第五十六話 キュアの本 1/6


 アプリリアージェは大きく息を吸ったところで、それを止めた。地面に崩れ落ちているエイルを見て反射的に大声で呼びかけようとしたのだが、強靱な理性に裏打ちされた計算が働き、それをかろうじて押さえつける事に成功した。

「リーゼ」

 代わりにすぐ横にいる仮面をつけた長い銀髪の小さな仲間に小声で呼びかけた後、類い希なこの知将は滑るようにエイルに近づくと、脇に従うように寄り添った。そしてルーンで茶色く染まった頭を、自分のマントを広げて隠すように覆った。

 それに一瞬遅れる形でエイルの反対側の脇を同じように固めたテンリーゼンがマントで下半身を覆った。


「エイル君!」

 大きな地震に右往左往しているジャミール兵の様子を視野に置きながら、アプリリアージェはマントの下に隠れたエイルに小さくそう声をかけた。

「ぐっ」

 エイルは目を固く閉じ、歯を食いしばった状態で自分を自らの両腕で抱きかかえるようにしていた。その顔は蒼白で、額には玉のような汗が浮かんでいた。

「大丈夫ですか?まさか連中にルーンをかけられたのですか?」

 アプリリアージェの問いかけに何かを答えようと口を開けるが、それよりも苦痛を耐えることに必死と言った格好で、とても会話ができる状態ではなさそうだった。ただ、唯一の意思表示として頭を横に振っていた。


【くっ、こんな時に!】

『エルデ、オレに代われ』

【代われって、何で?】

『いいから。オレに考えがある。だから早く代われって』

【何の考えか知らんけど、ムチャ辛いねんで】

『わかってる。そんなことわかってるさ。だから言ってるんだ。とにかく急げ』

【ようわからへんけど、わかった】


 エルデから体の支配権を受け取ったエイルは、変わった瞬間に思わず大きなうめき声を上げると大きく身をよじった。

 それを見たアプリリアージェは背中をさすろうとしてエイルにその小さな手を触れたが、そのとたん、ピクシィの少年はやけ火箸でもあてられたかのようにのけ反り、さらに大きなうめき声を上げた。

「――ごめん、発作……なんだ。触らず……そのままに……しといてくれ」

 苦痛に身もだえながら、とぎれとぎれにそれだけを言うと、エイルはまた口を真一文字に閉じて歯を食いしばった。

「わ、わかりました。発作と言う事は、それはじきにおさまるんですね?」

 エイルはその問いに小さくうなずいて見せた。

 アプリリアージェにはエイルに何かの緊急事態が起こっていることだけはわかった。同時にエイルの言葉から、それが見た目の重篤さとは裏腹に生き死ににすぐかかわるようなものではなさそうだという推理もできた。

 エイルは「発作」と言ったのだ。彼にとっては既知の症状であり、「発作」なのだからやがては治まるという意味であろう。

 だが、それは同時にアプリリアージェにある事も推理させることになった。

(とびきりのハイレーンが唱えるルーンでさえ対処できないもの、という事ね)

 エイルはすでに痛みの感覚を失っていると言っていた。あの忌まわしい呪法のせいで。それはあらゆるルーンを寄せ付けぬ呪法で、もちろんエイルにはその解法はなく、唯一術者である《真赭の頤》(まそほのおとがい)によってのみ取り除く事ができるという。

 で、あれば。

 アプリリアージェは羽織っていたアルヴスパイアのマントを脱ぐと、エイルの上にそっとかけた。体を「くの字」に曲げているエイルは小柄なアプリリアージェのマントでもすっぽりと覆い隠す事が可能だった。

 アプリリアージェが今とるべき行動は一つ。時間を稼ぐ事。

 もちろん、エイルが元の状態に戻るまで、である。それがどのくらいかかるのかはわからないが、どれだけかかろうとその時間を捻出する事が現状において彼女が掲げうる唯一の目的だと言う事は確かだった。


 アプリリアージェは自らの脳を常態の何倍も活性化させて打開策を構築していった。

 相手、つまり族長であるラシフ・ジャミールが完全に味方だと言う事がわかってさえいれば、問題はなにもない。だが現時点でその選択肢を選ぶ事はあり得なかった。

 エイルも先ほど、それとなくアプリリアージェにその事を確認して見せたではないか。直接言葉には出さなかったが、エイルはこういったのだ。

「時間稼ぎの可能性がある」と。通路結界を作るのに時間がかかると言った時だ。それはアプリリアージェ自身も感じていた事だった。だからあの時エイルは「油断はするな」ときわめて婉曲な表現で隊を掌握する立場にある者に警告をして見せたのだろう。いや、念を押したと言うべきか。

 もちろん、敵ではない可能性のほうが高い。嘘を言っている訳ではないかもしれない。だが、少なくともラシフが我々一行を快く思っていない事は間違いない。

 アプリリアージェにしてもその原因の一つには荷担しているわけで、ただ相手だけを責めるのは都合が良すぎるとは思っていたが、今になって思えばエルデのラシフに対するあの傲岸不遜な態度は相手に本当の悪意があるならあからさまにさせておこうとする戦略かもしれなかったのだ。

(いや、それはないかな)

 アプリリアージェはそこまで考えて自分の意見を苦笑とともに否定すると、改めて現状を俯瞰した。

 これでひとまず自陣の切り札ともいえる賢者の異変を彼らの目から隠す事は出来た。無理矢理ではあるが、地震に備えて従者が最大の防御の姿勢を取っていると思ってくれるに違いない。少なくとも苦しみもがいている姿を見せるよりは幾らかましなのは間違いなかった。

 あとはエイルの発作が治まるのを待つか、あるいはエイルが何らかの指示をするまで待機するしか手はなかった。触れられると辛い状態である以上、闇雲に動かすことは得策とは言えない。この場で待つしかない。

 後は「もしも」の際の為の陣形だ。

 エアが消えている今なら、ここにいる三人は普段の力が出せる。スカルモールドが出てこなければという前提ではあるが、ここの兵士であればエイルをかばいながらでも三人でしばらく持ちこたえる事はできそうだった。問題は遠隔攻撃ができるルーナーの存在だが、どちらにしろ戦闘が始まってしまえば苦しもうが悶えようがエイルを移動させるしか手はない。移動を続けていればルーンの直撃を受ける事はないだろう。その上でルーナーらしき者を各個撃破していけば何とか活路はありそうだった。

 

「こちらは心配はありません。それよりも里の人の救助作業を優先してください」

 ようやく「客人」の様子に気付いた一人の兵が近づこうとするのを、アプリリアージェはそう言って追い返した。

「何かあれば指示してください。それまでは私がなんとかします」

 アプリリアージェの呼びかけに、エイルは歯を食いしばったまま、うなずいた。


【なあ、どうした?何か考えがあったんちゃうんか?おい、エイル!】

『前の時も……こんなに辛かったっけ?』

【「喰らいの呪法」が発動したんやから、こんなもんやろな。それより対処法って何や?】

『ないよ、そんなもん』

【え?でもさっき】

『少なくともお前はこの痛みから解放されただろ?ならオレの対処法は大成功だ』

【まさか】

『賢者様に恩を売っとくと何かいいことがありそうだしな』

【あほ!そんなもんあらへん!】

『それから戦術的には、お前がこの痛みでヘロヘロになるよりオレがその役を請け負う方が合理的だろ?お前がいつも言っている事じゃないか。きっとリリアさんもそう言うと思うぞ』

【エイル……】

『あ、あと恩を売るってのはちょっとだけホンネな』

【くそ。そのまま悶えて死んでまえっ】


 エイルは痛みであまり思考が働かない状態だったが、この痛みは何に例えたらいいのだろうかと考えていた。後でアプリリアージェ達に説明する時に適切な表現があれば理解して貰いやすいだろうなと思ったのだ。

 要するにそんなどうでもいいような事を真剣に考えるほど思考力が低下していたと言うことなのだが、もちろん当のエイルにはそこまで冷静な自覚が出来る状態ではなかった。

(まるで……全身が歯の神経になって、それを針山で突き刺されまくっているような痛みだよな)

 フォウで虫歯の治療をした時の記憶が甦ったエイルは、そんな事を考えて涙を流しながら身もだえるしかなかった。出来ることはただ痛みに耐えること。そしてそれが去るのを待つ事だけであった。

 どんな麻痺・覚醒ルーンも受け付けない、「継続する失神寸前の痛み」……いや、痛みで失神したとしても、その痛みで覚醒してしまう、それほどの痛み。痛みはいずれは去る。だが、去った後にはまた一つ、何かの感覚が失われているのだろう。

 ――それがエイルの背負った「喰らいの呪法」による浸食現象だった。

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