第五十六話 キュアの本 3/6

「あいつに代わるよ。ルーチェに回復ルーンもかけないとね」

 エイルはそう言うとルーチェの方を見て寂しく笑って見せた。ルーチェは今目の前の賢者がいったい何を話しているのかが理解できず、ただきょとんとするしかなかった。

 だが、目の前で上半身を起こしている賢者が纏う空気のようなものが一瞬でガラリと変化した事は彼女にもわかった。それまでの愁いを帯びたどことなく脆さを感じるような人間が一瞬で人を寄せ付けない氷のような凍気を放っているような錯覚にとらわれたのだ。

 いや……。

 ルーチェは自分の全身に鳥肌が立っているのを自覚した。

 それを知って思わずごくんと音を立ててつばを飲み込んだ。錯覚などではなく、今感じたものは恐怖なのだとその時確信した。

 自分を見つめるその黒い瞳に宿る力は強く、そこには表現しがたい狂気のようなものが潜んでいるのではないかと思えるほど深く輝いていた。

 エルデの変化を感じていたのはルーチェだけではなかった。アプリリアージェとアトルも今までにないエルデの雰囲気に戸惑っていた。

「案ずるな、ダーク・アルヴの幼きルーナーよ」

 意志とは無関係に思わず後ずさったルーチェを見てエルデは落ち着いた声でそう言った。古語ではない。南方語、すなわちファランドールでの標準語でそう言った。

「余を見て本能的に恐怖を感じたのであろう?」

 そう言うエルデの眼差しはさっきと代わらず強く、見た事もない不思議な黒い瞳はじっと見つめていると吸い込まれるようだったが、それでもその落ち着いた声を聞くと鳥肌が少しずつ治まってくるのを感じた。

 ルーチェは首を横に振って見せた。

 エルデはそのルーチェの様子を見ると、苦笑して見せた。

「子供の方が敏感なんやろな。ちょっと油断するとこうなるんや。かんにんな」


【エイル?】

『ん?』

【起きてるか?】

『ああ。なんか一瞬気が遠くなったけどな。さすがに疲れたのかな』

【そっか。気をしっかり持って大好きな妹の事でも考えとき】

『はあ?なんだよ、それ?』

【なんでもええねん】

『お前、時々わけがわからん事をいうな。って、時々でもないか』

【まあ、そうかもな。で、マーヤは元気か?】

『知るかよ。いや、元気でいてくれないと困るけどな』

【美人、なんやったな】

『何度も言ってるだろ、妹だからいいけど、あれが他人だったら美人過ぎてビビるくらいなんだぜ?少なくともこっちから声なんかかけられないだろうな。まあ、だから兄貴としてはいろいろと心配なんだよ。こうしている間にも……』

【ふーん】

『ふーんって、お前なあ』

【聞いてるこっちが恥ずかしなる位の兄馬鹿振りやな】

『何なんだよ』

【べつにぃ】


「もっと近くへおいで」

 エルデはそう言うとルーチェにそっと左手を伸ばした。

 ルーチェは差し出されたその手とエルデとそしてアトラックの顔を見比べた。そしてそのアトラックがにっこりと笑ってうなずくのを見ると自分も小さくうなずき返してみせ、すぐに視線をエルデに戻して手が届くところまで近づいた。


 アトラックはルーチェのその姿を見ながら、どうにも複雑なものを感じていた。

 彼はなぜか自分がルーチェに懐かれているのを自覚していたが、懐かれる理由がよくわからなかった。

 ラウ・ラ=レイやファーン・カンフリーエ達が見守る中でルーチェが目を覚ました時に、最初に彼女の目に映ったのが、覆い被さるようにしていたアトラックの顔だった。

 ぼんやりとした目に映ったアトラックは、目が合うとすぐににっこり笑いかけた。そしてこう言ったのだ。

「心配すんな。俺たちは敵じゃない」

 その声は何の抵抗もなくルーチェの心にすうっと吸い込まれるように染み渡った。

「むしろオレはお前の味方だ。だから怖がる事は何にもないぞ」

 次のその言葉もストンと心にまっすぐ落ちてきた。ルーチェはもやがかかったような記憶を回復するよりも前にアトラックの二つの言葉を先にはっきりと心に刻みつける事になったのだ。

 ルーチェはその言葉の主である優しい笑顔に向かってふらふらと手を差し伸べていた。アトラックはその手を迷わず取ると、ルーチェの体をそっと抱き起こした。

「怖がる事はないさ。俺たちはお前に何もしない。だから安心して目を覚ませ」

 アトラックには年の離れた妹や弟が多くいた。言ってみれば子供をあやすのは得意技の一つだったのだ。だから真っ先に声をかけて安心させようとしたのだが、それがルーチェの心のツボにはまったのであろう。

 ジャミールの里ではルーチェは次期族長として扱われており、母親でさえ手放しの愛情を垂れ流しにするような事はもはやなかった。

 だがアトラックはそんな背景を知るよしもない。

 ただ、子供だと思っていた少女が腕の中で微笑むその顔に、アトラックはどうにもただの少女とは思えない色気のような物を感じて、その後ずっと戸惑っている自分の気持ちを持て余しつつあった。

 

 「冬眠」からさめて徐々に正気を取り戻したルーチェは周りにいる人間を見渡した。その中の三人もの人間が三眼を持っていたことにまず驚かされた。

 それはエルデの指示で全員が賢者である事をルーチェに対して視覚的に示すためにそうしていたのだが、それは図に当たり気を失う直前の記憶がすべて戻る頃には彼女は冷静に現状を把握する事ができていた。周りの人間が敵ではないという事がわかったからである。ルーチェも真赭の頤と出会った事があり、賢者が三眼を持つ者である事を知っていたのだ。

 そしてその話の間中、ずっと自分の肩に手を置いてくれていたアトラックの手の温もりを好ましいものだと感じて、いつしか無意識にアトラックの温もりを追ってしまうようになっていた。

 ルーチェは賢者を除くと里人以外の人間を見た事も、ましてやデュナンを見たのもこの時が初めてだった。つまりはアトラックに対する大いなる好奇心と自分に注がれる笑顔からくる安心感が、男性に対する好意に変わるのはルーチェの中ではあっという間であったと考えられる。

 だからエルデの「気」に圧倒され、恐怖に駆られたルーチェは思わずアトラックの腕を抱き、その顔を見てしまったのだ。

 だが、もちろん目の前の賢者に恐怖する理由はルーチェにはない。

 自分が恐怖心を感じた事を恥じ入りながら、彼女はのばした自分の手をエルデがそっと取るのをじっと見つめていた。

「ファーデュ・アーデ」

 ルーチェが気づかないうちに取り出していた三色の精杖を右手に持ち、いつものようにそれを水平にかざすように構えると、エルデは相手によく聞こえるようにはっきりとした声に出してルーンの認証文を唱えた。

 そして唱え終わった後で、握ったルーチェの手の甲に精杖ノルンをそっと当てた。

「終了。これで眠気やけだるさはもう無いはずや」

 ルーチェはエルデにそう言われて思わず手を頭に当てた。確かに今までのぼんやりした気分が消えていた。気を抜くとおそってくる眠気もなく、頭も軽い。

 自分に冬眠ルーンがかけられていたとは聞いていたが、その後遺症のせいか目覚めてもどこかふわふわぼんやりしていて油断するとスッと眠りに入るような状態だったのだが、それが回復しているのは間違いないようだった。


「ありがとうございます」

 ルーチェは思わずそういうと深々と頭を下げた。

「かしこまる必要はないで。ウチらはもう友達やろ?」

「滅相もございません、賢者さま」

 ルーチェはそう言ってかしこまったまま顔を上げなかった。


 森にある「現世の道」で目を覚ました時に見たエルデの姿は異形の三眼だった。だがさほど恐ろしいとか神々しいとか、ましてや邪悪などという感情はわかなかった。三人の賢者のうち、一人エルデだけが笑いかけてくれていたし、その笑いには普通に人としての優しさが感じられたからだ。

 だが、今目の前にいる賢者はあの赤い第三の目こそ開いてはいなかったが、何かが決定的に自分たちとは違う気がしていた。恐ろしさはもう感じていなかったが、それでもおよそ「友達」などと言う関係に居られる訳はないのだと理性ではなく本能が確信していた。

 エルデはルーチェのその態度を見て小さくため息をついた。ルーチェを威嚇するつもりなど全くなかったのだが、どうしようもない怒りを制御する事ができないまま、エイルから体を預かった事が悔やまれた。

 すでに人間関係ができているアプリリアージェやアトラック、それに人間関係は全くできてはいないものの長く一緒にいるテンリーゼンの三人については特に問題はないにしろ、ルーチェがエルデに心を開く事はもはやないだろうと思うと寂しかったのだ。

 だが、そこまで考えた時、エルデは思わず小さな笑いを漏らした。その笑いは小さいが声に出た。

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