第五十六話 キュアの本 4/6
その笑い声を耳にしたルーチェは思わず顔を上げて黒い髪と黒い瞳の少年の顔を改めて見つめた。うつむきがちなエルデの瞳はとても寂しそうで小さな笑い声をたてたはずの口元は片方だけが持ち上がっていた。その表情を見て、ルーチェは今耳にしたものが、笑い声ではなく、すすり泣きではないかと錯覚した。
その微笑はエルデの心の深淵にある闇のようなものだった。自分の正体を目の前に突きつけられたような気分に陥る時に生じる投げやりな苦笑。
『どうした?ちょっと変だぞ』
【いや、ホンマに何でもない】
『そうか』
【それにしても片目が見えへんのはさすがに距離感とかわかりにくいな】
『だな。慣れるまではいろいろと気をつけないとな』
【そやな】
「ああ、すまんすまん」
エルデはすぐに真顔に戻り、ルーチェの頭にそっと手を乗せるとゆっくりとした声で切り出した。
「聞きたい事があるんやけど、ええかな?」
ルーチェはこくりとうなずいた。すでにエルデに対する畏れに取り込まれている彼女の中には、エルデの言葉に対して拒否するという選択肢は存在していなかった。
エイルがエルデに変わった際の雰囲気の変化はルーチェにはそれほど大きな影響を与えたと言う事なのであろう。
「俺はユートに恩返しをしたい」
できるだけ落ち着いた声で、エルデはそうルーチェに話しかけた。
え?と小さく声を出すと、ルーチェはエルデを驚いたような顔で見つめた。
エルデはそんなルーチェに、にっこりと笑いかけながら続けた。
「ユートとは兄弟弟子やった。あいつは次期族長候補で、族長の孫やっていうのは聞いてた。それに、妹が居るとも言うてたな」
「兄様の事をご存じなのですね」
エルデはうなずいた。
「もうずいぶん昔の話やけどな」
「私は兄が里を出た当時、まだ子供でした。兄がやろうとしている事はわかっていましたが、恥ずかしい事に事の重大さについては全く認識していなかったのです。修行中の兄はどんな様子だったのでしょう?」
「間違いなく優秀なルーナーやった。不幸な事故がなければ今頃はこの里を救う事ができてたやろな」
「おそれながら、賢者様は先ほど『恩返し』とおっしゃいましたが?」
「うん」
エルデは目を細めると、遠くを見るようにルーチェから視線を外した。
「歳が離れてた俺の事を気に掛けて、ずいぶん可愛がってくれた。そのお礼をしたいんや」
「お礼、ですか」
「ユートは里を救うためにルーンの修行をしてた。賢者になるのが目的やのうて、高位のルーンが使いこなせるだけの力を得るために来たと言うてた。つまり、ユートの代わりに俺がその役目を引き受けたい、という話や」
ルーチェはびっくりしたように目を見開いた。
「でも、あれは」
「知ってる。古代ルーンなんやろ?それも門外不出で代々の族長にしか伝えられへんっちゅう話やな。あ、もちろんユートがそんなことをぺらぺらしゃべったんやのうて言葉の端々に出る情報を元に俺が組み立てた推理に過ぎひんのやけど。どや?間違ってないやろ?」
「その辺で我が孫娘を解放しては下さいませぬか」
ルーチェが返事をかえそうと口を開いた時に、床に届こうかという長さの薄茶色の髪をふわりと揺らしてラシフが先触れもなくふいに現れた。それを見たアプリリアージェは感覚を研ぎ澄まして部屋の外の様子をうかがったが、やはり供を連れている気配はなかった。入り口に待機させているのかも知れないが、どちらにしろ珍しい行動だと判断していいようだった。
「ご病気か?」
エルデが床に入っているのを見ると、ラシフは眉をひそめて怪訝そうに尋ねた。
「ああ」
エルデは肩をすくめた。
「どうやら俺は地震が苦手らしいんや」
そう言うと恨めしそうな顔をアプリリアージェに向けた。
「具合が悪いようでしたら医者を呼びますが?」
「必要ない。もう治った」
エルデはそう言って首を横に振った。ルーチェはエルデとラシフを見比べながら、自分はどうしたものかと思案していたが、ラシフがエルデの横に少し離れて正座するのを見て、自分は後ろに下がる事にした。
その様子に気付いたアトラックが手招きすると、ルーチェはそれまでこわばっていた顔を俄にパッと輝かせ、自分を招いた大柄なデュナンのそばに滑るようにやってきた。その様子をアプリリアージェがいつもの微笑みを浮かべながら、じっと見ていた。
「お仲間は無事のようです。我が里の兵士長と共にいるのを確認しました」
ラシフはルーチェの様子をあまりおもしろくなさそうな顔で追っていたが、それについては何も言わなかった。
「そうか。戻ったのか?」
エルデの問いにしかしラシフは首を横に振った。
「結界通路を開いたわけではなく、向こうを覗いただけです。先ほども申し上げました通り結界通路を開くには精霊殿の力が必要なのです。修復は急がせておりますので今しばらくお待ちを」
「さっき言うてた鍵はどうなったんや?」
「そちらはもう整えました」
「そうか。さっきの地震で民家のほうも被害が出てるんとちゃうのか?」
エルデのそれは「精霊殿もいいが、そちらの修復も大丈夫か?」という問いかけだったが、ラシフは要らぬ世話だという風に首を振って見せた。
「ご心配には及びません。もともと地震の多いこの土地。よほどの事がない限り大きな損害は出ない造りになっております」
「そやのに精霊殿は壊れた」
「あれは……」
ラシフは痛いところを突かれて唇を噛んだ。
エルデの指摘はもっともだった。先ほどの地震はここのところでは最大規模の地震だった。民家にもそれなりの被害が出ていたのだ。そもそも精霊殿のような大事な建物は一番の地震対策がとられているはずであった。
(やはりこちらの考えるような下手な小細工やごまかしはきかぬ相手ということか)
ラシフは観念することにした。
慣れぬ自分の駆け引きが通じる相手ではないと判断したからだ。
もちろんその判断は正しいと言えた。ラシフの認識外ではあるにせよ先天的な駆け引きの才能があるとしか思えないエルデとは別に百戦錬磨のアプリリアージェという別の存在もある。外界と断絶して外交という言葉とはおよそ無縁だったラシフが敵う相手でない事は明らかだった。
「あと一時ほどで食事の用意が調います。隣の座敷に用意をさせますので今しばらくお待ち下さい」
「ふん」
エルデは腕を組んだ。ラシフには右側に座られたため、その表情を見るためにすこし顔を曲げる角度が必要になった事が少し煩わしかったが、それよりもこの里の人間が敵にならないという保証を取り付けられるかどうかが解らない今、ラシフの訪問の意図が気になっていた。
「そんな事をいいに来たわけやないんやろ?族長が先触れも供もなくわざわざ出向いてくるというのはなんか重要な用件があるからやないんか?」
アプリリアージェは小さくうなずいた。全く同意見だった。
彼女は個人的にラシフに尋ねたい事がいくつかあったのだが、エルデと状況把握が共有できている事が解ったので、この場はしばらくエルデに任せる事にした。ただ、念のために部屋の外への注意を怠らないようにテンリーゼンとアトラックには目配せをした。
「それでは単刀直入に申し上げます。この里へ来られた目的を伺いたい」
ラシフは伏せていた目を上げてエルデと正対するとしっかりとした口調でそう告げた。
「さっきも言うたやろ。そもそも偶然なんやって。近くまで来たさかい寄って見よか?っちゅうノリで足を向けただけや。それやのにいきなり殺されかけるとかあり得へんやろ?いや、はっきり言うけどその辺の奴らやったら全滅やろな」
「スカルモールドを退けた、ということですな」
エルデはうなずいた。
「「エア」の中で、ですか?」
「ルーチェが言うてたやろ?「エア」の中でもルーンを使える賢者がおったんや。もっともこっちには凄腕の剣士がおるからルーンがのうても時間さえあればスカルモールドを行動不能にする事自体はできるんやけどな」
「賢者様というのは「エア」でもルーンが使えるのですか?」
エルデは首を横に振った。
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