだという自信があった。
アキラのその問いに答えたのはエルデだった。
横道に逸れて話が込み入ることを恐れたエルデは、アキラではなく族長ラシフの質問に答えるという形で話の軌道修正にかかった。
「族長は『白面の悪魔』の事は知ってるのに、面をとった悪魔の素顔に興味がなかったようやな」
「白面?」
アキラは思わず立ち上がった。これも彼が準備していた行動であった。併せて用意していた言葉を続けようとしたが、エルデが片手をあげてそれを制した。
「『白面の悪魔』の、別の肩書きだと?」
ラシフはアキラの無礼な振る舞いにチラリと睨みを走らせたが、相手にするのはやめてエルデに向き直った。
「この場でもったいぶるほどの、殺戮者のもう一つの肩書きがあるというのか?」
エルデはいつもの人をバカにしたようなニヤリとした笑いを浮かべた。
「ファルンガ領主ユグセル公アプリリアージェ。それがシルフィード王国海軍中将とはちゃう、もう一つのリリア姉さんの肩書きや」
「ファルンガだと? しかも公爵?」
ラシフの目が、これまでにないほど見開かれた。シスカとヒノリも同様で、二人はお互いに顔を見合わせた。
「『白面の悪魔』がユグセル公爵だと言う事を知っている人間などそれほど多くはないぞ、賢者殿」
アキラは、ゆっくりと自分の席に座り直しながら、エルデにそう言った。
「ふーん。で、アモウルも知らなかったと?」
「諸国をただ旅しているわけではない。普通の人間では知り得ないようなそれなりの情報も耳にする。しかし、ル=キリアの司令の正体がユグセル公爵だなどという話は聞いたこともない」
そう言った後でアキラはアプリリアージェをしげしげと見つめながら続けた。
「すまないが、レナンスの私でもさすがにこの状況に少々混乱している」
アプリリアージェは腕組みをしたアキラを見ていつものにっこり顔で事も無げに言った。
「あらあら。聡明なアモウルさんのことですから、私の事などはもうとっくにお気づきだとばかり思っていました」
「いやいや、それはない」
慌てて大きく手を振って、アキラはそうシラを切った。手鏡を見逃した手前、シラは切り通すしかないのだ。
「諸国を巡る旅の音楽家、それもドライアドの公爵符を持つほどの方でしたら、それなりの事情通のはず。まさか我がユグセル家のクレストを知らぬなどと言う事はないでしょう? あなたの言う『あの時』にすでに気づいていてしかるべきだと思っていました」
アプリリアージェにしてみれば、この問いかけは来るべき時の為にとっくに用意していたアキラに対する最後の謎かけであった。
最初は言葉通りアキラの登場は変だとは思った。だがその後同道しながらつぶさに観察をしたつもりだったが、実のところアプリリアージェの目には怪しいそぶりは一切見られず、今回の出来事に至っては身を挺して仲間を助けるほどの動きをして見せたとまで聞き及んでいた。敵であればもうとっくに正体を現してしかるべきだと判断していたのだ。ただ、それを不動のものとするために敢えて網を張ってみたに過ぎない。これから行おうとする大事の前に、たとえ蟻の穴ほどの些細なものではあっても、不安の要素はつぶしておきたかったというところであろう。
アプリリアージェにしてみれば最後の保険のようなものだったのだろうが、アキラにしてみれば同道を始めてから最大の難問を突然突きつけられたようなものだった。
「あの手鏡は盗品だと信じて疑わなかったのだ。あのような特別な品物を入手できる力を持った一団だという宣伝のようなものだと理解していた。素直にユグセル家の方ですか? などと思えるわけがあるまい?」
即座に返したアキラの口調には怒気が含まれていた。もちろん彼一流の演技だったが、アプリリアージェは眉を普段よりいっそう下げて見せた。
それはアキラの返事に満足したという表情だった。
「ここまで来たからには事情の一部は後ほどお話しします。つきましては当面の面倒な仕事を片付けたいのですが?」
アキラはアプリリアージェの言葉に大きくため息をついてみせた。
「よろしく頼むよ。私はまったくとんでもない連中に護衛を頼んでしまったものだ」
「すみません」
アプリリアージェはそう言うと自分達の雇い主に軽く頭を下げて、改めてラシフに向き直った。もちろん、微笑をたたえながら。
「話を続けましょう」
ラシフは自分を見て微笑んでいるアプリリアージェからアキラ、エルデ、ファルケンハイン、そしてティアナへと視線を移した。腕組みをして目を閉じたアキラはともかくとして、ファルケンハインはラシフの視線に反応して小さく頷き、ティアナは大きく頷いた。
その視線が今度はエルデと交錯すると、黒髪のルーナーは言葉で反応した。
「知らんと思うから付け加えといたるわ。ユグセル公爵は現在シルフィード王国の王位継承権第五位や」
ラシフはしかし、もう驚かなかった。肩書きを聞いたからと言って向こうの態度が変わるわけではないことが彼女にはもうわかっていた。
「この顔で、か?」
ラシフはにこにこ笑うアプリリアージェの方を指さして見せた。
「そう、あの顔で」
エルデも同じようにアプリリアージェを指さすとそう言って頷いた。
「ファルンガはのんびり暮らすには本当にいいところですよ」
『この顔』と言われた、目尻の垂れたいつも優しげな微笑を宿す黒髪の小柄な少女は、二人に指をさされても全く反応せず、さらに笑いを深めたように見えた。
「もっとも首府ユーゲンのど真ん中に広大な敷地をよこせと言われても困りますが、火山地帯にあるこの谷間より安全で暮らしやすい土地を皆さんに用意するのは簡単です。もちろん新しい村を開墾するわけですから皆さんにはそれなりに汗を流してがんばって貰わねばなりませんが、ファルンガにはそういった事が得意な州兵もいます。集落作りなどは彼らにも手伝わせましょう。もちろん、お望みならば族長の指揮下で動くように指示しておきますよ」
淡々と受け入れについて説明を始めたアプリリアージェの言葉に対し、ラシフが何かを言おうとしたのを見てエルデは敢えてその言葉をさえぎった。
「忘れたらアカンで。ユートはこの土地を守りたいと言うたんやない。里のみんなを守りたいって言うてたんや。力を付けてみんなが平和に暮らせる助けになりたいってな」
ユートという名前を聞くとラシフは言葉を発しかけていた口を閉じ、視線を床に落とした。
「ユートは」
ラシフは俯いたままで小さくつぶやいた。
「ユートは……お前に二度救われたことになるのだろうな」
そう言うとラシフは顔を上げた。
だが、ラシフのその言葉を受けるべき瞳髪黒色の少年の視線は、垂れ目のダーク・アルヴの少女に向かっていた。ラシフにはエルデがアプリリアージェを睨んでいるように見えたが、はたしてその通りだった。
「『ラウっち』には口止めされていませんでしたから、ちょっと喋っちゃいました」
アプリリアージェはそう言うとエルデにチロっと舌を出して見せた。エルデはその態度を見ると目を閉じて両肩をすくめ、深いため息をついた。
「まったく、皆さん人の過去を詮索するのがお好きなこって」
ラシフはそんなエルデに重ねて尋ねた。
「ユートの話を私にも聞かせてはくれぬか? あの子は修行中、辛そうにしてはいなかったか? あの子の肩に背負い切れぬほどの荷物を預けたのはこの私だ。できれば兄弟弟子であるお主の口からあの子の本音を聞いておきたい」
エルデはすぐには何も言わず、しばらく思案した後に口を開いた。
「ユートはイブロドとルーチェがみんなと一緒に幸せに暮らせる里にしたいといつも言うてた。そりゃもう、こっちが洗脳されるくらいに、な」
「そうか……」
「ああ、そうそう思い出した。そう言えばそんなことも言うてたな」
「何だ?」
「母親に海を見せてやりたいなあ、って」
その言葉を聞いたラシフの表情が急に崩れた。
厳しい表情の象徴のような鋭い目が潤んだと思う間もなく、その両の眼からは涙があふれ、それは太い筋を描いて頬を伝うと族長の装束である黄色い着衣の膝のあたりに次々と落ちていった。
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