第五十九話 帰還 1/4

「本当にあの時は肝が冷えました」


 結局、精霊殿は最終的な調整の為の手直しに思いのほか手間取り、通路結界を構築できる状態に修復し終えたのは正午を大きく回っていた。

 それから『鍵』と呼ばれる、ラシフの血で神痕を描いた紙が所定の位置に寸分の違いもなく設置されると、ようやく「通路」を確保する為のラシフのルーン詠唱が始まった。

 そんなこんなでル=キリアの仲間達が合流できたのは「天中星」と呼ばれるファランドールの太陽がすでに長い影を作り出す時間帯に入っていた。

 約一日ぶりに地上に出て来たエルネスティーネはエイル達の心配をよそに、たいそう元気だった。

 エルネスティーネは迎賓殿に案内されて一息つく間もなく、地震の際「龍の檻」に地割れが発生し、運悪くメリドがその亀裂に飲まれた時の様子を、身振り手振りを交え、彼女にとって良い聞き手であるアトラック相手に興奮気味に説明していた。


「そんな時です。今度は突然ラシフ様が現れたのですが、あの時には一体どうなることかと思いました。まさにあれこそ【一男去って次女、三女】でした」

「そ、そりゃ大変だったね……」

 アトラックはエルネスティーネの話に相づちを打ちながら、助けを求めるようにチラリと上官の方を見やった。だが、アプリリアージェはアトラックの予想以上に薄情であった。彼女はアトラックにあからさまに背中を向けると、ファルケンハインとアキラを相手にこの間の事情を尋ねていた。ティアナはエルデの手伝いをアプリリアージェに指示されて別の部屋にいて、難を逃れていた。

「アトル、私の話をちゃんと聞いてますか?」

 恨めしげな視線をアプリリアージェに注ぐアトラックをなじるようにエルネスティーネが文句を言った。

 彼女にははぐれていた仲間達に話したいことが山ほどあった。だが彼女が一番話したい相手であるエイルはなぜかエルネスティーネとはあまり目を合わせようともせず、ファルケンハインに抱きかかえられたダーク・アルヴ、すなわちメリドの骨折の治療を理由に側に張り付いていた。従って、かわいそうなアトラックは唯一残された人間としてエルネスティーネ監修の長い長い、そして劇的な物語の聞き手になっていた。


 アプリリアージェの指示でエルデ達にあてがわれていた迎賓殿にある一番広い部屋に、メリドは横たわっていた。

「結構時間がかかるのですね」

 正座したままメリドの側で精杖ノルンを構え続けるエルデに、一通りの情報収集を済ませた黒髪のダーク・アルヴが近寄ってきた。

「かなりひどい骨折なのですか?」

 アプリリアージェはそう尋ねると、エルデの横に同じように正座してメリドの表情をうかがった。

 地表に上がってきた時のメリドは骨折に伴うかなりの高熱で意識が朦朧とした状態だったのだ。その様子を見たルーチェはさすがに取り乱して父親に取り付いたが、エルデが大丈夫だからとりあえず触らずそっとしておけと言い聞かせて許可があるまで近づかせないようにした。

 一方、妻であるイブロドはさすがにしっかりしていた。

 彼女は「命には別状はない」というエルデの言葉ですぐに冷静さを取り戻し、治療の手伝いを申し出てラシフの許可をとっていた。エルデとしても断る理由などなく、すぐに夜具の用意を頼んだ。


 アプリリアージェがメリドの床にやってきたときには、そのイブロドはエルデの依頼を受け、薬の材料を調達するためにティアナを従えて部屋を出たところで、その場にはいなかった。

 エルデは隣に座ったアプリリアージェの方に顔を向けると、口元に手を当てて耳打ちをした。

「とっくに治療は済んでるんや」

 アプリリアージェは可笑しそうにクスっと笑うとうなずいた。

「考える事は同じですね。アトルには悪いとは思いますが」

 エルデは頭をかいた。

「さすがは名にし負う戦術家やね」

 二人がそんな会話をしているところへ、次の間にいるエルネスティーネの大きな声が聞こえてきた。

「それはもはや『由々しき鍋に敷物なし』という気分としか言いようがありませんでした」

 アプリリアージェはその声を聞くと右のこめかみを中指で押さえる格好をした。

「もはや原型すら留めていませんね」

「俺は原形を留めてるのか留めてへんのかすらもわからへん。でも」

「でも?」

「ネスティが元気や、いうのはようわかる。正直言って、ホッとしたわ」

 エルデはそう言って小さくと笑うと、それまでずっと握っていた精杖ノルンをそっと床に置いた。

「骨はもう完全にくっついて元通りや。でも解熱はせえへんことにした。骨折から一昼夜以上経ってるそうやしな。今無理に熱を下げると本来持っている免疫反応まで収まって、感染症が起きるかもしれへん。そうなると面倒や」

「驚きですね」

「いや、熱が出るのには訳があるんや。そやから無理矢理下げたらあかんのは常識やろ?」

「いえ」

 アプリリアージェはゆっくり首を横に振った。

「以前言ったことがあるかもしれませんが、私は一応医療関連の知識もそれなりに持ち合わせていますが、古今東西、骨折をあっという間に直すハイレーンなど聞いたことがありません。我が国のバード達がこの事を知ったら大騒ぎでしょうね」

「そっちか」

「ですから、骨折がもう元通りになっているなんて夢にも思っても見ませんでした」

「ハイレーンはハイレーンでも、ただのハイレーンとちゃう言うてるやろ?」

「そうでしたね」

 おどけて胸を反らせるエルデにアプリリアージェは素直にそう言ってうなずいた。だがすぐに珍しく少し険しい顔をしてエルデの目をじっと見た。

「な、なんやねん?」

 急に様子が変わったアプリリアージェの表情に、エルデは思わずたじろいで少し上体を反らした。

「あの時はラシフさまが居たので聞けなかったのですが」

 アプリリアージェは膝をずいっとエルデの方に向けた。

「?」

「あなた……つまりエルデ君がルーンの逆行現象の回避で気を失って、その後目覚めた時、最初に言った言葉です」

「ああ、あれか」

「『大丈夫じゃない』とはどういう事ですか?」

「……」

「もしかして、エイル君に関係がありますか?」

 エルデは目を見開いてアプリリアージェを見た。その目は素直に驚きに満ちていた。だがすぐにその顔は苦笑に変わった。

「リリア姉さんが期限付きとは言え、敵やのうてウチらはホンマに幸運やな」

「それはお互い様です。それより、あれから一切エイル君が表に出ない。私の記憶ではこんなに長い間エルデのままだったことは今までありませんでした」

「今更隠しても仕方ないから言うけど」

「はい」

「エイルの意識が戻らへんねん」

 その一言で、エルデにはアプリリアージェの特徴である下がった目尻が一瞬上がったように見えた。

「それは……どういう解釈をしたらいいんでしょう?」

「このまま目覚めへんかったら、エイルの人格は消えるやろな」

「それじゃあ……」

「ずっと呼びかけてる。でも返事はない」

「それって」

「いや、まだ手はある」

 アプリリアージェが心配しているのはエルデにもよくわかった。だからこそ何も言われたくなかったのだろう。言葉を遮るようにそう言った。

「手、ですか?」

 エルデはかすかにうなずくとゆっくりと頭を下げた。

「少し、面倒をかけるかもしれへん。姉さんにはこれからそれを頼もうかな、と思ってたんや」

「そんなこと」

 アプリリアージェはすっと伸ばした手をエルデの膝に柔らかく置いた。

「今更私があなた達の寝首をかくとでも?」

 エルデは顔を上げて力なく苦笑した。

「リリア姉さんは照れ隠しの方は得意種目やないみたいやな」

「それもお互い様ですね」

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