第五十六話 キュアの本 2/6
そうこうしているところへ、ひょっこりとルーチェが現れた。母親のイブロドとともに居住区へ向かっていたが、大きな揺れがある程度収まったと判断したのだろう。客人の様子を見に現れたのだ。
「賢者様はどうされたのですか?」
一目見て普通の様子ではない事はルーチェにもわかった。小さなうめき声も聞こえている。
しかしアプリリアージェはこの状況下における対処法をすでに構築済みだった。想定される様々な状況下で最良と思える対処法を高速に、それでいて綿密に構築できる才能、それが「希代の名将」と呼ばれる所以であった。たとえそれは軍団や師団を指揮する大きな軍事作戦などではなく、こんなちっぽけな状況であっても、それを等しく行える才能こそが偉大なのである。
それは本当に綿密な対処戦術で、ルーチェに対して語りかけるアプリリアージェ自身の台詞までもがすでに彼女の頭の中には用意されていた。
「ルーチェにお願いがあります」
そのセリフをアプリリアージェは読み始めた。
「はい、なんなりと」
マントの下の「賢者様」を気遣うような眼差しで見ながら顔を上げてそう台本通りに返事をしたルーチェににっこりと微笑みながら、アプリリアージェは台本に書かれた次の台詞を読んだ。
「実は賢者様は大変な地震恐怖症なのです」
「え?そうだったんですか」
驚くルーチェ。
台本通りの素晴らしい演技……いや、反応だった。
「ええ。でもその事を賢者エイミイは大変気にしておられます」
そして顔をルーチェに近づけると、声を潜めて耳元でささやいた。
(普段がああいったちょっと偉そうな態度の方です。この事がバレると威厳がなくなりますからね)
(あ、それはそうですよね)
つられてルーチェも同じようにひそひそ声で応えた。
「そこで相談なのですが、あまり人目に付かず落ち着ける場所はないでしょうか」
「だったら、迎賓殿がすぐそこです。もともとばばさま……いえラシフ様もそこにご案内しようとしていたのだと思います」
ルーチェが指さす「迎賓殿」と言われる高床式の木造の建物は今居る大通りの向こう側に位置していた。確かに近い。ここからだとざっと二百メートルもないだろう。
「ありがとう。では勝手に上がらせてもらっていいですか?それから我々が入る際、誰にも見られないようにあらかじめ人払いをお願いしたいのですが」
「人払い?」
「ええ。賢者様ともあろう方が、付き人に抱きかかえられて入るなどというところは兵には見せられませんからねえ」
「うふふ。そうですね。では先に行って命じておきます。少し経ったらお越し下さい」
ルーチェはそう言うと、余震が続く中、中腰になりながらダーク・アルヴらしい軽い身のこなしで迎賓殿の方へかけていった。それを見てアプリリアージェはアトラックに声をかけた。
「アトル」
「はい」
「合図があったら、エイル君をマントにくるんだまま抱きかかえて一気にあの迎賓殿に入って下さい」
「了解です」
「念の為に言っておきますが」
「わかってますとも。エイルが暴れようがもがこうが、火を吹こうがあの建物に入るまでは容赦しません」
アプリリアージェはアトラックの言葉を聞くとにっこりと微笑んで見せた。
「口をふさぐのも忘れないで下さいね。火を吹かれると大変です。短時間ですから息などできなくても大丈夫でしょう」
「合点です、首領」
「うふふ」
『うふふ、じゃねえっ!』
二人のやりとりを聞いていたエイルは焦った。この状態で抱きかかえられるなど言語道断、いや、絶体絶命だった。もしそうなれば地獄のような痛みにさいなまれるのは確実なのだ。
エイルにとっては彼らの会話は救出の為の手はずなどではなく、拷問の相談に興じる悪魔の姿に等しかった。そしてエイルにとってそれは断じて阻止しなければならない計画と言えた。
だが。
言葉にすることができなかった。痛みに耐えて意識を保つのが精一杯だったのだ。
痛みの波が小さくなった時、「やめろ」と言おうとしたが、その時頭上からアプリリアージェの拷問開始を告げる声が非情に轟いた。
「今です」
次の瞬間に全身の神経という神経を無数の釘で打ち付けられたような激痛が体全体に走り、エイルはあっけなく意識を飛ばした。
意識を取り戻した時には、あたりは薄暗くなっていた。どうやら建物のようだった。それだけ認識した直後に、再びあの痛みが走り、エイルは小さなうめき声とともに再び意識を失った。
エイルが次に意識を取り戻したときには、幸いな事に痛みは去っていた。発作が収まっていたのだ。だが、視界がはっきりしなかった。
高い板作りの天井が見えた。
ぼんやりとした明るさだが、物を識別できないというほど暗いわけでもない。天井の板張りだけでなく、柱や壁もすべて木でできていることから、そこが洞窟の中などではなく木造の建物の中なのだと言う事はわかった。寝かされているのは比較的広めの板張りの部屋で、そこに厚手の敷物が敷かれ、エイルはどうやらその上に横たわっているようだった。体の上には薄い布団のようなものもかけられている。
いったん目を閉じる。
そして再び開ける。
エイルが目覚めたことにいち早く気づいたのだろう。左側にアプリリアージェが微笑しながらのぞき込んでいるのが彼には見えた。
その横にいるのは銀髪の少年……何かものすごい模様が顔に見える……そう、テンリーゼンだった。その肩にはちょこんと丸く茶色いぬいぐるみが……いや、それは「マナちゃん」に違いなかった。
「気がつきましたか」
アプリリアージェが声をかけた。
その声の主とは反対側にいる人物に顔を向ける。アトラックだ。こちらはアプリリアージェと違い、やや心配そうな顔でのぞき込んでいる。
「驚いたぞ。もうなんともないのか?」
そう声をかけるデュナンの青年の横では、茶色の長い髪をお下げにしたダーク・アルヴの少女が思い切り心配そうな顔でのぞき込んでいた。
「目が……」
ルーチェは開かれたエイルの目を見て驚いたようにそうつぶやいた。
横になっていた賢者の髪の色が茶色から黒に変わっていた事にも驚いたルーチェだが、茶色い瞳が黒く変わっていたのには、さすがに息を呑んだ。
『今の反応……失神している間に髪の色と目の色が元に戻っているみたいだな』
【それはええけど、エイル、もう一回ゆっくり目をつぶってみ】
『いや、もう決まりだろ』
【くそ!】
「体に異変は、ありませんか?」
何も返事をしないエイルに、アプリリアージェが再度そう声をかけた。
エイルはいったん目を閉じるとそれをゆっくりと開き、上体を起こした。アトラックがそれを補助する。
「ごめん、リリアさん」
「え?」
「ルーナーの方は問題ないんだけど、剣士の方は、もうあてにしてもらえないかもしれない」
顔を見合わせるアプリリアージェとアトラック。
「右目が、やられた」
目覚めたときから視界が狭かった。
左側にいたアプリリアージェ達の姿はそのままで見えたが、右に座っていたアトラックとルーチェの顔は、頭を少し右に曲げなければ視界に入らなかった。
右手を開き、目の前に持ってくると、それをゆっくり右側に移動させてみた。そしてあるところでそれを止める。
「この辺で消えるのか」
そう言うと手を下ろして小さくため息をついた。
「そうですか。やはりあの呪法の発作でしたか」
気の毒そうな声色でアプリリアージェがそう言うとエイルはうなずいた。
「覚悟はしてたつもりなんだけど、片眼が死ぬとさすがに凹むな」
アプリリアージェは小さくため息をつくと、アトラックを見やった。
こう言う時に慰める役としては自分ではなく彼が最適だと思ったのであろう。何か慰めろと水を向けたのだ。
さすがにアトラックにも事態は飲み込めていたが、とは言えいったいどう声をかけていいのかわからなかった。何を言っても慰めにはならないような気がしたのだ。
アプリリアージェもその辺の気持ちはアトラックと同様だったが、彼女がアトラックと違うのは相手を心から気の毒に思っていようと、冷静に判断ができる本質を持っている事だった。
「でも良いのですか?ルーチェもいるのですよ」
片眼が見えなくなった事をルーチェの前で言ってしまうということは、ラシフ達に知れるという事だった。相手の出方がまだよくわからない現状において味方の弱みを知られる事は不利になる事はあっても有利に働く事にはならないと考えるのは自然な事であろう。
だが、エイルはわかっているという風にうなずいた。
「ああ、エルデがそうしろってね」
「なるほど」
エルデにはそれについて考えがあるという事を聞いて、アプリリアージェはひとまずは安心した。
ジャミールの里や賢者との関わりなど、アプリリアージェ達にはおよそ考えが及ばない次元でエルデが思いを巡らせているのは確かなようだった。勝手知らぬ里にあっては知識のある者に従うべきだというのも又アプリリアージェの戦術の一つだった。
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