第五十八話 認証文 2/7
「先ほど申しあげた通り、私にはわかりません。今回、詠唱を始めるにあたり、彼は自分の体を守るための強化ルーンを一切唱えることなく、あっさりと始めたように見えました」
「それが?」
「用心深い彼にしてはあまりに無造作に事に臨んだのです。この意味がわかりませんか?」
「意味、だと?」
「私にはわかります。彼はあなたを信用していたのですよ。ルーン書が完本であることを。つまりルーンを詠唱しきれることを、です。そしてそれを請け負ったあなたの言葉を」
「解せぬ。私が彼を嫌っておる事は知っていよう。それなのになぜ、そう簡単に信用したのだ?」
「彼の口癖は『誰も信じるな』です。けれど、実際に彼はそれを言葉通り実行しているとはとても思えない」
「甘い、と言うことか」
「ええ、甘いのです。彼の警句はこのファランドールでは正しい。しかしそれを彼自身が実行出来ない。つまり彼は甘すぎるのでしょう。でも」
「でも?」
「だからこそ、です。私達はそんな彼にだから無防備な背中を預けることができるのですよ」
「……」
「彼はあまり人と関わらないようにしているようです。ですが、一度関わってしまった相手に対してはこちらが呆れるほど無私な人間になってしまうのです」
「無私?」
「関わってしまった相手を放っておけないたちなのでしょう。自分の身の危険すらどこかへ忘れてしまうほど深く関らずにはいられない性格なのです」
アプリリアージェはそこで言葉を句切ると、懐から何かを取り出した。そしてそれをラシフに差し出した。
「これは?」
ラシフは差し出されたものを手にすると不思議そうにアプリリアージェを見た。
「我々は賢者エイミイの従者ではありません。従者だと思い込んでいたあなたには自己紹介の機会もいただけませんでしたが、まあそれは賢者エイミイが仕組んだことでもありますからとやかく言うつもりはありません」
「それとこれと何の関係があるのだ?」
ラシフは手にした白い面とアプリリアージェとを見比べた。
「ですから、ここで自己紹介をさせていただきます。我ら三人、そして龍の檻とやらに閉じ込められているもののうち一人は世間ではこう呼ばれています。シルフィードの『ル=キリア』と」
アプリリアージェの言葉にラシフは大きく息をのんだ。
「私は国王アプサラス三世陛下より直々にル=キリアの司令を拝命しているアプリリアージェ・ユグセル。軍における階級は中将です」
ラシフは白い面を握ったまま絶句していた。
「世界情勢の情報収集はなさっているようですから、ル=キリアの名はご存じでしょう?」
ラシフはゆっくりうなずいた。それを見るとアプリリアージェは満足そうににっこりと笑って見せた。
「では私の二つ名の方はご存じでしょうか?」
ラシフはごくりとつばを飲み込んで、しゃがれた声で答えた。
「は、白面の悪魔」
「光栄ですわ」
「天下に悪名高いル=キリアがなぜ正教会の賢者と」
「そこはそれ、いろいろとございまして。それより私たちと賢者エイミイは同じ目的を遂行する為に契約を交わして一緒に行動はしていますが、そもそも双方はいつ敵同士になってもおかしくない立場にあります」
アプリリアージェはそこまで言うと確認するようにラシフを見た。ラシフは言うことはわかる、という風にうなずいて見せた。
「当初はそういう緊張状態から始まった我々の関係なのですが、賢者エイミイはすぐに我々を仲間として接してくれるようになりました。わかりますか? 彼はいったん自分の仲間だと思ったら最後、本人は自覚していないようですがそれはもう笑ってしまうほど隙だらけで無防備な状態になるのです」
「何が言いたいのだ?」
アプリリアージェはラシフの問いに悲しそうに首を横にふった。
「ここまで言ってもまだわかりませんか? だからこそ、事が起こった場合、私たちは何のためらいもなく彼に背中を預けることが出来るのです」
「名にし負う最強部隊の司令官がこの少年に背中を預けると言うのか」
「ええ。そして、私が言いたいのはその彼が今回はあなたに背中を預けたということです。その意味まで私に言わせますか?」
「……」
「彼はあなたに会う前に、もうすでにジャミールと関わっていたのですよ」
「ユートの事か」
「何度も言いますが、ここを訪れたのは本当に偶然です。他意が入り込む余地などありましょうか?」
アプリリアージェの強い調子に、ラシフは目を伏せた。
「彼はもうあなたを、いえジャミールの里人全員をすでに身内だと思ってやってきたようなものなのです。さらにユートの妹、ルーチェとも知り合ってしまいました。そのルーチェが大切だと思っている人は彼の価値観では仲間なのでしょう。それに、里の入り口であなたをかばって現れた子供達。あの真剣な顔で両手を広げた子達を見つめる彼の優しい眼差しに、あなたは気付いていらっしゃらなかったようですね。でも私は一瞬だけ見せた、あの何とも暖かい表情を忘れません。もちろん、口と態度が思い切り悪いのは否定できませんが、あれは彼なりの照れ隠しのようなものだと考えられませんか?」
「そう……なのか?」
「そろそろ私が本当に言いたいことをご理解いただけませんか?」
「何を理解しろと?」
アプリリアージェは側に控えているアトラックに目で合図し、抱きかかえたエイルの体をその大柄なデュナンの青年に預けると、自分はラシフの正面に立った。
「認証文を教えて下さい。さもなければたとえエイル君が今回の事であなたを許しても……いえ、彼は間違いなく口汚くののしるでしょうが、言葉とは裏腹に絶対にあなたを傷つけるなんて事はしないでしょう。けれど我々ル=キリアが彼と同じ価値観で生きているわけではない事をそろそろ理解するべきだと言っているのです。彼は我々にとって大切な仲間です。しかしあなたはその狭量故に生じたつまらぬ猜疑に支配され、この小さな、私たちの大切な仲間を姑息極まりない計略をもって死の淵に誘った」
「それは」
口ごもったラシフはアプリリアージェの眼差しの強さに耐えきれず、思わず視線を外してうつむいた。
「事実でしょう? こんなことになってもなお彼は間違いなくあなたを許すでしょうが、私は許しはしません。ですから私はこの場であなたを切り捨てて、早々にこの里を去りたい気分なのです。そもそもこの里がどうなろうと我々が知ったことではないのです。我々は単に賢者エイル・エイミイの気まぐれにつきあっていただけなのですから」
「なんだと」
「あ、心配しなくても大丈夫です。私達はご存じの通り人殺しの専門家です。短い間でしたが食事と床の世話にもなりましたし、すでに知らぬ仲でもありません。もちろん苦しまないように一瞬で楽にしてあげますよ」
そう言っていつもの微笑をうかべたまま、アプリリアージェは小首をかしげて見せた。
その時、髪の間に見える金色のスフィアがきらりと光った。
(何を考えているのかわからない女)
ラシフがアプリリアージェを見た第一印象がこの時反復された。
優しく穏やかに微笑んでいるようにしか見えない同族であるダーク・アルヴの美少女。特徴的な目尻が下がった表情はあどけなく、今の氷の刃のような台詞がこの人物から発せられたなどと言っても、当事者以外は誰も信じないだろう。
もとより、この小柄な黒髪の少女が何百人、あるいは何千人もの人間を手にかけてきたなどと言ったら頭を疑われるに違いないとさえラシフは思った。
「血生臭い仕事は、賢者エイミイの意識が戻らないうちに済ませておきたいところです」
アプリリアージェが続ける淡々とした脅迫に、ラシフは唇を噛んだ。
「私を殺して……里の人間はどうするつもりだ?まさか」
アプリリアージェはラシフの言葉に、微笑ではなくニッコリと笑って答えた。
「もちろん、後顧の憂いがないようにするだけです。ル=キリアの噂はご存じでしょう?ここにいるのは、ル=キリアでも選りすぐりの三人です。そして何よりあなたは私の能力の片鱗をごらんになっている」
「あ……」
ラシフはアプリリアージェの言葉で、里の入り口で最初に出会った際、示威行為として落とされた雷の事を思い出した。
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