第五十七話 古代ルーン 3/3

「まあ、そういうわけやからきちんと本のページをめくりながら詠唱をせなあかんし、俺の意識はほぼ全部本に集中する。どれだけ高位のルーナーやろうとその間は無防備や。俺も例外やない。それにこの本の頁数を見て分かる通り詠唱時間も相当長い。その間、俺の座標軸固定の妨げになるものがあったら姉さん達の方で排除してもらう方向で」

「なるほど。その件については了解しました。でも座標軸固定が必要なのですか? いつもあなたは動きながらルーンを詠唱しているではないですか?」

 アプリリアージェの問いにエルデはしまったという顔をしたが、すぐに真顔に戻った。エルデのその小さな動揺を艶やかな美しい黒髪を持つこのダークアルヴの戦士は見逃さなかった。しかし、エルデはアプリリアージェが今感じた疑問をあっさり解消して見せた。

「さすがに観察力が鋭いな。その通りや。種明かしをすると、俺でも初見のルーンは法則に則らなあかんねん。ただし、二回目からは他のルーンと同様に認証文だけでルーンを発動させられる」

「なるほど。そういう事でしたか。でも、どちらにしろあなたは不思議なルーナーですね」

 アプリリアージェはそう言ってにっこり笑った。

 そこへ二人のやりとりをすぐ横で聞いていたラシフが口を挟んできた。

「認証文だけでルーンを使える、だと? ばかな」

 エルデの代わりにアプリリアージェが答えた。

「族長も彼が一瞬でルーンを発動させるのをすでに何度かごらんになったでしょう? 彼はそういうルーナーみたいですよ」

「『みたいですよ』と簡単に言われてもな。そんなルーナーなど聞いたことがない」

 アプリリアージェはラシフの言葉をやんわりと遮るように胸のあたりに片手を上げた。

「私も実際に彼に会うまでは聞いたことも見たこともありませんでしたよ。でも彼は現実にここにいます」

「むう……」

「ついでに言うと、お聞きの通り彼は歩きながらルーンを唱えられるのです。我々の持っているルーナーの常識など彼の前では意味がありません。いえ、彼はひょっとしたらルーナーなんかではないのかもしれませんね」

「……」

「でも、今の彼の話だと今回については座標軸固定が必要のようです。初見のルーンを習得する際には彼であってもファランドールの法則に則らざるを得ないようですね。言い換えるなら、一度習得したルーンについては前文も契約文も端折れて、かつ座標軸固定のくくりすらも消えてしまうという事です」

「――信じられん」

「信じるも信じないも、真実はそこにあるのですから仕方ありません」

「そう言われても」

「どちらにしろ彼はあなたが考えているような一般的なルーナーの範疇からは大きく外れた存在なんですよ」

「外れた……存在?」

「ふふ。面白いですよね。世の中には信じられないような事がまだまだあるものなのですねえ」

 二人のやりとりを珍しく黙って聞いていたエルデだったが、長くなりそうだと思ったのだろう。業を煮やしたように割って入った。

「あんまり人の秘密をペラペラ喋るんは関心せえへんな」

「あら、秘密だったんですか? だったらそう言って下さらないと」

「フン」

「もちろん、しゃべる必要のない相手に対しては私は死んだ貝のように無口になりますよ」

「それ、口が堅いんか柔らかいんかわからへんやろ?」

「そうですか?」

「はいはいわかった、もうええ。ほんなら行くで」

 エルデは精杖を持たない方の手を大きく振って無駄話の終了をそう宣言すると、改めてアプリリアージェの持つ本に正対し、なんともあっさりと詠唱を始めた。


 その古代ルーンは古めかしい革表紙の本に約五十頁にわたって書かれていた。特に急ぐ必要もない場面だけに、普段は早口でルーンの認証文を唱えるエルデも、前文に続きゆっくりと、そしてはっきりとした大きめの声で契約文を詠唱しだした。すると、不思議な事に途中からエルデの詠唱に合わせて文字が鈍く光り出すのを、その場にいた人間は目撃することになった。

 詠唱が終わった文字は光り続け、未詠唱の文字はそのままだった。頁を繰っても詠唱済みの頁は光ったままだ。「ルーンで作られた特殊な本」というのはまさにその通りであった。

 エルデが言う「キュアのグラムコール」で綴られたその古代ルーンの意味が理解できる人間はそこには一人も居ない。彼らにとっては無意味な音の羅列がただ続くだけだった。

 

「まったく、アイツはどれだけ優秀な頭脳をしてるんだか」

 アトラックがその様子を見て、うらやましそうにつぶやいた。横に並んでエルデの様子をじっと見守っているラシフはしかし、それには答えなかった。

 アトラックは気にせずラシフを話し相手に決めると続けた。

「あれでエクセラーやコンサーラじゃなくて実はハイレーンってんですからねえ」

「何、ハイレーンだと?」

 ハイレーンという言葉にラシフは反応した。

「え? そうですよ。少なくとも本人はそう言ってましたし、実際彼の治癒能力は相当なものです」

 ラシフは目を見開いてアトラックを睨んだ。

「そんなことは聞いておらん。ハイレーンだと? そんな奴があの強力な古代ルーンを使えるわけがない」

 アトラックは気色ばんだラシフを目の前にして肩をすくめて苦笑してみせた。

「大丈夫ですよ。あいつはその辺のエクセラーが束になってもかなわない程のルーナーなんですから」

「しかし、所詮ハイレーンなのだろう?」

 アトラックは口の前に人差し指をもってきた。黙れと言う合図だ。

「あいつに『所詮』、とか言うとえらい目に遭いますよ」

「――」

 

 エルデの前で人間書見台の役目を負っているアプリリアージェは二人のやりとりを聞いていて脳裏に一抹の不安が過(よ)ぎった。ラシフの動揺が伝わってきたのだ。

 だがそうしている間にもエルデの長い詠唱は淡々と進んでいった。やがて書かれているほとんどの文字が鈍い光を発して、とうとう本全体がぼうっと淡く輝きはじめた。

 そしてとうとう最後の頁が開かれた。でたらめな順番に頁が割り振られた本だが、どうやら最初と最後は装丁通りのようだった。エルデの詠唱に呼応して最後の頁に書かれた文字がすべて光ると同時に詠唱がすっと途切れ、その場に静寂が訪れた。

 契約文の詠唱がすべて終わったのだ。

 アプリリアージェを中心としたその場の全員が固唾をのんで見守る中、彼女が持つキュアのグラムコールで書かれたルーン書が輝きを増しはじめた。

 エルデはその様子を眉一つ動かさずにじっと見つめていた。

 だが……。

 その後には何も起きなかった。

 少なくともエルデの口からは最後に唱えられるべき認証文はまだ詠唱されていない。

 そうこうしているうちに古代ルーンが書かれた本の輝きが鈍くなり始めた。それを見たエルデはそれまでの不動の状態から一変、慌ててアプリリアージェが持つ本の頁を繰ろうと手を伸ばしたが、契約文を詠唱し終わった本は、最終頁からどの頁にも戻れなくなっていた。のり付けされたかのように一体化していて、頁を繰る事が不可能なのだ。

 次にエルデがしたことは裏表紙を見たり表表紙を逆さにしたり、背表紙を撫でてみたりと、まるで手探りででたらめな作業だった。

 つまり、エルデは本当に焦っていたのだ。その間に本の光はだんだん鈍くなっていった。

 エルデは手に取った本をアプリリアージェの手に戻すと、険しい表情でラシフの方をにらみ据えた。

 アプリリアージェはエルデのその様子を見て、ようやく事態を察した。

「認証文が出ないのですね?」

 アプリリアージェの問いかけにエルデはラシフを睨んだまま無言でうなずいた。

 詠唱者であるエルデは認証文を唱える前に声を出すわけにはいかないのだ。

 アプリリアージェはもちろん自分の役割をよく理解していた。

「完本では無かったのですか?」

 ラシフに向かってそう問いかけた。

 だが、ラシフは首を横に振ってみせた。

「完本だ」

「じゃあ、なぜ」

 普段とは違う強い調子の声で詰問するアプリリアージェに、ラシフは平然と答えた。

「これでこの本は完本なのだ。認証文は口伝で族長だけが知っている。ジャミールに残るルーン書はすべてその体裁だ」

「何ですって?」

「あんな子供の言うことを多少なりとも信じた私が愚かだった。いくら高位のルーナーだと自慢しようが、たかがハイレーンなどに我らが大切な古代ルーンを教えてなるものか。リバウンドで消えて無くなれ」

「なんと言うことを!」

 ラシフの答えにアプリリアージェの特徴的な太めの眉がつり上がった。緑に輝く目も大きく見開かれ、普段は垂れた目尻も心なしか眉と同じようにつり上がっているように見えた。

 もちろん、それは怒りの顔だった。

 アトラックはアプリリアージェのそんな顔を初めて見たと思った。


『ああ、くそ……ここで裏切られるとは』

【言うたやろ、これがファランドールなんや。ちゅーか、しもたな。ハイレーンはこのお婆ちゃんには禁句やったんか】

『どうするんだ?』

【お前も知ってるやろ?いざとなったら、俺はルーンを強制的に中断するやり方を会得してる。そやけどそれは術の暴走を外部に分散する方法やから、術の大きさを考えるとここにいる全員がおそらく……】

 

「認証文を!」

 アプリリアージェは叫んだ。

「あなたは知ってるのでしょう? それを早く伝えて下さい。賢者エイミイはルーンの中断ができる術者なのですよ」

 アプリリアージェの言葉に、ラシフの顔色がさっと変わった。

「中断だと?」

 アプリリアージェはラシフを睨み据えたまま早口で怒鳴った。

「あなたは彼だけを切り捨てたつもりなのでしょうが、それは大間違いです。彼はいざとなったらルーンの強制中断を行うでしょう。でもそれは彼によると契約文により構築した術を消し去るものではないそうです。ただ、自分に逆行、俗に言うリバウンドが及ばないようにルーンに対する絶対防御結界を張ることだと聞いています。そんなことになったら我々、いやこの辺り一帯がどうなると思いますか?」

「逆行するルーンは……」

「行き場を失って暴走するだけ、だそうです」

「なんだと?」

 アプリリアージェは目を伏せた。

「術の力がどれほどのものかわかりませんが、火山活動を止めるだけの力があるのでしょう? 私たちがここで倒れるだけでなく、このままではこの里全体がつぶれる可能性があるのですよ? 強力なルーンならリバウンドも強力だということは子供でも想像できる理屈でしょう?」

「詠唱中断ができるとは……こいつはなんというルーナーなのだ」

「早くっ」

 

 だが、ラシフの決心は間に合わなかった。

 エルデはついに絶望の台詞を口にした。

「もう遅い」

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