第五十八話 認証文 1/7
詠唱者が認証文とは違う言葉を発した時点をもって、履行中の古代ルーンは中断された。
エルデは中断と同時に例の第三の眼を開くと、その赤い瞳で夜が明けたばかりの空を三つの視線で貫くように睨んだ。
そしてその姿勢のまま、まったく違うルーンの認証文が早口で唱えられた。
「ギガストローマ」
続いて持っていた精杖の色を変えた。
「スクルド!」
呼びかけに応じて一瞬で白くなった精杖を掲げ、早口で唱えた呪文は少し長いものだった。
「ファルモニアード・デルエージュ・アーシャス」
『おいっ!』
【やかまし、気が散る!】
エルデがルーンを唱え終わった瞬間、その場に居合わせた全員が異変を感じた。
皮膚がざわつく感覚だ。
その場に間違いなく何かの異常、それも想像も出来ないほど大規模な異常が起こっていることを告げる予感のようなものだった。
ルーンの暴走……それも封印されるほど強力な古代ルーンの暴走とはどんなものなのか、その場にいた誰もが想像すらできなかった。その恐ろしさを知っているのはおそらくエルデただ一人だったであろう。
そしてそのエルデの周りにはすぐに劇的な変化が起こった。
スクルドと名付けられた白い杖を空にかざすエルデのはるか頭上に、真っ黒な雲で出来たような渦が巻き始めていたのだ。
「これがリバウンド……ルーンの逆行現象か」
悲痛なラシフのうめきを消し去るように、空に向かってエルデは叫んだ。
「すべての精霊よ、余の下に集え。主の徴である余の目を見よ。されば持てるすべての手と足と尾と翼をあらん限りに伸ばし、広げ、余の命に従え。そしてそれこそがお前たち精霊の存在意義だと知るがいいっ!」
黒い渦はますます成長し、細かくルーンを唱え続けるエルデの精杖の遙か上空を中心として竜巻のようにうごめき始めていた。それを見上げるエルデの表情は厳しく、ざわついた髪はまるで静電気を帯びたように逆立ち始めていた。さらには、そよとした風しかなかったはずなのに、彼が着ている服さえもまるで下から風にあおられているかのようにはためき揺れていた。
エルデのその様子を見てアプリリアージェは「おかしい」と思った。
(本人には返らないはずではなかったの?)
アプリリアージェの言う通り、髪や服装に変化が起こっているのは第三の眼を開いた賢者エイミイだけだった。アプリリアージェとて肌にざわついた雰囲気は感じるが、それ以外に特に変化はない。
(もしや)
黒い竜巻はますます肥大化して、まるで圧縮される様にどんどん高度を下げていた。それはまるでエルデに向かって襲いかかるように見えた。
アプリリアージェは後ろに控えているはずのテンリーゼンを振り返った。その視線を受けたテンリーゼンは少し顔を上げると小さくうなずき、両手を広げた。
すると、その場に白い光を放つ半球状の空間が生じた。
それは風のフェアリーであるテンリーゼンが持っているあの能力、アクラムの森での会戦時にルルデ・フィリスティアードがエレメンタルとして発現した時に、その暴走を止め、さらにはウーモスでアトラックをアプリリアージェの雷から守った光の結界だった。
白い光を放つ結界はその場の全員を取り込んだところでその膨張を止めた。
目を閉じて短い認証文をいくつも唱え続けているエルデには、しかし苦悶の表情が走り始めた。
テンリーゼンの結界の中にいるにも関わらず、髪と服の揺らめきは収まるどころかだんだんと激しくなり、まるで暴風雨に曝されているかのような状態だった。
歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべながらもエルデはルーンの詠唱をやめず、精杖スクルドを空に向かって高く掲げ続けた。
その様子を見てアプリリアージェは悟った。テンリーゼンの光の防御壁は、少なくともこの古代ルーンのリバウンドに対しては無力である事を。
エルデは目を開けた。そしてついに断続的に唱えていた一連のルーンの最後を締めくくるかのように、ひときわ大きな声で認証文を唱えた。虚空に向かって。
「フェルヒメル!」
エルデのルーンに、その巨大な黒い竜巻のようなうねりはすぐに反応した。渦状になっていた霧のようなものが、形を崩すと一斉に拡散したのだ。
あっという間に空全体がその黒い霧に覆い尽くされ、明けかけていた東の空はファランドールの自転が逆行したかのように一瞬で夜に覆われた。
この後すぐに何か大きな変化が起こる――訪れた闇の中で、誰もがそう予感した。
だが、意に反して劇的な変化は何も起きなかった。
テンリーゼンの結界が放つ光でお互いの姿は見えるが、エルデの姿にも変化はない。
「どうなっているんです?」
たまりかねたアプリリアージェの問いに、しかしエルデは答えなかった。一旦閉じた目を開けて黒い霧に覆われた虚空をじっとみつめているだけだった。
「黒い霧が薄くなってきました」
アトラックが指さす方角が確かに白んでいる。
「晴れてきましたね」
アプリリアージェの言う通り、世界を覆い尽くしたかのように思えた黒い霧が、徐々にその密度を低めているようだった。
「成功……やな」
エルデはそうつぶやくと、目を閉じたままでその場に座り込むようにして倒れた。
「エイル君!」
一番近いところにいたアプリリアージェは、手に持った古代ルーンの本を放り投げると、風のフェアリーらしく目にもとまらぬ早さで倒れた賢者の側に駆け寄り、ゆっくりと抱き起こした。
だが、目を閉じたエルデはその時すでに意識がなく、体は汗でびっしょり濡れ、アプリリアージェの腕に伝わる体温は異様に低かった。
「何が起こったんですか?」
自分に向けて放り投げられた本を手に、遅れて駆け寄ってきたアトラックがそう問いかけたが、アプリリアージェにも正確な状況などわかるはずもない。すべてがわかっている人間がいるとすれば、それはエルデ本人のみであろう。
アプリリアージェはアトラックの問いに首を横に振った。
だが、アプリリアージェにも確実に一つだけ言えることがあった。
「今わかっていることは、私たちは助かったということだけです」
「それって……ルーン中断の逆行現象をエイルが自分で引き受けたという事ですか?」
アプリリアージェはうなずくと、テンリーゼンをみやった。それを合図に、周りの光の結界は消滅した。
「リーゼ、大丈夫ですか? かなり長時間でしたが」
アプリリアージェの問いに、テンリーゼンは頷いてみせた。結界の維持には力を使うという事なのであろう。だが、テンリーゼンは息を乱す事もなく、無表情のままで佇んでいた。アプリリアージェはその様子を見て安心したように小さくため息をついた。
「それで、我らが賢者殿は?」
アプリリアージェが抱きかかえるエイルの顔をのぞき込んで、アトラックはそう訪ねた。
「わかりません。気を失っているだけならいいのですが」
「火山活動を抑えるほど強力な古代ルーンだぞ。その子供は、その逆行を受け止めたというのか?」
一行の側に青ざめた顔のラシフもやってきた。
「ラシフ様からすれば彼はまだ子供かもしれませんが、私たちはこれほど頼りになるルーナーを見たことも聞いたこともありません。我が国が誇るバードの中にも彼を超えるルーナーがいるとは思えません。あなたもご存じだと思いますが、この子はあの《真赭の頤》の弟子にして師を超える力を持つルーナーだそうですよ」
「『自称』であろう?」
アプリリアージェはうなずいた。
「それはそうです。でも今の力を見たのなら納得できませんか? あなたも彼と同じルーナーなのでしょう?」
「しかし、大賢者を超えるなどと」
アプリリアージェはため息をつくと、エイルの額にかかった髪をそっと払いのけてやった。
「あなたは自分の目で見たことを信じられない人間なのですか?」
「私の理解を超えておる」
「では敢えて言いましょう。あなたは、いえ、あなたとジャミールの里人はこの少年に命を救われたのです。それが今起こった事実です」
「それは……」
「これだけ言ってもまだ認証文を教えてもらえませんか? 彼がジャミールの秘宝と言われる古代ルーンを欲しがっているわけでは無いことはいくらなんでももうおわかりでしょう? そんなルーンなど別に彼には必要なものではなく、ましてや欲しいなんてきっと小指の爪の先ほども思ってもいないでしょう」
「このルーナーにとってはそんな力を持つまでもない、という事か」
アプリリアージェの話を聞いてラシフは考え込むように腕を組むと、うつむきがちに目を閉じた。
「それで」
ややあってラシフは目を開くとアプリリアージェに問いかけた。
「その子……賢者エイミイ殿は大丈夫なのか?」
アプリリアージェは首を振った。
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